"生活者"として書いてみようと思った

新しい職場で文章をほめられるようになった。すると、私は書くことが好きなのではないか?と思うようになった。

よくよく振り返れば、私は明らかに書くことが好きそうな人だ。小学校低学年の夏の読書感想文こそ母にかなり手伝ってもらっていたが、小4でクラスの新聞係を引き受けたことを皮切りに、小中高の委員会活動は広報ないし新聞だったし、小学校の頃は自由帳にガンガン小説を書いていたし(漫画も書いたけど)、チラシの裏にもガンガン新聞(○○〔本名下の名〕新聞といった具合)を書いていたし、中1の時に国語の授業で書いた小説もえらく先生にほめられたし、中高の頃には黒歴史的なブログも書いた。大学のサークルでは広報係で、機関紙に好き勝手コラムを書き、なんなら新卒で最初に勤めた会社は新聞社だったのだが、この間なんと"書くことが好き"と思ったことはない。

新聞社にも書くことが好き、というつもりで入っていないから、はなから記者志望でもなく、パンフレットやチラシや広報誌の制作を請け負う職場に長くいた(やっぱり書く仕事ではあるのだが)。
そして、とうとう書くことが好きと思わないまま、新聞社を辞めて、大学院を経て、盛岡に身を移し、今は書くことがメインの仕事からは離れている(それでも、何も書かない仕事は世の中にはないでしょう)。

話を始めに戻すと、新聞社にいたという先入観もあるのだろう、どうにも今の職場では文章をほめてもらえるのである。
ここまでほめてもらうことは初めてなので、そうなってようやく、書くことのおもしろみ、書く行為に頭を使う楽しさ、読んでもらう喜びに気付いてくる。
ひょっとして、私、書くことが好き?というか、好きだからこんなに書いてきたんだ。

とは言っても気付くのが遅すぎた。書くことが好きなら新聞社という場所はこれ以上のものもないだろう。書くことは仕事でなくなってしまった。

だけれども──ここ文芸王国岩手には、仕事にせずとも見たもの聴いたこと感じたことを言葉で表現して発信しようとする人がたくさんいる。高校文芸も盛んだ。こうして世に出てきた詩や小説、短歌や俳句、エッセーなどは、果たして彼らの自己満足に留まるのだろうか?
私はそうは思えない。なぜなら彼らの作品だって、職業としてものを書いている人たちの作品と同じように、私の背中を押してくれたり、気付かなかった感情を掬い上げたりしてくれるからである。

生活者として書いてもいいのだ、と思った。私がアマチュア合唱に精を出しているのと何らかわりなく、文芸にだって生活者の文芸があっていいのだ。それに意味があるかどうかを書く側が考える必要はない。読む側が決めることだ。だから、書きたいなら書けばいい。

これからここに、好きなことを好きなときに好きなように書く。それで人の人生をどうこうしようなんて、おこがましいことは考えない。私のために書く。それが私のアウトプットの場になり、個人史になり、あるいは私自身を救うことになるかもしれない。だけれども、誰かに読まれてもいいように書く。
これが生活者としての文芸だと、今は思っている。

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