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高齢者と暮らすこと

ずっと外で仕事をしていて、気づかなかったことがある。
それは、自分の家では平日昼間にどんなことが起こっているのかということ。

私は働き始めた年齢になってから、半年以上のお休みを取ることもなく、何かしらの仕事を継続してきた。
「働かざる者、食うべからず」という親の教えの元、何かしら働き、自分でお金を稼ぐべく、考えてきた。

昨年からのコロナ禍は、そんな私にはとても大きな打撃だった。慌てて実施された在宅勤務。
派遣で仕事を継続しているため、まさか自分も対象になるとは思っていなかった、ありがたい制度。
今まで、やってみたかった勤務スタイルだったこともあり、ある程度の在宅勤務のための環境整備も必要だと思っていたので、そこまで慌てることはなかった。
強いて言えば、Wifiルーターが無線ではなく、有線対応にしなくてはいけないことくらい。仕事の内容的に、ある程度の知識があったこと、そして何より。
有無を言わさず、派遣先が在宅勤務に踏み切ったこと。
色々と問題はあったけれど、それはそれで慣れていくものでもあり、上司の動きが早ければ早いほど、自分たちの在宅作業環境が整っていくのが感じられた。
そして上司の動きが早くなるためには、やはり自分たちが上司に色々という必要があったし、そんな職場を上司が目指していたということが一致したからだろう。
色々と変化する「在宅勤務ルール」に対応すべく、一年間頑張った。

そんな中で、在宅勤務になって、考えさせられていること。
それは、自分以外の家族の存在。
高齢の義母が毎日、どんなことをして生活しているのか。
今までは、なんとかしていてもらったが、在宅することになったことで、「家に私がいる」ことで、義母はライフスタイルを崩してしまっていたようにも思える。
家事をする時間がなく、義母任せだったこともあり、義母のやり方に口を出すつもりはなかったけれど、いざ「在宅勤務」となると、家事もある程度こなせる時間を捻出できる。
こなせるということは、義母のルーティンを奪うことになってしまう。

例えば、朝起きて、洗濯機を回し、その間に朝ごはんを食べ、洗い物をし、洗濯物を干して、お風呂を洗って、仕事を始める。
これが私の在宅時のルーティンになっている。
ゴミ出しもあるし、夫を駅まで送るのも、ルーティンのひとつだ。
そんな中で、月に何度かは出勤をする。
出勤時間は早く、洗濯もお風呂掃除もしないままなので、義母に任せることになる。
出勤日については、リビングのカレンダーに書いたりしているが、義母はそれを見ることもないし、私がいないことを感じると、自分で作業をしてくれている。
ただ、このごろは、少しずつ衰え始めているのが顕著に見え始めた。
もちろん、高齢者なので、それなりに出来なくなることは承知している。

例えば、洗濯についてはこんな感じ。
 洗濯物に洗濯洗剤(粉)が付着したまま、干してある。
 長袖のシャツを干すときに、袖がまるまったまま干してある。
 タオルの干し方がいままで違う など

ただ、どこまで手を出していいのか。
年齢と認知症の境目がとても難しい。
高齢者の場合は、もともと出来ていたことが出来なくなる。
それを、どこまで手伝えばいいのかが分からない。
下手にやりすぎれば、プライドは傷つくし、次回からはやろうとしなくなる。それは出来ていたことを出来なくさせてしまうことにもなるので、出来るだけしたくない。

認知症の情報はいくらでも手に入るが、症状は十人十色だ。
持病を持ってる、今までの生活パターン、食生活など、いろいろと考えてこんな理由があるからできないのかも・・・とか、ここまで考えておかないとだめだったとか、毎日考えさせられることが多い。
買い物一つにしても、1年前のパターンとは異なってくることを、認識しておく必要がある。
年齢によるもの、認知症の進み具合、持病の悪化なども想定しておかないといけない。
10年前、5年前、1年前、そして1か月前。
食べられるものは変化するけれど、食べたいものは変化しない。
覚えていても、行動することが出来ない。
義母自身もままならないことを分かっていて、もどかしいのだろうと思うとむやみに急かしたり、何もさせないのは拷問にもなるだろう。
出来ないことを義母本人に言うことをやめた。
言っても、もう覚えていてはくれない。
そして、怒られた記憶だけを残してしまうと、義母にとっていいことではない。

薬を飲むこと。
それがどれだけ大切かということは説明するが、大切であることを忘れてしまい、「薬を飲まなかった」ことを言われることだけを覚えていると思う。
それでも薬を飲むことには直結しない。
「薬を飲まないと怒られる」ことだけを覚えていることになって、飲んでいなくても「飲んだ」というようになっていく。

義母のためを思って・・・なんて殊勲なことを言うつもりはない。
ただ、義母の持病は長生きすることが多い持病だ。
一気に病気に侵されることはなく、じわりじわりと進行する病。
自分自身も大変だけれど、周りも大変になる。
自分が年齢を重ねることは、周りも年齢を重ねること。
だから、同じように私も年を取る。
ずっと変わらずにいられることなんてない。
それを感じてほしいけれど、認知症はそれを奪ってしまう。
目は見えにくい。
耳も聞こえにくい。
動作も緩慢。
でも、生活は出来る。
なぜなら、それ以外のことは誰かがしてくれるから。

何のために生きているんだろう・・・
そんなことをつい考えてしまう。
何も楽しみがない生き方なんじゃないか?
そんな風に思ってしまうけれど、それも十人十色。

生きてるだけで丸儲け。

そう思えば、「生きる」ことをどれだけ大切にしているのかと思える。
何か楽しいことがあるから「生きよう」。
何か悲しいことがあるから「生きるのをやめよう」。
そんな風に考えてしまうけれど、もっとシンプル。

「生きている」ことが嬉しい。なのかもしれない。
理解できないけれど、そう考えると生きることが幸せなのだと思うことが出来る。

義母の幸せが「生きること」なら、それを全うしてもらえばいい。

でも、私や夫がそれに付き合えるか・・・それは分からない。
また一つ、夫婦で考えることが増えた。

コロナになって、環境が変わって、見なかったものを見ることになった。

そんな話。

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