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あんたももう終わりやなあ

生きていればいいことも悪いこともある。浮き沈みがあるのが人生で、その波をどう乗りこなすかが生きる醍醐味だと言ってもいい。おれにも当然いいときと悪いときとがあって、悪いときなんかは、明日が来ることさえ想像できない、いや、時間の流れさえ拒否していて、昇る朝日を憎んでいたりもしたものだ。だが、絶望的なときほど、そこにおもしろい出来事が舞い込んでくることもある。真空状態こそがいちばん外の風を呼び込むのに適しているかのようだ。

episode1

ある日おれは絶望的な気分で、河川敷を歩いていた。気分の暗いときほど水辺に引かれるというのは、生死未分の頃を郷愁しているかのようだ。散歩やランニングをしているひとをすれ違いながら、追い抜かれながら、とりあえず道を選ぶ必要はないので、ただただ川下の方へと歩き進んでいた。すると遠くから音が聞こえてくる。ブラスらしい。近くまで来たときにはそれがサックスだということも、そしてその音楽がジョン・コルトレーンの「Say It」であることもわかっていた。その甘いメロディーを奏でているのはみずぼらしい格好をした40前後のおじさんで、ボロボロの出立ちにサックスだけが鈍い光を添えていた。涙が出るほど美しい演奏だ。おそらく彼は練習していたのだろうが、そのときのおれには今まで観たどんなライブよりも尊いものに思えた。その前に腰掛けて何フレーズも繰り返されるのを聴いていた。生きていればいいことがある。それは決してゲンキンなものではないかもしれないが、たしかに心を潤してくれるものである。そのときポケットには5,000円札しか入っていなかったので、ささやかながら彼に感謝の気持ちを込めて捧げたいと思った。風で飛ばないよう石ころをおもしにして、置く。彼は目配せもしなかったが、拾ってくれただろうか。あなたの演奏はひとりの絶望を甘く蕩してくれたよ。ありがとう。

episode2

ある日おれは恋人と大きな喧嘩をして、もう立ち直れないくらいの気持ちになっていた。深夜2時か3時くらいだったと記憶している。道を歩いていると、道端にいたおばあさんが「あんたももう終わりやなあ」と声をかけてきた。心中を言い当てられたかのように思って吃驚した。が、声をかけてきた、というのはおれの思い違いで、おばあさんは手入れをしていた花に向かって声をかけていたのだった。大輪の菊である。今もその情景が鮮明に思い出せる、と書けばそれは少し脚色が過ぎるだろう。おばあさんの猫背と、その背丈近くまで伸びていた菊の姿だけがぼんやりと浮かんでいる。……にしてもよりにもよって夜更けにおばあさんはなぜ花の面倒を見ていたのか。なぜひとが通ったタイミングで「あんたももう終わりやなあ」なんて言ったのか。不思議なことがあるものだ。

死んだらおしまいだという言葉はあまりに薄っぺらくなりすぎて、絶望的な気分のおれにそんな言葉を聞かせても一縷も届かないだろうが、こういった偶然があるということは、希望なんて明るいものではないにしても、生きるのはおもしろいものだという気づきを与えてくれる。生きる希望、なんてものは存在しない。だが、不図した出来事をおもしろがれるということ、その能力、態度は、そのひと自身がいま、生きていることを証している。


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