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糖尿病になるための学校教育 KARTE2

自分の子供の頃は貧乏人が多かったと思う。
冬でもピチピチの食い込むような短めの半ズボンを履いていた。
そのころは鼻の下が乾いて白くカピカピな小学生がわりといた。
小学生のころは昭和真っ只中だった。

自分の家はものすごく貧乏ではなかったが、
食事のときは「おかずだけ食うな」といわれる家庭だった。
白米とおかずを交互に食べる「三角食べ」なんていう言葉もあった。

中学生、高校生と成長するにつれて、ますます腹が減るようになった。
裕福な家庭ではなかったので、おかずの量は増えない。
けれども白米のおかわりはできた。
白米をたくさん食べるためには、
おかずを塩っぱくした方が都合がよかった。
少ないおかずに調味料をドバドバかけるのは、
段々と当たり前になっていった。

今考えれば昭和の時代に怒られていたことは、
どれもこれも間違いだったような気がする。
少ないおかずで白米をたくさん食べてきた結果、
順調に現在、糖尿病になってしまった。

「茶碗に残った米を残さず全部きれいに食べなさい」
「食べ物を残してはいけない」
「お百姓さんが一生懸命作ったんだから、きれいに食べなさい」

[昭和の洗脳]
自分の意見を素直にいうよりも、相手の顔色を見ましょう。
常日頃から他人の顔色を伺い、その場の空気に流されましょう。
やりたくないことを断ってくる「ノリの悪い」奴は悪者にしましょう。
付き合いが悪いことを「悪いこと」だと思い込ませましょう。
自分の機嫌よりも、相手の機嫌を気にするようにしましょう。
自分が嫌な奴になっていないかを気にしましょう。
自分の性格が悪いといわれることが「悪いこと」だと思いましょう。

ホントはホントは、
「なんだあいつおもしろくねーな」といわれるのは、
自分が相手の都合にコントロールされなかった良い状態。

ホントはホントは、
「他人の好意を拒絶する」これができないと自滅する。
外食のおかわり自由とか大盛りサービスなんてのは、
糖尿病からしてみたらただの地獄絵図。

ホントはホントは、
自分が嫌な奴で居続ける覚悟を持ち続け、ありがた迷惑を拒否する。
好意でもありがた迷惑なことをいってくる相手は断って傷つけてもいい
同じようにこちらが嫌な気持ちになるようなことをいわれても構わない。

誰がどんな理由で不快かどうかなんて知らない。

ホントはホントは、
提案を断る練習をし、こちらから提案する練習をしてみよう。
相手に寄り添うことはしなくていい。

糖尿病になった今ならわかるが、腹一杯になる前に残せと思う。
誰かの目を気にするなら、自分の健康をまず気にしろと思う。
会ったことない米農家のことを気にするぐらいなら、
自分の体調こそ気にしろと思う。


「食べ物を粗末にするな」というコトバには、
残すなという意味まで含まれていると思う。
無理して食べる必要なんてどこにもないのに、
残すことが悪いことだというふうに育てられてきた。

どう考えても無理して食べる方が体に悪いと今ならわかるが、
子供は基本あまり食べないので、給食時間はいつも白米が残っていた。
もったいないので先生がおにぎりにして生徒たちに食べさせていた。

昭和の給食時間は、早く食べ終わった順から校庭へ遊びにいった。
少食だとか嫌いな食べ物がある生徒はなかなか食べ終わらず、
食べ残しに厳しい時代だった。

必要以上に食べることで、自分の体が病気になる心配をするよりも、
作ってくれた人への好意に報いるという形で、
残さずきれいに食べ、感謝の気持ちを表現することが正しいという、
幻を植え付けられ、それが行儀だとか、常識だとか、
自分よりも他人を優先することが教育だと思い込まされる。
「他人からよく思われなければならない」という体裁の方を、
優先させる教育をやっていたのだと思う。

その考えが集団化し他人の食べ方にまで、
わざわざお気持ち表明として注意しにくる。
腹いっぱいになり仕方がなく飯を残す場合でも、
残すことは行儀が悪いという人はいまでも多くいる。

ラーメンの汁まで全部飲めと友人に怒られたことがある。
汁を飲み干すことがうまいラーメンを作ってくれた人への賞賛だという。
塩っぱくて残したのだが、そいつの体裁は、
そいつ個人のみに適応されるわけではなく、
友人の僕にも適用されるらしい。
なぜかラーメンの汁を残しただけで、説教とうんちくを食らった。
もちろん現在は友人ではない。



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