‘‘みうち‘‘の不幸

初投稿になります。前々からnoteをはじめようと意気込んでいたものの、という感じで。時が経つのは早いですね。いま、家族が寝静まった、静かな12時46分、リビングで時を過ごしています。BGMはNightなCafeです。

思い立ったら書いていこうと思います。あまり有言実行できるタイプではありません故に。

今日、この記念すべき初投稿を飾る話題として持ち上げたのは、身内の不幸についてです。このカギカッコつきの、みうち。そう、本当の、いわゆる身内ではありません。私の知り合いでもなく、家族の、知り合いなのです。最近ウイルスによって世界は混乱状態になった、なっている、わけでありますが、ウイルスによって死がもたらされたわけではないのです。

それらの不幸たちは、本当に、日常的に、テレビで流れて来るような、少し身近とは感じにくいような、遠い世界のような、一つの事件として、世の中のニュースの一部になっていました。それらの訃報を耳にしたとき、私の母はたいそう悲しんでいましたが、私は、話を聞いた直後は、なんだか蚊が死んでしまったような、そんな感じがしました。

なんでなんだろう。一つ言えることは、私はその方々の生前の活発に活動されているご様子も知らなければ、顔や名前さえも知らない。言ってしまえば、「テレビの中のお話」「ニュース」とさほど感覚が変わらないからでしょうか。私は、サイコパスではありません。そして、人の、生き物の死についても、ある程度深く思考していると自負しています。冷たい、心のないやつだとは思われたくはありません。この話題でブログを書いているくらいなので、考えてはいるんだなと思っていただきたい。そう、考えているんです。なぜ、ニュースに流れてくるような、顔も知れない人々の死を心が苦しくなることなく、受け入れられてしまう、あるいは受け流して、ニュースが流れ去ったのちには、違う話題で頭をいっぱいにして、そんなニュースなんて忘れ去ってしまうのか。

それは、前段にも述べたように、やはりその亡くなってしまった方の顔もその人の生前の姿もわからないから、何でしょうね。ならば、顔もわかるし生前の様子もわかれば、自分以外の他人の死は、心が痛いもの何でしょうか。きっと痛みますよね。その人との関係性が浅ければ浅いほど、他人=身内ではない、遠い人、のような気がするし、心に来るものは少ないかもしれないけれども、その人が生きていた時に何らかの関りがあって、その人との一時の少しの思い出さえもあれば、ましてや、家族、恋人、友人であれば、その人を介した、かなりの大きな思い出の塊にアクセスするだろうから、家族じゃなくても、身内=”みうち”、同然のように悲しみが大波の如くドッと寄せてきて、精神的につらくなりますよね。

その理論は、大体の人に賛同いただける気がします。

今回は、弟の友人や弟の幼友達の身内の方の訃報を、母伝いに聞いたわけでありますが、私はその方々とは全く面識もなく、同じ空間で同じ空気を吸ったこともない、他人様でありまして、しかし身内の知り合いということで、少しテレビで知るような訃報よりも、「可哀そうに」「若いのに」「どうして」というような心に来るものは、母との会話を通して感じたりはしましたが、それは母との会話を通して少しずつ彼らの素性が見えてきたからだと思いました。ただの、母伝いに知った、彼らの情報に過ぎないのでありますが、私の心が痛んだのは、母から亡くなった彼らの話を聞くことによって、ほんの少しばかりの、亡くなった彼らとの関わりができたからだと思います。一方的に、少し、彼らを存じ上げてしまったのです。

しかし、それは身内の知り合いでなくても、私たちは普段からテレビで聞く他人の訃報について、ニュースの一部のみならず、その亡くなった方や、事件について深く知ろうとすることで、少なからず前段で挙げたような、一方的な関わりができてしまっていると思います。それは、ニュースの一部を聞いて受け流す時よりも、ニュースに出て来る他人と、一歩、”みうち”に近づいたと言えるような気がします。それが、なんだっていうのか。

その一歩、歩み寄るだけの行為が、今この世の中に欠けているような気がします。その結果、「他人のもたらした事件や結果ごとを、簡単に誹謗中傷できてしまう」ようになる。少し相手について歩み寄る。それさえ出来れば、当人たちの生きていた生前の、事件が引きおこる前の彼ら、彼らの世界に、自分を立たせることができる。他人の立場に立つことができる。事情や状況を知れば、その人たちの思いに寄り添うことができる。同じ人間だなと感じることができる。それを知って、彼らと自分を重ね合わせる。明日自分が昨日のように生きていられるのか、不安になる。明日は我が身。ほら、自分と他人が近づいた。なんちゃって。簡単なことです。でもそれが出来ない世の中になってしまっているんだなと思います。

私は、みんなが精神的に幸せな世界になることを望んでいます。他人の不幸に加担するような真似はしたくないのです。そのためには、自分事のように、相手について知ろうとすることや、知ろうと思う気持ちを持つことが大事だなと思いました。

こんなご時世だからこそ、明日自分がウイルスに感染しても、明日自分が事件の加害者被害者になっても、明日自分がぽっくり死んでも、明日自分の体が不自由になっても…おかしくない状況だと思います。相手の立場に立って考える。そのために相手を知ろうとする。それだけで、みんなが過ごしやすい社会に一歩近づく気がします。

話を戻します。私は母から知り合いの方の訃報を聞き、その母の悲痛な叫びを横目に、呑気にこんなことを言いました。

「生きている時間が長くなるほどに、人との出会いの数も増えていくし。それだけ、知り合いの数が多くなるということは、知り合いの死に遭遇する確率も高くなるってことなんやね。」

なんか、名言ぽくなりましたが、我ながらしっくりきました。他人だった人々と知り合って、関係性が前よりも深くなり、他人から知り合い、発展すれば心を許す友人に。それは、いいことだと思います。無条件に。いろんな人がいる社会の見え方が、一つの新たなつながりによって変わる。良くも悪くも変化してしまう。中には知り合わなければよかった、という結果になってしまった関係性たちもあるかもしれない。でもそれは、知り合うことでしかわからなかった結果なので、出会ってしまったこと自体を恨んでも仕方ないのかな。

生と死、生きるということ、生の価値。また思い立ったらいろいろ語りたいな。

今日の〆。

明日は我が身。自分も他人も同じ人間。最近、本当にそう思います。簡単に人を罵倒することに慣れないでおきましょうね。

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