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メタバースは多様性のビオトープ VRの一般化は文化の破壊をもたらすのか

はじめに

Facebookが社名を「Meta」に変更しSNS企業からメタバース企業への転身を高らかに発表した。日産自動車は、銀座の「NISSAN CROSSING」をバーチャルギャラリーとしてVRChatに持ち込み、サンリオはVRChatと公式コラボレーションをしてバーチャル音楽フェスを実施する。

「メタバース」のホットワードとともに急速に注目を集めるソーシャルVRの世界。最近では、これまでVRに触れてこなかった層も「メタバース」に関心を持ち、SNS上でポジションを探っている。

そんな中、筆者のフレンドである日本生類創研広報部(以下、ニッソちゃん)が、こんなnoteを投稿した。私のTwitter上での発言を受けてのものだ。

執筆時点において、ニッソちゃんの当該記事はインプレッション数7.9万以上、SNS上でも大きく議論を巻き起こすなどいわゆる「バズ」を起こしている。これに対する反応は様々だが、私のツイートが発端となった記事である以上、これにアンサーを投稿するのは礼儀だろう。

当該記事に対するわたしの主張

当該記事で伝えていることは、ここに端的に表れている。

企業がVRに注目し力を注ぐことにより、大多数の「一般人」=現在VRと関りがない人々、が参入し、彼らが多数派になることで、現在のVRを取り巻く文化は破壊される

曰く、「一般人」の大規模な流入により、「リアルワールド優位の状態でリアルワールドとサイバーワールドが融合していく」。これにより、「リアルワールドとサイバーワールドの完全な一致」が引き起こされ、「ハンドルネームもボイスチェンジャーも無し、本名を公開した状態で人と接する状態がサイバーワールドでも一般化」「名前、年齢、性別、人種、勤め先、所属、家族構成・・・それらリアルワールドの情報とサイバーワールドのアバター・コミュニティが完全に一致することが求められる」というのだ。

私は、これは全くもって当たらないと考えている。そもそも、リアルワールド(以降、物質現実と称する)を”完全に再現”したサイバーワールド(以降、実質現実と称する)には誰も魅力を感じないからだ。物質現実で体験できることを実質現実に置き換えたところで、そこには何も新たな体験価値が生まれない。物質現実ではできないことが実質現実でできるからそこに体験価値が生まれるのだ。その選択肢の中に、現在のVRChat原住民が志向している「異世界転生のサービス体験」も存在する。

あしやまひろこ氏の指摘。現在のVR廃人は「異世界転生」を志向している(私の某フレンドの言葉を借りれば「VRChatは、ヤングマガジンで連載されるきらら作品のような世界観だ」という)

そして、後に述べる通り、実質現実・メタバース最大の魅力は、この「多様性」にこそある。人々は、自身の生きやすいネットワークを選択し、価値観を選択し、その価値観を共有する文化的グループ(二次文化集団)に属する。この、価値観共有をもとにした「親友型」のコミュニティーというのは、1995年初版の岡田斗司夫「ぼくたちの洗脳社会」でも指摘されているインターネットによる人間関係のパラダイムシフトだ。そして、このパラダイムシフトは古くは同人誌即売会などのおたく族から始まり、インターネット黎明期にはパソコン通信へ、そして現在は「一般人」とされる多くのSNS利用者にまで共有される新たな価値観だ。

インターネットの登場により、社会は多様化した。メタバースはその延長線上にあり、かつこれを補強するもの。よって、メタバースの普及により先鋭的な文化が塗りつぶされることは起きない。というのが私の主張だ。

「メタバースVR」が持つ世界観

ここからは、私が考える「メタバース」および「VR」が持つ世界観とは何なのかについて触れていきたい。私が「メタバースVR」に何を見ているのかだ。

そもそも、VRというのはかなり歴史が深い。SF作品においては1935年の「ピグマリオン劇場」にはすでに「魔法のメガネ」なるものが登場しているし、現実においてもコンピューターのGUIが開発されたのとほぼ同時期の1960年代にはVRの研究開発がスタートしている。中でも、アイバン・サザランドはバーチャル・リアリティーの祖とも呼べる存在で、1965年に論文「The Ultimate Display」にて以下のように述べている。

The ultimate display would, of course, be a room within which the computer can control the existence of matter. A chair displayed in such a
room would be good enough to sit in. Handcuffs displayed in such a room would be confining, and a bullet displayed in such a room would be
fatal. With appropriate programming such a display could literally be the Wonderland into which Alice walked.
---究極のディスプレイは、コンピュータが物体の存在をコントロールできる部屋になる。椅子が表示されれば座れるし、手錠を表示すれば誰かの自由を奪い、弾丸を表示すれば命を奪う。適切なプログラミングを用いれば、そのようなディスプレイは文字通りアリスが歩いたような不思議の国を実現するだろう。

これが、バーチャル・リアリティーの実現する世界観だ。物質現実と実質現実は違う。好きな姿をまとえるし、この世に存在しない場所に行ける。想像したもののほとんどすべては実現が可能で、リアルではできない体験が豊富にある。物質現実との完全一致なんてもってのほかだ。それは限られたユースケースにのみ求められることに過ぎない。

「メタバース」とは何なのか。先日、TwitchのディレクターであるShaan Puri氏が興味深いスレッドを投稿していた。曰く、「メタバースとは時代である。我々のデジタルライフがフィジカルライフよりも価値があると感じる『時』がメタバースなのであって、一夜で訪れるものでもなければ、特定の発明家により起こされるものでもない」という。私も概ね同意だ。

「メタバースVR」は身体性をもった新たなインターネット空間だ。TwitterやFacebook、Instagramが「SNS時代」を築いたように、新たに「メタバース時代」が今後生まれていくだろう。そこでは、より自由に人類の創造性が発揮され、自由な人間関係を築き、当然その中にはビジネス界隈・投資家界隈はたまた新興宗教界隈のような、現状のバーチャル世界には存在しない新たなコミュニティーが登場するのだろう。一般層の流入が増えれば、ミーハーやInstagram界隈など、いわゆる「陽キャ」と呼ばれる人口のボリュームも増えるだろう。

余談だが、この点に関しては、そもそもVRChat内で楽しんでいる人の多くは、(彼らが「陽キャ」を毛嫌いしているかはともかく)イベントごとに積極的に参加し、自撮りをSNSに投稿し、流行りにはすぐに飛びつき......など現実に置き換えれば「陽キャ」的な行動を美少女のアバターをまとって行っているので、意外にも親和性は低くないのではないかと思う。

現在のSNSの中にも、ビューティーコスメや流行りのファッションを大事とする価値観共有集団が存在する一方、アニメやそれこそ現在のVRChatなどアングラなカルチャーを大事とする価値観共有集団が併存している通り、これはどちらかが勢力を増せばどちらかが消えてなくなるというものではない。むしろ、多様な価値観共有集団が並行して存在するという状況こそが、インターネット時代の在り方であり、これはメタバース時代においても継承されるだろう。

メタバース時代は、これに「個の創造性が最大限活かされる」というクリエイティビティ―の強化が伴うため、むしろ価値観は具象化し、さらに先鋭化する。先鋭化した価値観共有集団が生み出す熱狂が、新たなビジネスを生み出すという例は、この信用経済時代においては当たり前となってきた現象だ。むしろ、佐藤尚之「ファンベース」や、佐渡島庸平「WE ARE LONELY, BUT NOT ALONE. ~現代の孤独と持続可能な経済圏としてのコミュニティ~」などで指摘されている通り、少数の熱狂こそが重要な時代はすでに到来している。もう、マスメディアによる「大きな物語」は失われたのだから。

クリエイティビティーの強化により、先鋭的な価値観共有集団が生まれやすくなり、私たちにとって生きやすい空間が無数なオルタナティブとして出現する。メタバースは多様性のビオトープなのだ。

メタバースの市場原理 ニッチでもビジネスは成立する

当該記事の主題が「企業の参入」であったため、ここでこれもまたホットトピックである「メタバースに経済を持ち込む」に関しても触れておきたい。

当該記事では、「企業の参入は『一般人』を優遇し、既存のマイナー市場は破壊される」と主張していたが、これは明確に時代に逆行しているため、こうしたことは起こりえないと考える。そもそも、市場は「我々少数派とそれに対する多数派」という原理では動いていない。マーケティングは、セグメンテーション・ターゲティング・ポジショニングの過程を得て行われ、そこに経済的な合理性・妥当性があれば商品が投下される。そうでなければ、「ニッチに刺さる商品」など生まれることはなく、すべての商品は大量生産・大量消費・マスメディアによる流行の創出に代表される「エジソン=フォード境界」(※1)に収束する。

※1:落合陽一著「デジタルネイチャー」に登場する用語。テクニカルイノベーションとマス生産によるコスト削減がもたらすプラットフォーム化、市場の寡占形式によって、投資コストを回収する仕組みがその後の生産様式や市場形成の枠組みの変化をもたらした。<近代>を規定するフレーム。

しかし、現実の市場はそうはなっていない。むしろ、こうした近代資本主義の原理が限界を迎えたのがこの21世紀だ。そして、その後注目を集めた市場原理は何なのか。それは、コモディティ化とデジタル化による限界費用ゼロ社会および、それに伴う生産手段の個人化、全体最適から部分最適の時代だ。メタバースをはじめとする実質現実空間はその最果てである。

限界費用(再生産にかかる費用)がゼロの社会において、台頭するのは人々が協働でモノやサービスを生産し、共有し、管理する新しい「共有型経済」。3Dプリンターによる生産消費者(プロシューマー)の台頭などがパラダイム転換の具体的な事象とされるが、まさに現在のメタバース界隈で起きていることそのものだろう。

そう、クリエイターエコノミーだ。メタバースは、「人類の創造力を加速する」(※2)。誰もがクリエイターとなり、生産者となり得る。なぜならば、アイディアさえあればそれを実現するのにかかるコストが限りなく低いからだ。さらに、ここにPixiv FactorySUZURIなどに代表される1ロット生産の流行も加わる。物理的な商品も含め、個人クリエイターがバーチャルで活動し、経済活動を行う未来がそこにはある。当然、メタバースがより一般になり、人口ボリュームが増えれば、経済規模はさらに拡大するだろう。そして、ゆくゆくはDJ RIO氏が指摘する通り、現在の「製造業」的なポジションに加えて、第三次産業、サービス業の収益化も進むだろう(※3)。

※2:日本で最もメタバースに近い企業「cluster」の企業ミッション。同社は、企業コラボイベントも多く実施しているため、企業参入による一般層の流入とディープユーザーが共存できることを早くから示しているといえるだろう。
※3:参考PANORA「「未来のメタバースはひとつじゃない」 DJ RIOさんが語るREALITY・100億投資のねらい」
https://panora.tokyo/archives/33922

もちろん、既存企業の進出も見逃せない。特に、冒頭で触れた通り日産自動車の「NISSAN CROSSING」、サンリオの「SANRIO Virtual Fes in Sanrio Puroland」、TGS×amberの「TGS VR」などは目を見張るものがある。

しかし、これは本当に該当記事でニッソちゃんが指摘する通り「今はサイバーワールドの『原住民』が大部分を占めているから、彼らに好感を持ってもらい、商品が売れるようにしたいがために、『原住民』に優しいコンテンツを生産している」のか。私はそうは思わない。なぜならば、参入企業はかならずしもVRChat原住民の内部的評価を最大の関心ごととしているわけではないからだ。

むしろ、VR・メタバースを利用することで、先進的な事例としてメディアに取り上げられ、株価にプラスの影響をもたらすことが重要なはず。もちろん「一番楽しいところに一緒に行きたいから」という将来性への期待が一番大きいだろうが(※4)。

(※4)

また、「『一般人』=現在VRと関りがない人々、が参入し、彼らが多数派になる」というのは人口に対する話であって、密度に対する話ではない。つまり、今後「一般人」のメタバースに対する流入が急激に増加したとしても、それは「サンリオピューロランドにイベントに行くとき」であって、一般人が毎日15時間VRゴーグルを被るようになるわけではない。

そして、この「月に1度くらいVRゴーグルを被って好きなアーティストのコンサートに行く層」と「休日リアルの友達と遊ぶためにVRゴーグルを被る層」と「VRの友達と毎日10時間以上VRゴーグルを被る層」は確実に棲み分けされる。利用習慣が違いすぎて交わらないからだ。ディープVRChatterはアングラ化するのだ。

これはまさに現状のTwitterで起こっていることである。企業が参入し、一般層が流入してきたからと言って、一般層は廃人にならないし、廃人の住処までわざわざ足を運ばない。これは一つ、ニッソちゃんのnoteに対する解だろう。

理想のメタバースに向けて我々ができること

ここまで、ニッソちゃんの当該記事を発端に、私がメタバースにいかに期待を寄せているかについて長く語ってきたが、当然私にも現在のメタバースを取り巻く環境について不安がないわけではない。

その最大の不安は、現行のメタバース文化を理解しないまま強引に食い荒らされてしまうことが局所的にでも起きやしないかというものである。現在のメタバース文化は分かりにくい。実際にVRゴーグルを被って、プラットフォームに遊びに行って、知り合いを作って、そこで初めて文化に触れられる。外から文化を知ることがとても難しい。

だからこそ、VRゴーグルを被ると「飯も食えないし、酒も飲めないし、水も飲めない。その中で仕事できるかというと、会話、会議はできる。スプレッドシートを広げて何か作業したり、あるいは原稿打ったりできるかというと、できなくはないが、かなり制限が多い」といったような、現在メタバースを日常利用している人からしたら頓珍漢に聞こえるような議論が度々交わされている(※6)。

※6:当該記事(ABEMA PRIME)「ひろゆき氏「FF14の後追いっすよね」Facebook社名変更で何が変わる? “メタバース”はビジネスになるか」
https://news.yahoo.co.jp/articles/01bfae9cfb894bf04967dcdcac2350142236381a

メタバースVRに懐疑的な人も、期待を寄せる人までもが「こんな未来が来るといいよね」→「いやもう来てますよ」みたいな周回遅れとも捉えられる会話をしている。この認知ギャップは早急に埋めなくてはならない。

我々がこの現状に対してできるのは発信だ。メタバースを先陣を切って体験している我々が、今後入ってくる新規層へ歩み寄り、現状を正しく伝えていかなければならない。そうすることが、我々の文化を守ることにもつながり、今後の文化の発展をポジティブな方向へ進めていく一助にもつながるだろう。

最後に、そうした現状のメタバースを定量的に伝えようと試みた事例として、バーチャル美少女ねむ氏とMila氏による「ソーシャルVR国勢調査」を紹介して終わりたい。今後も、メタバース文化がより良い方向へと発展していくことを心から願っている。

「始まったばかりのVRの文化は今まさに進化の最中であり、その定義や実態は変わっていくでしょう。本調査は変わり続けるその世界のほんの入口を紹介したに過ぎませんが、来る新時代の一端を照らし出し、より良い未来に向けた議論のきっかけになれば幸いです」ー「はじめに」より

■最後に■

本noteは筆者アシュトンの個人的な見解を述べたものであり、いかなる団体・組織の意見を代表するものではありません。ご意見・ご感想は、Twitterコメント欄をはじめ、いかなるものも許容いたします。

今後もVR文化・メタバース文化のさらなる発展に寄与できればと考えておりますので、何卒よろしくお願いいたします。

筆者Twitter:https://twitter.com/ashton_vrchat

●本記事執筆に際して読み返した資料●
落合陽一著「魔法の世紀」
落合陽一著「デジタルネイチャー」
往来著「仮想空間とVR」
岡田斗司夫著「ぼくたちの洗脳社会」





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