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翻訳のしごとに突き進む隠遁生活

その日までは、乗っていたマウンテンバイクのペダルを力いっぱい踏んでもガチャガチャ音を立てるばかりでぜんぜん進まなかったのに、ふと思いついてギア変速機の修理をしたら、いきなり踏み込むトルクが100%前進する力になった、という感じ。

アスペルガー傾向があるわたしが「翻訳者になる」と決めてからの日々は、例えるならそんな状態でした。自分の力をフル活動させている感覚を、生まれて初めて感じました。

「医療翻訳者になる」と決めたとき、わたしのTOEICの点数は 600点代という悲惨な結果だったにもかかわらず、あきらめようとは1ミリ も考えませんでした。

考えることは、ひたすら、どうやったらこの翻訳の世界に潜り込めるか、だけ。

思い込んだら周囲が見えないアスペルガー気質が、偶然にもわたしをよい方向に向かわせてくれたのだと思います。わたしは派遣会社や職安の募集要項を数日じっくり研究し、医療翻訳者になるためのシナリオをこしらえました。

まずは英語力をある程度上げてどこかで英文事務のアルバイトをしつつ、夜間の医療翻訳のスクールのコースを受講して、1年後くらいには翻訳会社か製薬会社に 派遣かバイトとしてもぐりこもう。1社でもこの仕事の経験があれば同じ業界への転職は有利らしいので、会社をいくつか経験してから、うまくいけば5 年~10年後 に独立してフリーランスになろう。それまで何度も経験してきた職場のような、わたしが存在していることだけで罪悪感で消えたくなる、そんな毎日はもういやだ。

自分が進むべき道が今くっきりと示され、そしてその道をのぼった頂上には、『穏やかな安定した暮らし』と書かれたのぼりまで、風にはためいているではありませんか(そう見えました、わたしには)。

とにかく、勉強だ。

わたしは大学受験用の英語の文法書とTOEICの問題集を数冊買い込みました。平日は仕事でくたくたになるため、週末に集中して勉強を進めました。フルタイム正社員の医療現場での勤務と並行しての、転職準備です。時間と体力の勝負でした。生まれてから、こんなに勉強したことはありません。

しかし幸運なことに、半年経たないうちに少し英語力が上がり、偶然募集していた英文事務とビジネス翻訳のアルバイトに応募し、そこに転職することができたのです。

夜は翻訳スクールの医療翻訳コースをいくつか受講し、医療翻訳について学びました。この頃は欲張って複数のコースを同時に受講したため、大量の課題を明け方までかけて仕上げ、そのままアルバイトに行くようなこともありました。

この頃は、そのアルバイトが6時間の短時間勤務だったということもあり、月に150時間くらい勉強していました。

あいかわらずの隠遁生活。

仕事以外はずっと自宅でパソコンに向かい引きこもりに近い生活を継続していましたが、なぜか不安はありませんでした。「これが正解だ」という、他人からみたら根拠のない、でもわたしにとっては揺るぎのない、ある種の確信に支えられていました。この確認があったからこそ、他の人からみたら不安材料だらけの毎日で正気を保ち、ダークサイドに落ちないでいられたのだと思います。

でもこんな生活が、とても楽しかったんですよ。

それは、それまでずっと居続けてしまった「非難されるだけの職場」から、これで逃げ出せるのかもしれない、という小さな希望があったからです。積み重ねがちゃんと経験になるような、未来につながる努力がしたい。そんな仕事に就きたい。そして周囲にもう迷惑を掛けたくない。

自分に向いていない仕事に就いていたときは、どの職場でも上司・同僚から「やる気見せてよ」「なんでここにいるの」「何もできないくせに」と言われました。 自分ではやる気もあるし、それを伝えようとしているのにすべて裏目に出て、結局何も努力しない奴だと思われていました。

でも実は、わたしは医療関係の仕事についていたこの頃、自宅で人知れず努力をしていたのです。でもその努力は、「ふつうの人」からみると理解できないものでした。

例えば、治療に使うある手技に関する、ものすごく基本的な練習です。説明がしにくいので伝わりにくいのですが、テニスに例えて言うならば、素振り以前の、転がってくるボールを受け止める練習、というような低いレベルに当たるものでした。

また、わたしは治療の現場で上司・先輩達に日常的に怒鳴れて恐怖で萎縮してしまい、ときどき声がかすれて出なくなっていました。それを指摘されてさらに緊張が強くなり、ますます声が出なくなりました。どうしたらいいか判らな くなり、わたしはお金もないのにものすごく高価な「ボイストレーニング」のレッスンを受けることに、お金と時間を注いでいたのです。

それから、わたしは患者さんの顔と名前、病歴が全く覚えられませんでした。先輩から治療方針について意見を求められても、患者さんのデータが思い浮かばないために答えられず、緊張と不安から黙りこんでしまい、先輩からは「どうして考えようとしないのか」とさらに怒られることになりました。わたしは患者さんのデー タを勉強と同じように暗記しようと考え、患者さんの似顔絵と覚え書きを極秘の単語カードにまとめ、100枚1冊が4~5 冊にもなったこのカードを、自宅で何時間もかけ覚えようとしました。しかし患者さんの入れ替わりが激しく、あまり効果はありませんでした。

ま た、わたしは患者さんの右側と左側の判断が瞬時にできませんでした。例えば、仰向けに寝ている患者さんの右側が患側だったとき、その患者さんがうつ伏せになってしまうと、もうどちらが患側になるのか、落ち着いてよく考えないと判らないのです。先輩に怒鳴られるという恐怖心から、自分でも何を言っているのか判らないほど緊張して常に頭が真っ白になっていたので、何 度も右と左を間違っていました。なんとかしようと、わたしは枕とバスタオルで患者をかたどった人形を作ってそれに顔を書いて、表を向けたあと裏返にした直後、瞬時に 左右を判断する、という訓練を何度も何度も自宅で繰り返しました。

ほかにもこのような、「こんなこと、本気でやってるの?」というような低レベルの訓練を、休日に一人で何時間もしていました。新人のときに仕事ができないのはみんな同じ、努力すればできる、慣れればできる、と思っていたからです。

しかしこんな努力は誰にも言えず、また目に見える効果もなく、職場の全員から嫌われるという結果に終わりました。 でもこれは、ある意味、自分が去るべき場所と居るべき場所を正しく判断するための、ほんとうに貴重な経験だったと思っています。

医療翻訳の仕事に就くための勉強をすることが正しいのだ、というこの無謀なくらいの確信は、このような貴重な経験から導き出されたものでした。

さて、ビジネス翻訳をちょこっとアルバイトでやらせてもらいつつ翻訳スクールのコース受講を終え、わたしはある翻訳資格の試験にもひとつ合格することができました。今度はいよいよ製薬会社か翻訳会社へ!と思い2、3社に応募書類を送付しましたが、書類選考でことごとく落ちてしま いました。書類選考で受かったところも、次の段階の筆記試験で落とされました。そんなに甘くはなかったのです。

そこで自分なりの分析の結果、このときの敗因はベースとなる英語力自体が低いことだ、という結論に至りました。

わたしはTOEIC900点突破コースという通信添削や市販の問題集をさらに数冊使って改めて基礎的な英語力を上げ、900点以上を達成したところで、ある翻訳会社の入社試験に合格することができました。そこで医療翻訳者として働かせてもらうことができ、その3年半後にやっといまの製薬会社に転職することになるので す。

勉強に力を入れたピーク時期を過ぎても、結局、月100時間以上の勉強時間を5年以上、維持していました。

わたしはこのようにして、「自分ができること」を仕事にすることができました。「普通のこと」ができないアスペルガーに必要なことは、むやみな努力ではなく、客観的に自分を観察して、自分に何ができるか、何ができないのかを把握することです。

周囲の人たちは、「なまけているから」「努力不足だから」「無責任だから」「勝手、わがままだから」あなたができないのだと言うでしょう。でも、その周囲の人たちは、あなたの特性をほとんど知らずに言っているのです。スルーしてもよいと思います。そういう人たちの言うことを信じて何年も無駄な努力をしてきたわたしは今、そう思います。自分の進む道は自分しか決められません。持つべきは、知識と客観的な観察眼です。

次回は、わたしがようやく自らを観察することができて感じたこと、「いい大学出てるのに職場でなぜか使えない人」と「アスペルガー」と「記憶」との関連について書きたいと思います