国語の勉強法(やるべき編)


・筆者の実績について

俺の、大学入試国語の試験に関しての成績は以下の通りです。

共通テスト・センター試験           東大二次(全て理3)
2014(現役 初受験):130点            40   
2015:185点                                                                    42
2016:176点                                                                    40
2017:193点                                                                    37
2018:184点                                                                    58
2019(東京大学理科3類に入学):184点                           56
2020・2021:未受験              
2022:168点                            46
2023:187点                                                                    51
2024:187点                                                                    57

注:下一桁については記憶間違いがあるかもしれませんが、〇割単位では間違えていません。
(2022以後は「大学生」だが受験。面接キャンセルで合格回避)

共通テストは6/9回で9割、東大二次は4浪時にやっと真剣に取り組み始めてからは、ほとんど50点(80点満点)を超えているので、少なくとも普通の大学生よりは参考になるかと思います。

また、俺は理3に入るまでは頭の良さを褒められたことは一度もないので、才能やひらめきを用いている部分は一切存在しないと思われます。
そのことは、以下の記事を読んで、皆さまに判断して頂きたく存じます。

・読解科目V.S.それ以外の科目

突然ですが、以下の科目の分類は、何によってなされているでしょうか?


これはどういう分類でしょう?


文系科目v.s.理系科目かと思われるかもしれませんが、それにしては歴史が数学の仲間ということになっていますね。そういうことではありません。

答えは、左は読解がメインの科目で、右はそうではない科目だ、ということです。(注:生物は問題によって異なるが中間あつかい)

対比のため、そうではない科目の説明からします。

非読解科目では、俺たち受験生は、強大すぎる出題者に独力で立ち向かうしかない。


これらの「読解ではない科目」では、われわれ受験生は出題者と1対1のタイマンをしなければなりません。

出題者は、(「高校範囲」という制約がある「とされている」とはいえ)、いくらでも難しい問題を、数多く受験生に課すことができます。
そして試験は基本的に「落とすため」なので、その中には多くのトラップが込められています。「この問題をみんな正解してくれよ~」という気持ちではなく、「間違えろ!ミスしろ!落ちろ!」というのが、原則としての出題者心理です。

われわれは、辞書もなく計算機も使えず、トイレに行くのにさえ手をあげなければならないという日常から乖離した異常事態のなかで、たとえば数学なら、問題が示す状況を頭で把握したうえで、20・30行の計算を一行たりともミスせず遂行しきり、答えを合わせなければなりません。

また、これらの科目において、ヒントをくれる人は、基本的に存在しません。
確かに数学・理科でも一部の問題で、「ヒント」が与えてあることはありますが、それらの誘導・ヒントは「つけなければ難しすぎてオマエらは解けないだろ」という意図で付いているに過ぎず、「みんな、正解してくれよな!」的優しさで付いているのではありません。


・読解科目の科目原理について

しかし、読解科目ではこれらの図式が、前提のところから崩れます。
なぜなら、受験生・出題者以外の第三者が、ここでは突如として出現するからです。

それは、文章を書いた筆者です。

筆者、それは唯一の強大な味方である。(出題者が元気なさそうな理由は後述)

評論であれエッセーであれフィクションであれ、文章を書いた筆者は、「これを読んだ人、誤読しろ!」「何を言ってるかわかりにくくしよう」と思って、文章を書いていません。

何かを伝えるために文章を書いています。そして、その何かを伝えるため、言語表現を使ってあらゆる工夫をします。

たとえば、この文章中にも既に具体例が登場していますが、筆者である俺は、具体例を伝えたい一般・抽象論をより具体性をもって実感してもらうために用いたのであって、みんなを困惑させるために用いたのではありません。

また少し前で「対比のため」と明示した通り、読解科目である国語の説明において、あえてそれ以外の科目を持ち出し対比させたのは、対比を通して読解科目の独自性を浮き彫りにするためであって、誤読をさせたいからではありません。

出題者は相変わらず受験生の敵ではありますが、この筆者は、読者にわかってほしい!と思っている、味方です。タイマン勝負ではなくなりました、この違いは大きい。

また、われわれが戦わねばならぬ出題者にも、実はタイマン科目に比べて、弱体化がかかっています。
それは、「読解科目における出題者は、筆者が文章に書いていないことは聞けない」という大きすぎる制約です。

この点において、ある意味では出題者は受験生のレベルにぐっと近づくのであり、このことも読解科目の原理、そして読解科目の容易さを導く要因の一つです。

・必要な努力について

ここまで話せば、おのずから必要な努力も明らかになるかもしれませんね。

①筆者の表現の工夫を、キャッチできるようになること

筆者は、自分の主張・世界観を伝えるために、言語表現をあざやかに使いこなすことで、読者にうったえかけます。

その工夫が特によく多発しているところは、実生活でいえば大きな声で何度も話しているようなものですから、それを見逃さず・曲解せず素直に受け取りチェックしていけばよいのです。

要は、筆者が大事だと言っていることは大事なのです。

ただし問題があって、訓練しなければ、せっかく筆者が俺たち読者に向けて用意してくれている工夫も見逃してしまいます。

noteではこんな風に太い文字にしたり、媒体によっては赤くしたりナナメにしたり吹き出しをつけたりと、さまざまな強調技法が用意されています。さきほど登場したイラストも、その仲間ですね。現実世界では声を大きくしたり身振りをつけたり表情を豊かにしたり、がそれに該当するでしょう。

しかし、われわれが読まなければならない文章は、すべて同じ大きさ・同じ太さの字で統一されています。言葉じたいに注目しなければ、工夫が見つけられません。

そして、その工夫を発見するのは、才能ではなく、訓練です。
うまれつき「例えば」という言葉が具体例を示すものだと知っている人はいないし、かといって、「例えば」が具体例であることを知らない18歳以上の日本語ネイティブも、おそらくいないでしょう(知らなくても、知っていけばよいのだから、やはりこれは才能ではない)

日本語の文章における表現の工夫がよくまとまったものに、駿台予備学校講師である中野芳樹師の以下のpdfがあります(師が自身のHPで無料で公開しているもの。リンク先からDLしてください)

これを印刷し、最初はチラ見しながらでいいし、問題は解かなくてもいいので、文章に〇や線を引いていけるようになりましょう。(読解力もないのに問題を解いてもあまり意味がないし効率が悪いから。)
この反応速度を、極限まで高め、なおかつ漏らさないようにする正確さこそが、客観的な読解力の基礎になってくれます。


②数種類の問題解答パターンをおさえること

筆者という味方を最大限利用し、弱体化した出題者の出す問題を正確にたたく、これが根本原理ですが、とはいえ読解科目の問題にも、ある程度の解答パターンはあります。(ただし、非常に少ない!!500以上のパターンがありそうな数学などに比べると、たった10パターンあるかないかなので、非常にラク)

これらの数パターンについてはさすがに練習して、よく習熟する必要はあります。
たとえば「逆に」「矛盾」「逆説」「かえって」系の言葉が傍線中にあるときは、解答は「Aに見えるがB」(AとBはなるべくマ反対に)系のものにする、などです。

これらパターンは、文章をしっかりと読み問題を解いていくなかでみにつけていきましょう。
大事なのは、自分の思い込みや主観を入れずに文章を読む読解力がまず先・まず大事であり解答パターンは二の次であるという、優先順位を間違えないことです。

③古典においては(英語も同様)、言語のかべを超えること

古典は、当然自分の知らない・ネイティブではない言葉で書いてあるので、まずはその言葉自体に精通してよく理解しなければなりません。
これは単語や文法の理解と暗記であり、ここにも才能は一切必要がありません(生まれた時から助動詞の活用が言える奴はいないから)

しかし、言語の壁を超えればあとは古典・英語だって現代文の勝負である、という認識も同じくらい大切です。

たとえば古典・英語の説明問題が全訳を見ながらなら正しく書けるか、というチェックをぜひしてみてほしいと思います。
もし全訳をみても書けないなら、言語の壁が超えられないことではなく、文章読解ができていないということになります。(特に東大受験生は、二次の英語の1Aを、全訳見ながらなら書けるのかというチェックが必要。理系の半分はたぶん書けない……)

逆に、現代文力(文章を適切に読み、問題に対して、文章に書かれたことの説明で解答すること)ができていれば、あとは言語の壁を超えるだけで、古典・英語も現代文と同じようにでき、そして安定します。

これが、俺が帰国子女ではないのに、英語と国語どちらもできることの理由の一つです。


次の記事では、国語の勉強(やるな編)について述べます。