坂本沙季34.すみっこでしか暮らせない人

自分の余裕がないときに愛のある対応のできない自分が嫌いです。ひとからのラインを返せず、少し放置してしまうようになってしまったことがもう自分のキャパシティのなさを痛感してしまう。器用にいろんなことをこなすひとが羨ましい。



最近演劇が好きな理由は、作品を構成する要素がたくさんあって、すべてにいろんな人が関係していて、そこには独立した個が存在しているのに、完成された作品はひとつのパッケージとして立ち上がるからです。例えば舞台の上にいるひとにも、そうじゃない時間があること自体がすごい良い。演劇と演劇じゃない時間は連続していきます。私はそれらすべてを肯定したい。とても怖いけど、諦めじゃないです。
この考えはこれからも変容していきます。

嫌いな部分は愛せない。
前からじぶんが思っていることを相手に伝えられないことを 言語化できない というように言葉にしてきたけれど私の場合はそういう問題じゃないことに気づいてしまった。 感情がそもそもわたしのなかで言語化はされていて、それの取捨選択に時間がかかりすぎている。しかも、思い浮かんでいる言葉が多すぎる。関係性が築かれていればいるほど、相手に嫌われたくないとかよく思われたい、円滑に進めたいみたいなことが強く在って、言葉を選ぶのに焦る。
こう言ったらどう思うだろう?こういう顔をしたらどう感じるだろう?こういう言葉を使ったらどんなふうに考えるだろう?っていつも何時間も考えてしまう。
本当は怒りの言葉が浮かんでいても、それを当人にはぶつけられないから周りくどい言い回しをしてしまう。じぶんがどんなことをしようと思っていたとか、本当は喜ばせたかったとかが全然うまく伝わらない。

友達や一緒にいろんなことをしているいろんなひとそれぞれに起こっていて、自分が話すのにたくさん時間をかけてしまって本当に嫌だ。それにうまく伝わっていない。そういった全部が嫌いです。これも本当はただ一人に向けて言っていたとしても伝わらない。

でも、わたしには嫌いなひとが存在しないって自分では思っていて、友達に「嫌いなひといないでしょ?」って最近言われて思い出した。嫌わないのも怒らないのも諦めてるからでしょって思われるけどそうなのかはわからない。
自分が書くものには、フィクションだとかそういう話ではなく私の場合は確実にそこに過去の自分がいてしまうのでだんだんと乖離させてゆきたい。
そうやって諦めかもしれないところから離れさせたい。諦めだと決め付けてしまうのもかなり暴力的な判断だと思うけれど、それは作品を見てしまえばバレてしまう。この間まで配信していた花は窓を観た人にはどうこう思われているのかも。わたしは二度と信用してもらえなくても一緒にいたいと思うし、それらも含めて構成する要素って片付けさせてほしい。

連続した部分だと観てしまえば、その嫌いも良いを作るものの中に入ってしまうので、単純に良くなれます。いい人間になれるかもしれない。だから、最近は愛せないけど好きです。

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