宗教の「正誤」と「正邪」

ある宗教を信じるか、否かを問われるということは、
「正しい」か「間違っている」か、どちらだと思うか、ということです。
それが真理を説いている、
あるいは、それで自分が救われる、
「正しい教え」ないし「正しい宗教」だから信じるのです。

ただ、一昔前に視線を向けると、
「正しい/間違っている」で宗教を判断していないように思えます。
例えば、怪しい宗教のことを昔は「淫祀邪教」といいました。
淫らなものを祀り、邪な教えを説く、そんな宗教だということです。
「正誤」ではなく、「正邪」という対比で宗教は捉えられていた、
というわけです。

有名な魔女裁判を考えれば分かります。
魔女とは、怪しげな術(魔法)を使う人々のことで、
その魔法はキリスト教的に禁止されているものです。
ですので、魔法を使う人は処刑される、ということです。
ここで重要なことは、
「魔法」が実在していることは疑われていない、ということです。
魔法が「間違っている」からダメなのではなく、
「禁止されている」(邪)、だからダメなんだ、というわけです。

近年でも、イギリスやアメリカの一部の人々が、
ハリーポッターは子どもに観たり読ませたりするべきではない、
と主張しました。
その理由は、ハリーポッターに出てくる魔法が
「本物」だからです。
ハリーポッターが誤った教えを教えるからではなく、
邪な教えを教えるから、禁止されるべきだという主張です。

日本でも、江戸時代にはキリスト教が禁止されていて、
長崎ではたくさんのキリスト教徒が処刑されていますが、
首と胴体を分けて埋葬する、ということが見られます。
これは、キリスト教に「復活」の教えがあるからです。
イエス・キリストは死後三日後に復活したと言われていますし、
キリスト教では世界の終わり、つまりは「最後の審判」のときに
すべての人々が墓から蘇り、神の裁きを受けるとの教えがあります。
これらから、「死者が蘇る教え」であると勘違いした人々が、
蘇れないように首と胴体を分けて埋葬したということです。
死者が蘇ってきたら怖いですからね。
誤解はしていますが、キリスト教を「間違った」教えではなく、
やはりここでも「邪な教え」と考えていることが分かります。

今では、テロや殺人を犯すような宗教は
「間違った宗教」と呼ばれ、
決して「邪な宗教」とは呼ばれません。
「邪な宗教」は、ある意味で「宗教」です。
「間違った宗教」は、「宗教」ではなく、
ただただ「宗教」を騙る世俗の何かです。

正邪で判断されなくなったのは、
現代社会で「宗教」そのものが説得力を失ったからかもしれません。
「信じる」ということがことさら強調されるのは、
「信じられない」ということが基本の世の中になったからです。
目に見えないもの(物理現象以外)は「信じない」、
現代では、これが基本です。
正邪で判断される世界は、物理現象以外の神や仏も
「信じる」までもなく、「当たり前」のものとしてそこにあったわけです。
そういった世界では、個々の宗教や教えの区別もないので、
「正誤」で判断するのではなく、
「正邪」で判断するのが当然ではないかと思います。

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