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「経験」 佐竹宏太

こんにちは、今回のnoteを担当させてもらいます。
亜細亜大学 法学部 1年佐竹宏太(帝京長岡高校)です。最後までよろしくお願いします。

「経験」

僕は14年間サッカーをしています。
出身は愛知県です。
その中でも1番良い経験をした高校生の話をしたいと思います。長いですが最後まで読んでいただいたら幸いです。

僕は高校から地元を離れて新潟県へ行きました。
最初は浮かれ気分で入学をしました。
1年間ずっとCチーム生活でした。
高校最初の1年はトップチームを諦めていた自分でした。
冬は高校サッカーをやっている人なら誰もが憧れる選手権があります。もちろん応援でした、初めて近くで見る光景にずっと鳥肌が止まりませんでした。来年絶対にピッチに立つと決め、その日から目標を立てて努力をすることを決めました。
生まれて一度も努力という努力をした事がなかった自分が初めて決めた目標です。

目標は『スタメンを取るまで誰よりも最後までグラウンドに残って誰よりも努力する』これを書いてベッドの横の壁に貼ったのを覚えています。Cチームが無理だと思う人が大半だと思いますが、ただ上手くなる事だけ考えていたら可能不可能なんて全く気にしていませんでした。
3時間弱の練習をBチームCチームの誰よりも声を出してやっていました。
その後はナイターを消す時間まで自分に足りないところ、練習中ミスをしたプレーを記憶して事細かいプレーなどの練習を壁を使ったり誰かを捕まえてやっていました。

2ヶ月くらいが経過した頃、Aチームに入りました。
Aチームの練習はプレースピードが3倍くらい早くて最初はついて行くのに必死でした。
特にトップチームの選手と練習すると頭の回転が違いすぎて自分の頭が熱くなり、頭がショートするのが分かります。
練習後は身体より頭が疲れるというケースの日が多かった事を覚えています。
Aチームに入り1ヶ月くらい経ちリーグ戦が始まると3節からスタメンで出させてもらえるようになりました。ですが実力で出ていると言うよりは期待だったり、周りの選手のポジションを考えて自分が入っていたのが事実です。
インターハイでも準決勝以外全ての試合スタメンで起用してもらいました。目標であった『スタメンを取る事』を達成した自分は次の目標がなかなか見つからず夏が終わると停滞を感じていました。
その流れのまま左足の中足骨を折ってしまい、当然思ったプレーは出来ずにスタメンは取られ折れた骨のままプレーしていました。
結果メンバーには入れたものの選手にはなれずに県大会が終わり全国大会でも選手にはなれませんでした。選手権はベスト4に終わりました、またピッチ外で2年目の選手権も終わらせてしまい。今でも僕のサッカー人生の中で1番悔しかったと思います。

3年生になるとコロナでの自粛生活が始まりました。その時に監督に大学サッカーや選手権の事を考えるとサイドハーフやった方が良いと思うと言われ、センターバックサイドバックしかやった事なかった自分は不安しかありませんでしたが、チームの為、自分の為にサイドハーフへのコンバートを決めました。

無事に全国が決まり、それから自分のポジション確立するためにチーム内での切磋琢磨が始まりました。
メンバーに入り15番で選手権にでました。
1回戦2回戦と先制点を取られた状態で後半から自分が入るというパターンみたいになっていて、名前を呼ばれるのがとても嬉しかったです、後半からピッチで待っているみんなも『佐竹入ってきたぞ勝てるぞ』と笑いながらピッチに迎えてくれて選手権のピッチはサッカー人生で1番幸せな時間でした。辛い練習、努力して良かった報われたと思えた瞬間でした。
準決勝で負けてしまい2年連続でベスト4で終わってしまいましたが、『おつかれさま』『感動した』『ありがとう』などの沢山の温かいメッセージを地元の友達やファンの方や家族からもらい自分に負けないで良かったと思わせてもらいました。
3年間周りを見れば世代別の代表がゴロゴロいてプロ内定選手もゴロゴロいてそんな選手達と過ごして一緒にプレーして一緒に試合に出て、日本一良い指導者に教えてもらい3年間でこんな経験できたのは自分だけで、日本で1番良い3年間を過ごす事ができたと今でも思っています。
これからも出会っていく人や環境に感謝して縁を感じながら向上心をもってサッカーに取り組んでいきたいと思います。

自分の高校サッカーを振り返るだけの文でしたが読んでいただきありがとうございました。

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