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喜びと悲しみは半分ずつらしい

長引く自粛生活の中、もう酒を飲むくらいしか生きがいを見つけられなくなったことで、「いかにそれらしく飲酒をするか」そのために必要なものを揃えてしまった。甲類の焼酎が1.8リットル詰め込まれた大容量パック、ただの水を炭酸水に変えてくれる魔法の装置、冷蔵庫の中がちょっとしたショーケースになる缶ビールラック、そして今日届いたのがサーモタンブラーだった。

自宅で飲むようになってから、毎日すさまじい量の氷をグラスの中で溶かしてきたが、たかだかステンレスの筒1つで、驚くほど氷を消費しなくなった。長い時間冷たいままで飲めるようになった。「生活を豊かにしていくことは道具を揃えていくことなのだ」と、心の中の偉人が言葉を残した歴史的な夜だ。

その代わりといってはなんだが、焼酎をどの程度入れているかが計りにくく、飲み過ぎてしまうという新たな壁が立ちはだかったことで、喜びと悲しみは半分ずつ訪れるということを実感した。果たして本当にこの世の喜びと悲しみは、半分ずつなのかはわからないが、これまで過ぎていった時間に話を聞いてみると、喜びは米粒ほど小さく数えにくく、きっと哀しみはまさに大災害のように人生に刻み込まれては後世の自身に永く語り継がれる、それほど大きく数えやすいに違いないとのことだった。

なにを喜びと名付け、なにを悲しみと呼ぶことにするか、それを自由に決める権利は誰もが平等に持つものに違いない。だからこそ、それらを俯瞰して見れば最終的には半分ずつと結論づける方が早かった、ということなのかもしれない。誰がなにに対してどういった感情を持ち、それを発信しようがしまいが、それもまた自由なはずが、そこに生まれる不自由はどうにも、自由と半分こずつ、とはいきそうにない。

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