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【恋物語】蝉時雨/第三章⑴雨喫茶、追憶

『キスは色恋だよ』

大学時代の友達の結婚祝いを渡しに行った帰り道。
十六時。助手席に小春を乗せて、車で雨の八月を走る。
先週のあの言葉はたまに僕の頭の中にふらりと現れる。ここ最近はずっとそんな感じだ。

「君との思い出で一番古い記憶があってさ」
「入学式でしょ?
職員室の前で目が合った話したよね」
「いや、それよりもっと、前なんだ。」
彼女はさっきコンビニで買ったアイスティーをひと口飲んでから、うっすらとため息をついたように見えた。

「忘れられないんだ。」
言葉を誤魔化すように雨音が強まった。
「君は忘れたかもしれないけれど。」
彼女はアイスティーのストローを見つめたまま黙っている。
今あの話をしても、何だか薄っぺらくなって伝わってしまいそうで、僕は話をやめた。

「ねぇ、ここはなあに?」
彼女が首を伸ばして訊く。
「休憩しよう。おいで」
ここは少し田舎に向かった先の町にある小さなカフェで、高い天井一面に嵌め込まれた大きな窓が印象的だ。
世界で一番雨が似合う店。
車を停め、店の中に入ると、珈琲屋の香りがふんわりと僕たちを撫でた。

深い茶色の一人掛けソファに腰掛ける。
やはり、面白いくらいに心地良かった。
誰にも教えていない。小春だけを連れて来たいと思っていた場所だ。

僕はプリン、彼女はシフォンケーキを頼み、先に来た温かい珈琲を飲む。

「どうしてため息ついてるの」
落ち着いた表情で彼女は僕にそう問いかける。
その表情と、この雨と、季節と、冷房の冷たい空気に漂うシフォンケーキの焼ける匂いが、僕の心をほぐしていく。
泉に溜まってついに溢れ出した言葉を、できるだけ丁寧に紡ごうと思った。

「あの日の蝉時雨が今でも心に降り続けているんだ」
雨に濡れる木々は、言葉の空白を埋めることはせず、細やかな背景としてただそこに在るだけだった。
彼女は黙ってそれを見つめていた。
「僕が小学五年生の時。君はもっと幼かったから覚えていないかもしれないけれど。出会っていたんだ。」
彼女の小さなため息は、運ばれてきたプリンとシフォンケーキにきれいに誤魔化された。
「八月。隣の市の大きな公園に、従兄弟のお兄さんたちと遊びに行った日。
地面から水が出てくるタイプの噴水で水遊びをしていたんだ。
びしょ濡れになって、周りも見えなくなるくらいに夢中で遊んでいた。
噴水は高く上がって、僕は背が低くて。
見上げていると急に、それまでの倍くらいの量の水が一気に上がり始めた。
明らかに異常な量の水だった。」
後から聞くとあの噴水は壊れていて、一ヶ月後に取り壊されたらしい。
「僕は大量の水柱の間に取り残されてしまったんだ。
怖くなって、何度も従兄弟の名前を叫んだけれど、水に囲まれているから助けに来てくれるわけもなく。あの時は泣き出しそうだった。
叫び疲れて一呼吸置いた時、ふと後ろを振り返ると、僕よりもっと背の低い君が居た。」
「本当に私だった?」
「うん。君だよ。間違いない。」
「どうしてそう言えるの?」
「泣き出しそうだった僕に対して、君はね、すごく落ち着いた表情でこちらを見ていたんだよ。
こんなに小さいのに、何故だか余裕があって、不思議な雰囲気だなと思った。
そんな大人びた君が、泣き出しそうな僕のことをじっと見つめるから、段々恥ずかしくなってきて。」
小春は首を少し傾けてこちらを見ていた。
「その表情が、今の君と全く同じなんだ。
だからわかった。
あとね、君の話の隙間にはいつも蝉時雨が降って、君の声はやけに鮮明になる。
それも変わらない。」
「変な判断基準だね」
彼女は少し笑った。
「僕はしゃがんで、君の両手を握って、怖くないよって言ったんだよ。どういう気持ちで言ったのかまでは覚えていないけれど。」
「格好つけたかったんじゃない?」
僕はちょっとだけまた恥ずかしくなって笑った。
「そうかもしれないね。安心させようとしたのか、怖くないぜって言い張りたかったのか。
そうしたら君はなんて言ったと思う?」
彼女はマグカップの温度を確かめるように触れて沈黙した。
それから、こちらを見て、はっきりと答える。

「『水は優しいから』って言ったね」

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