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「雨垂れ石を穿つ」 矢崎晟洋

今回noteを担当させていただきます。経営学部経営学科1年の矢崎晟洋(前橋育英)です。



特に内容の指定などがなかったので、私の中学の時と高校の時についてお話しします。
拙い文章ではありますが御一読頂けると幸いです。



〜中学〜
私には兄が2人います。2人の兄は成蹊小学を受験して私も兄の後を追いかけるように成蹊小学校に入学し、そのまま成蹊中学へ進学しました。ここまでは兄と同じ道を辿ってきました。兄たちと少し違ったところは、兄は部活を通してたくさんのスポーツをやってきましたが、私はサッカー一筋で部活動ではなく、東京のクラブチームに所属していことです。そのチームは、私が中学に進学すると同時にできたチームなので、人数は試合ができるギリギリでキーパーはいませんでした。しかし、環境には恵まれていて、人工芝で練習や試合ができ、コーチが海外にもルーツがあり、中2の時にはオランダとドイツに遠征に行ったり、元プロサッカー選手だった人から直接指導していただいたり、とても良い経験ができました。チーム自体は東京都で1番下の3部リーグで、関東大会や都大会には出場したことはありません。そんなチームから前橋育英に入学できるなんて思ってもいませんでした。

同じ中2の時、初めて高校サッカーの試合を生で見た時に前橋育英の存在を知りました。その試合は全国高校サッカー選手権大会の準決勝で、前橋育英vs上田西でした。結果は6-1で前橋育英の勝利。その後の決勝も勝利して見事前橋育英は悲願の初優勝をしました。私は、前橋育英の最後の最後まで攻撃の手を緩めず、チーム全体が連動して動くチームスタイルに魅力を感じ、いつかこんな所でプレーしたいなと思い始めました。
中3になって本格的に高校の進路を考えるようになって、私は大きな決断をしました。このまま安定した成績をとって、兄たちと同じように成蹊高校に上がるのではなく、大好きなサッカーで前橋育英に入学することに決めました。なんとか練習参加でスポーツ推薦をもらえましたが、前橋育英にスポーツ推薦で入学するためには、成蹊中学校を転校しなければなりませんでした。これが大きな決断です。周りからは批判の声もありました。「このまま成蹊に残った方がいい」とか、「育英に入ってもお前のレベルじゃ通用しない」とか。そんな時1番この決断を後押ししてくれたのは両親でした。どんな時も応援してくれた両親には感謝してもしきれません。
結局成蹊中学校を転校して、半年だけ地元の中学校に通いました。その半年後群馬に移動して寮生活、高校生活がスタートしました。



〜高校〜
1つの夢でもあった黄黒の縦縞のユニフォームに袖を通し、タイガー軍団の1員になりました。しかし、前橋育英はそんな甘い世界ではありませんでした。やはり私はずば抜けて1番下手でした。だいたいがJクラブの下部組織出身や全国大会常連のチーム出身の人で、代表クラスの人たちが集まっていました。そのため「よくそのレベルで育英入れたな」と1番最初の練習で同じ学年の人に言われたのを今でも覚えています。すごく悔しかったです。でもその通りで何も言い返せませんでした。
高1の時はとにかくたくさんの理不尽に耐えながらの生活でした。先輩は厳しく、よく寮の部屋に呼び出されました。コーチ陣からも「まとまりのない、最悪の世代」なんて言われてました。それでも私たちの代は週1で選手ミーティングを行うなどして、1年生だけの大会、ルーキーリーグでは関東1位になれました。私も何試合か出場する機会があって良い経験になりました。
私は中学までは、左足のキックが持ち味でボランチをメインでプレーしていましたが、周りより少し足が速かったので、高校に入るとサイドハーフにコンバートしました。これがきっかけで少しずつ、チームに貢献できるようになりました。

高2の夏にはトップチームに絡めるようになって、監督は私を主にサイドバックで起用しました。せっかくトップチームに絡めるようになったものの、新型コロナウイルスが全国的に広まっていき、主要な大会は中止になり満足のいく練習ができませんでした。もし、インターハイがあれば私の高校生活は少し変わっていたかもしれません。夏以降はなかなか試合に出られなくなっていき、トップチームの人たちとの差が開いていくような感じがしました。その年の選手権予選はメンバーに入れず県のベスト8で敗退。この時の3年生は夏、冬と全国に出場できず、絶対悔しかったはずです。そんな先輩たちの思いを背負って最高学年になった私たちが掲げた目標は「奪還」。そして新チームがスタートしました。
高3の時が1番苦しみました。高校2年の夏以降全くトップチームに絡めず、ずっとBチームとCチームを行き来していました。悔しくて悔しくて、そんな時に出会った言葉が「雨垂れ石を穿つ」です。この言葉の意味は、軒先から滴り落ちるどんなに小さな雫でも、絶えず同じ場所に落ちることによって、硬い石にも穴を空けるという意味があって、このことから、どんなに小さな力でも、根気よく続けていれば、いつか大きな成果が得られるということを表しています。つまり努力です。この言葉に出会ってから自分を見つめ直し、このままではダメだと思い、門限が21時30分なのに21時過ぎまで自主練でボールを蹴っていました。自主練では苦手だった右足の克服や、シュートとクロスの精度を上げるために私なりに努力しました。この努力が報われたのか、夏明けのトップチームとの紅白戦で2ゴールを決めて、トップチームに上がることができました。そこから1ヶ月ほどしていよいよ選手権の県予選が始まるという時に、メンバーから落ちて最終的には3年間スタンドで見守ることしかできませんでした。メンバーに入った人たちはメンバー外の人たちや、先輩たちの思いを背負って全力で戦ってくれました。個人としては悔いの残る3年間となったけど、私たちの代では前橋育英を初めてプレミアリーグに昇格させて、育英の歴史に名を刻むことができました。選手権は全国ベスト8で、夢の国立には届がなかったですが、時にはぶつかり、時にはふざけ、切磋琢磨した仲間との3年間は一生の宝物です。



以上が私の中学時代と高校時代の話でした。
大学では、これまでの悔しさを胸に練習から全力で少しでもチームに貢献できるように頑張ります。



長く拙い文章になってしまいましたが、最後まで読んで頂きありがとうございました。

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