たつ2

アスペルガーのサバイバル

どうしたら、アスペルガーがこの社会で生き残ることができるのか。

どうしたら、「誰かを殺せば死刑にしてもらえると思った」とかの理由で、たくさんの人たちから大切にされているふつうの人を対象に、無差別殺人事件を起こさなくてすむのか(大げさではなく、本気で書いています)。

さらには、どうしたら経済的に自立して、心豊かに、毎日を過ごせるのか。

極端に少なくはあっても、心を通わせる相手を持ち、誰かの役にたち、意味のある毎日を送ることができるのか。

どうしたら、一生を終えるとき、なかなかいい人生だったなと思えるのか。

これまでのクソみたいな混乱に満ちた長い長いカオスのときを経験して、わたしはその答えをこう感じています。

それは、「善意の人」でいること。

やけになって殺人を起こしたりせず、毎日働いて、家賃を払ってお米を買うためのお金があって、わずかな友人とたまに会う。

これが目標だと、公言することをためらうほど、シンプルな目標ですよね。でもこの目標をふつうの人が望むのと、アスペルガーを持つわたしが望むのとでは、困難さが1000倍違うのです。ほんとうに、ほんとうに難しいことなのです。

そのための秘訣が、「善意の人」でいること、なのです。

それは、自分の周囲の人を必要以上に憎まないこと、です。

誰かが自分をあきらかに嫌っていることが判っても、立ち向かっていかないで距離を置くこと。良いことをしてもらったら感謝すること。自分の失敗によって迷惑を掛けてしまったときは、「また?」「いつもいいかげんなんだよ」とか胸をえぐるようなことを言われても、平常心を保ち謝罪すること。集団から孤立しても、えこひいきされても、怒らないこと。

自分は善意の人であると思い込んで、ものごとを考えてみましょう。

誰かからいやがらせのようなことされたとします。もしあなたが善意の人だったら、きっと「相手も本当はいい人である」と思うだろう。だから、相手はいい人、と仮定して考えてみます。「どうせこの人、わたしにいやがらせしてるんだろう」ではなく、「この人は結果的にはひどいことをしたけど、本当はいい人のはず。わたしには想像もつかない、やむにやまれぬ事情があったのかも」と仮定する。それが事実である必要はないのです。実際は、その相手は意図的にあなたにいやがらせをしただけかもしれません。でも実際どうだったのかは関係ありません。しかし、その「相手いい人仮説」にもとづいてあなたが対応すれば、相手がさらにこれに反応するとき、不思議なことに相手は「オレいい人仮説」に沿った反応をしてくれます。人は、自分がいい人だと思っている人に対して、それを覆す発言はしにくいのです。

あなた自身が善意の人でいるということは、相手にも「オレいい人かも」といい気持ちになってもらい、同時にわたし自身をも守ることができるのです。

つまり、変わっているけど、いい人だ、と思われること。とても難しいことです。でも、この社会で生きていく道はこれしかないのだと思います。過剰にいい人になる必要はなく、適切なレベルのいい人になる。

さて、善意の人でいるためにはどうしたらよいか。

ハッピーの程度を近くの人と比べないこと。そのために必要なことは、人とは違うけど、自分にはちゃんと価値があるのだと感じることです。自分には生きる価値がある、そう思うだけで、誰かからいじめやいやがらせを受けても、自分のまわりにシールドがはられ、受け流すことができるのです。

それは、自尊心といってもいいでしょう。

わたしの場合は中学1年まで、わたしの事を好きでいてくれた母がいてくれました。母のおかげで「自分は他の人と同じように、大事な存在なんだ」と感じることができ、これがわずかながらも自信につながったと思います。その母が突然病死してからわたしが実家を出るまで、わたしにとっての家庭の機能は麻痺し、人に言えないようなひどい事件が家の中で次々に起きて、わたしは日々生きるか死ぬかの恐怖を感じて暮らすことになりました。周囲に味方がおらず、「わたしは誰からも好かれない」と、確信するようになりました。

社会に出てからは、ADHDの特徴である単純な仕事ができないこと、またアスペルガーの気質である人の気持ちを読めずに失言を繰り返すことによって、周囲の人を激怒させてしまい、家庭でも仕事でもまるで使い物にならず、ふたまわりも年下の上司に「あんた性格全部なおして」と言われ孤立し、逃げ出すように居場所を転々とする。そんな生活をこれまで30年以上、してきました。

そんな中で、「とにかく、人はわたしを嫌うのだ」という基本的な考え方がますます醸成されていきました。

理由はわからないけど何を言っても人から怒られる。なぜか。それは、この人が単純に自分を嫌いなだけだ、とそう思っていました。正直言って、今でもそう感じています。おそらく、人から怒られるケースの8割は、これに当てはまると思います。わたしは「なんとなく気に食わない」人間と思われているわけです。これまで、元CAやアナウンサーが講師のマナー教室、コミュニケーション教室、アサーティブコミュニケーション講座などに何度も通ったのに、何も変わりませんでした。この点はもう、どうしようもありません。

でも残りの2割のケースでは、怒りをあらわにしているその人は、もしかしたら、わたしの性格ではなく発言や行動だけにフォーカスしてくれていたかもしれません。その場合、一つ一つ、注意された発言や行動を直せば、良好な関係を保つことはできたはずです(失敗を3回繰り返せば無理ですが)。

もし、わたしが「善意の人」だったら、どう考え、どう行動したでしょうか。「相手がわたしのことを嫌いなばかりに、ほかの人が同じ失敗をした場合と比べ何倍も大げさに怒っている」わけでなく、私が犯した失敗について、「適切に」怒っているだけだ、と確信が持てていたら、どうなっていたのか。

おそらく、もっと素直に謝罪できたし、相手に対し適切なコミュニケーションを取れていたと思います。

わたしはこれまで、確認を持って「基本、わたしは人に嫌われる」と信じてきました。相手が怒っていても、これまでの経験から「またこれか」「どうして怒っているのかよくわからない」「わたしのことが嫌いだから怒っているのだ」「どうせこっちの理由を説明してもさらに怒るだけ」「謝ってもわかってないって怒るだけ」「じゃどうしろっていうのか」という気持ちがうずまき、イライラして強めの口調になってしまい、「反抗的」「生意気だ」と、さらに相手の怒りを買っていました。

良心を持ち、相手のこともいい人である、という前提で行動する(少なくとも、そう仮定する)。そうすることで、これまでのように、最終手段として逃げ出すしか道がなくなるくらい、最悪な関係に陥ることを避けることができるケースがあるかもしれません。

発達障害を持つ人のなかには、忘れ易かったりミスが多いというADHDの特徴のみがあり、アスペルガーの特徴はほとんどないというケースもあります。このタイプの人は、基本的に相手を個人的に怒らせる発言はしないため、わたしのように人から無条件に嫌われる経験がないので、性格もオープンで周囲の人を信頼できることが多く、ふつうに結婚したり何十年も同じ職場にいることが継続している人が多い気がします。

一方わたしのように、アスペルガーを抱えるために人間が怖いと感じるようになってしまい、継続した関係を持てない人に、「善意の人でいる」という対策は、共感してもらえるかと思います。

わたしは基本的に人と一緒にいると、相手が何を考えているのかわからなくて緊張してしまいものすごく疲れてしまいますし、独りでいるほうが安心できます。死んだ母を信じたように、心から信じられる相手は、本当はだれもいません。おそらく心の底から人を信じることは、わたしには一生無理だと思います。

それでもいいや、と思うのです。この社会に適応して、細い細い蜘蛛の糸のような人との繋がりが数本でもできたら、わたしとしては上出来じゃないでしょうか。

善意の人でいる。

わたしが善意の人でいることが、わたしと周囲の人をつなげる蜘蛛の糸を数本、とどめてくれます。それがわたしを少なくとも居てもいい場所、人から受け入れられる場所、つまりこの世界に、つなぎとめる役目を果たしてくれるのです。