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愛と平和とアスペルガー

この世には、人を愛せるアスペルガーと人を愛せないアスペルガーがいます。

人を愛せるアスペルガーは、人を好きになり結婚し、自分の家庭を持っています。パートナーを愛しいと思い、子育てに責任を感じ、年老いた自分の親に恩を返そうと介護や墓のことで頭を悩ませて、生活しています。経験する人生の苦労はふつうの人と比べると数倍のものとなりますが、ふつうの人と同じように、その人生は彩り豊かなものとなるでしょう。

このような人を愛せるアスペルガーは、わたしのような人を愛せない孤独なアスペルガーと、一体どこが違うのでしょうか。

実は、持って生まれた特性としては、どこも違わないのです。

この差は生育歴、つまり育った環境によるものだと、わたしは思います。

わたしは、この日本に相当数の「人を愛せるアスペルガー」が存在していることを、実は最近実感して驚きました。アスペルガーって、人間ぎらいじゃなかったの?アルプスの少女ハイジのおじいさんとか、クリスマスキャロルのスクルージとか。

わたしはいわゆる、天涯孤独です。こんなわたしは、アスペルガーの中でもさらに特殊な部類、まさに違う星から地球に単身乗り込んで来た孤独なエイリアンだったのです。わたしのような人を愛せない孤独なアスペルガーの生活とは、ではどのくらい孤独なのでしょうか。

40代後半になったわたしは、自分の家庭を持てませんでした。80を超えたわたしの親もおそらくわたしと連絡を断ったまま他界するつもりだと思います。いえ、もう今死んでるかもしれません。ふつうじゃないですね。まあつまり、わたしにはこの世界に1人も、愛情を注ぐ相手もわたしに対して愛情を注いでくれる人間も、いないのです。

人と交流したいという気持ちはわずかにありますが、わたしがどんな人間か判ったとたん、相手がわたしを「嫌い」始めるのがわかるので、できない。そんなに相手に迷惑を掛けてまで、人と交流したいとは思いません。40代後半に入る前までは、ふつうの地球人のリアクションのパターンを研究・分析してこれをマネし、「ふつう」の仮面をかぶってなんとか社会生活を生き延びてきましたが、ここへきて、この戦略があまり奏功していないことがわかり、もうへとへとに疲れてしまいました。

ここ数年は、あまり無理をして人と交流しようとしなくなりました。お金の問題がなければ、わたしが「少しおかしい人」とバレても事実上殆ど問題ありません。居づらくなったら逃げ出すだけです。

いま現在、派遣として働く仕事場でもメールでのやりとりだけで、誰とも会話をしません。趣味を持って人と関わろうと努力してはいますが、その場所でも殆どしゃべりません。2週間に1回くらいの少ない頻度でも、2年くらいするとどうしても顔見知りが増え、わたしの特性がばれてしまうらしく、「変わった人」「ばかにして笑ってもいい人」とみなされてしまいます。この前は、実際にわたしの発言に他の人10人以上がどっと一気に笑いました。おそらく、わたしの言い方がユーモラスだったのかもしれません。実際何を笑われたのかはわたしには判りませんでした。先生がいるのですが、その先生も「まあ。。。いいですけど」と言葉を濁して苦笑いするだけでした。わたしはぽかんとして、「またか」とそっとため息をつくだけです。職場と同じで、1~2年すると完全にその場に居づらくなります。そろそろ、ここからも逃げ出す頃かなと思っています。

わたしにとって人間関係の継続は2年が限度なのです。正規雇用や結婚など無理。2年経つと居場所がなくなり、去る。新しい場を探してそこに加わり、また新人としてニコニコして自己紹介から始めます。これで2年間は、いてもいい場所を確保したなと思いながら。巨大都市TOKYO、ここでならわたしは個人情報を持たないアノニマス人間として、誰の関心も引かずひっそりと生息することができます。ありがとう東京。大きな都市ならニューヨークでもロンドンでも同じかもしれませんね。わたしはこのまま一人で年をとり病気になって、やはり一人で死ぬのだと思います。理想は、古いホテルのバスタブで原因不明の心肺停止状態で発見かな。

また、わたしはふつうの人に比べると、一人でいることがかなり平気なほうです。20日間くらいは、親しい人とプライベートな会話をしなくても平気になりました。店員さんに「コーヒー下さい。レギュラーで。あ、えっと、エスで。」と言ったり、アパートの管理会社に電話をかけ「共有部分に粗大ごみが捨ててあるんですけど!」とクレームをつけたり、などはしてますが、これらは除外して。

孤独が好きというよりも、孤独に耐えることができる。孤独耐性が高いのです。映画やドラマやバラエティを見て笑ったりハラハラしたりすると、孤独だったことを忘れて眠れるのです。心は穏やか、平和な日々です。これで日々やっていけるのなら、結婚するリスクのほうがはるかに高いよ。

とにかく大切なのは孤独を解消するための愛情や「きずな」ってやつじゃなくて、お金です。病気、住まい、食べる、着る、インターネット。。。すべて必要なことはお金があればある程度、なんとかなる。

こんな、個体数が少ないであろう、わたしのような人を愛せない孤独なアスペルガー。このタイプのアスペルガーはかくのごとく東京の片隅でおのおの孤高の日々をひっそりと送っているわけなのですが、彼らがもともと生まれたときに持っていたのはアスペルガー気質とでも呼ぶべき素因のみで、人を愛せない気質を作る遺伝子までが併存していた訳ではないのです。

彼らが大人になって、他人を愛し信じられる、そして他人と一緒にいて安心できるアスペルガーに育つかどうかについては、誕生した時点ではまだ決定していません。のちのちの生育環境により大きな修飾を受けます。どのように育ったのかが性格に影響するということは、ふつうの人でももちろん起こります。しかし、アスペルガーであった場合、この影響が普通の人に比べてものすごく大きいのです。なぜか。

その答えは、アスペルガーの無垢で素直な吸収力にあります。

幼いころ教えられた感覚を疑うことなく信じて、自分のなかに吸収する。思春期以降、年齢相当の自分なりの人間関係を構築したり人生の機微を知ることもなく年をとる。幼いころ自分の中に取り込んだ信条を修正する機会がなく、それだけを正しいと信じ込んで生きる。それがアスペルガーです。

そんなアスペルガーの人でも、その父や母がふつうの人だった場合を想像してみてください。ふつうの家庭で育ったアスペルガーは、どんな性格の大人に育つでしょうか。

その子が赤ちゃんだった頃から母親と目を合わさないとかかんしゃく持ちとかという傾向があって、後々その子がアスペルガーだったと確定診断がつく。しかしその親は我が子に対して愛情があるから、虐待しない、蒸発しない、借金しない、医療費、学費、食費を出す。親はこの事実にうろたえながらも情報を集め、葛藤し、診断を受け入れ、どうしたら我が子がよりよく生きていけるか考える。我が子の得意なこと、好きなことは何なのだろうと必死で考える。我が子にとって育ちやすい環境を整えるべく、学校などの対外的な交渉や調整をする。適切な言動をすることができなかったときは、のちにちゃんと気づき、反省する。気になるから、話しかける。会話をする。子供がいじめを受けたら、親は自分のことのように共感し、苦悩する。結果、親の手助けが奏功しないかもしれません。もしくは我が子の将来を考え自立を促すため、手助け自体をしないという決断をするかもしれません。

しかし、いずれにしろその子供は「親が一緒に驚いてくれた。悩んでくれた。自分には他の子と同じ価値があるんだ」と感じます。そんな環境で、そのアスペルガーの子は育ちます。

このような親がはぐぐむ家庭環境で育ったアスペルガーは、他人や社会に対してどのようなイメージを持った大人のアスペルガーに育つでしょうか。

残念ながら、アスペルガーやADHDの特性、つまり人の会話が理解できない、こだわりがある、社会性がない、ミスや忘れ物が多い、などの点は大人になっても残ります。

しかしこのよう家庭に育った場合、まっさらな子供の心には「自分を守ろうと努力してくれる自分の家族。無条件で自分を好きでいてくれる自分の家族」というイメージが刷り込まれます。まず、家族とはよいもの、愛せるもの、信頼していいもの、というイメージが刷り込まれるのです。

この家族はイコール、自分ではない他人の集まり、つまり「社会」のイメージに進展します。

したがって、この家庭環境から同時に得られる次にかけがえないものは、「自分は無条件で社会に所属してもよい、所属することができる」という大きな安心感と信頼感です。対人恐怖、人間不信もありません。うつを発症しても期間限定的です。常識も知っていて倫理感もまっとうです。家族という最小基本単位の社会集団で無条件で愛されたし愛した、貢献すらした(実質的にはしていなくても)という自信と自負があります。とんちんかんな受け答えや失敗はしますが、適切な反省をする(っぽい態度を見せます)。

ふつうの人からみて、あいきょうがある天然系とでもいいましょうか。また、ふつうの人からみて、家族がいて大切にされている人というのは「わかりやすい」「安心できる」のです。

自分と他人を信じることができるため対人恐怖がなく、コミュニケーションがとりやすい、つまり、アスペルガー色がやや薄くADHD色の残る発達障害者となります。必要最低限の自尊心を持つ発達障害です。

このベースがある発達障害の人は、社会的には比較的生きやすい。社会に出てから困難があっても、ふつうの人の集団を信じることができるからです。そのふつうの人たちも、信頼されている、頼られていることを感じとるので、このアスペルガーの人を嫌いません。このアスペルガーの人は、ミスの連続という苦境にも、IT機器を使ったり周囲に頼ったりしてなんとか対応することができます。結果として、正規雇用で長期的に、うまくいけば定年まで勤続することになり、経済的に困窮するおそれが低くなります。そして親に注いでもらった愛情を、自分自身の周囲の人間関係に注ぐことができるのです。

人間というものは愛するに値するものだよ、ということを親から教わったアスペルガーは、人を愛することができ、人からも愛されます。このタイプのアスペルガーにとっては、人を愛し人から愛され、人と共に生きることが、平和な人生です。この点はふつうの人と同じです。アスペルガーが全員、人間ぎらいというわけではなかったのです。

一方わたしは、それを親からではなく、自力で学ぼうとしました。

自分と関わる人から、小説、映画、ドラマから、「人間とは愛してもよい、信頼しても危険ではないものである」とう感覚を得ようとしました。だってみんながそういう前提で話をしてたから。テレビでそう言ってたから。しかし、無理でした。わたしにとっては、そのルールは社会常識として知るべき知識でしかありません。でなければ都市伝説か。いまのところ、このルールはわたしにはまったく機能しないという結論に達しています。結果、現在の生活に至ります。

でもわたしにとっては、この孤独な生活は、経済的に優位に経つ相手から嫌われ「じゃ出て行け」と脅されるという可能性を限りなくゼロにした、理想的な平和な生活と言えるのです。自分で稼ぐ限り、明日も確実にこの部屋に住むことができますから。ほとんどの人が共感しないと知っていますが、でも事実です。

さらに、経済的に自立できていることは素晴らしいです。社会全体のお金の流れに個人として確実に参加しているということは、わたしにとってはあり得ないくらい、本当にすごいことです。死ぬときは、本当に一人でよくここまでがんばったなーと十分満足して死ねると思います。