三角みづ紀、第8詩集「どこにでもあるケーキ」を読んで
「どこにでもあるケーキ」とは、あの苺ショートケーキみたいなケーキをさすのだろうか。送られてきた
その詩集は、丁寧に幾重にも包まれていて、白い手のひらに載るぐらいの箱が、パラフィン紙に包まれた入っていた。蓋の中央には、13歳の少女、焼きあがったばかりのケーキを想像する絵が、画家、塩川いづさんの手で描かれている。パラフィン紙を透して見える、その絵は、今よりも、もっと、鋭
敏で、図太く見えて、も、繊細で、そっとそっと手にしないと、つぶれてしまいそうな気配を
感じる絵だ。今の「詩人、三角みづ紀」そのままを、表現しているようにも見えてくる。ページを繰ると、そこには、あまいイチゴの香りがただよってきそうな、ほ
おばりたくなるような、13歳の詩人、三角みづ紀の言葉たちと、ちょっ
とだけ、はみ出した、13才の少女の横顔に出会うことができる。詩の中の「あいちゃん」は、13才の詩人、三角みづ紀のライバルだったのだろうか。素直になれない心のうち
が垣間見える。そのころ、みんなが体験している、ありそうな、なさそうなことを、上
手に詩っている。わたしにも、その頃のま
ま変わらない、その頃のままの存在に
、何年たっても、変わることのできないわたしが腹立たしく思えて、その怒りを、露わに詩にしたことのあるの
を思い出して恥ずかしくなった。さいごの「曇り硝子」は、読み終えて
感じたのですが、このタイトルの「曇り硝子」の「曇り」の2文字と、漢
字の「硝子」の4文字が合わさって、一篇の詩、いや、詩集全体を 、丸ごとあたたかく包み込んでくれているような、不思議な力を感じま
した。パラフィン紙もどこか似ていますね。「この小さな部屋を つくったのは わたし自身で どこでも
猫になって 丸まることができるから 普段から持ち歩いている」。きっ
と、気配を感じたら、わたしの前からだって、素早く「ぽっぽ」に扮し
て丸まってしまうのだのだろうと、想像してほほが緩んだ。でも、そう
してばかりいられないことを、彼女は知っている。知っていても出来な
いわたしとは違う。とにかく、読み返していると、
その光景に、ふっと、そのころの自分のことを重ねてみたりして、同じ
ようなことや、全然違うことを思い出させてくれる楽しくなる詩集だった。だいたい、猫に、「ぽっぽ」なんて、汽車みたいな名をつける13歳の少女が、他にいるだろうか? 「ぽっぽ」と呼んだ時鳴き声が一瞬止んだから、とは言っているけれど、猫を前に、汽車みたいな名が浮かんでくるなんて普通ではない。言葉の天才、、、。そんな言葉が浮かんでくる。
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