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【恋物語】蝉時雨/第二章 ⑴小春日和

昨年の十一月頃。僕と彼女が二人で会うようになって三ヶ月が経っていた。
この頃僕は、一度も彼女の名前を呼んだことが無かった。名前を呼ぶと、何だか、あの子の柔らかい部分に触れてしまう様な気がしたから。

紅葉が終わりかけ、落ち葉を踏む音と同じくらい小さく、季節を言い訳にしてその柔らかい名前を呼んでみた。
「小春ちゃん」
すると彼女は、小春は、しゃがんだまま表情ひとつ変えずに、一瞬だけこちらを見て返事をした。

「よっちゃん(僕の大学時代からのあだ名)。
私と貴方は三つも歳が違うけれど、私は貴方のことを歳上だとは一回も思った事がないわ。」

「僕は君のことを、二五歳だと思って接したことがないよ」

彼女は少し眉毛を下げ、口角は少しあげて「なんでよ」と短く言った。
「ほら、そういう所だって」
僕は笑って、彼女の手元を指差した。
差した指の先には、どんぐりとか、不味そうな赤い木の実とか、パリパリになった様々な色の木葉が集められ、お城の様に綺麗に積まれていた。
ここ二十分ほど集中し切った様子で秋を集め続けている様子は、僕にとっては愛おしい限りだったが、わざと少し意地悪な感じで言った。
僕も、彼女も、秋色の微風と混ざり合う様にくすくすと笑った。

「こういうところか。でも、私もう二五歳なんだから、自分のこういう所も自分で受け入れて行くべきだと思うの。
だって、どうしようもないでしょ?」

終始笑いを堪えるのに必死な様子で持論を話してくれた。

「木の実を集めることが、どうして子供なわけ?
秋を嗜める大人の所業よ。
ほら見て、この落ち葉なんかとっても大きい上に、こんなに綺麗な色してる。
なんだかおいしそうね」
二人とも頬が緩んで仕方がなく、こんな秋は二度と無いだろうと悲しくなるくらいに幸せな、秋の午後を過ごしていた。

流れる様に入った近くの喫茶店。
味のある赤茶色の煉瓦の壁が、この季節によく似合っていた。
温かい珈琲を飲んで語り合ったのは、僕たちの話。世間話は一切しなかった。
二人は同じ大学の先輩と後輩だった。その様な関係なら、共通の友人の話などで盛り上がりそうなところだが、大学時代の話は殆ど無く、ずっと、秋がどう見えているかの話ばかりをしていた。
お互いの"そう言う部分"を共有するのが、二人の共通の話題であり、二人それぞれのアイデンティティに大きく関わる事柄であることもまた共通していた。

店内には落ち着きのある間接照明。
外には優しい色の街灯が、ぽつり、ぽつり、と灯ってきた。
話が途切れ、彼女は溜息をつき、脱力した瞳で窓の外に目をやった。

「黄昏時に気が付いた時、ふと感傷的になるものよね」

「ね?」と確認するようにもう一度言って、僕の方を見る。

「何か思い出すことでもあった?」

小春は音を立てずにひとつ溜息をついた。

「そろそろ出ようか、散歩したいな」

ほんのりと笑顔を見せ、帰る準備を始めた表情は、先程よりも大人びて見えた。

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