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そのハンマーを握る手は:Sara Ahmedの反トランス差別エッセイを読む

コツ、コツ、コツ。 ハンマーで何かを叩く音がする。
ゴン、ゴン、ゴンッ。鈍い音もする。
そのハンマーを握る手は。
ハンマーの音は、ひとつではない。そこかしこから、音がする。
ハンマーが、共鳴する。

0.響き合うハンマー

 こんばんは。夜のそらです。今日は、Sara Ahmedさんという方が書いた、トランス排除についてのエッセイ「響き合うハンマー(An Affinity of Hammers)」の紹介をしたいと思います。
 Ahmedさんがこのエッセイで書いているのは、トランス排除・トランス差別運動の最先端、UKの状況です。でもわたしはこのエッセイを、日本のことを思い浮かべながら読みました。まさに、いま日本で起きていること。
 これから、そうしてエッセイを読みながらわたしが考えたことを書きます。でも、Ahmedさんの意見と違うことを書く可能性もあります。遠いUKからWifiに乗って届いたPDFデータが、わたしの心に共鳴しました。せいぜいその心の周波数の記録として、お読みいただければ幸いです。
 なお、このエッセイや、ご自身のホームページでの自己紹介によれば、Ahmedさんは移民2世としてUKで暮らしています。有色のレズビアン女性で、シスジェンダーです。大学の教授もしていましたが、セクシュアル・ハラスメントの対応がもとで、大学は辞めたそうです。いまはフリーの書き手(ライターさん)として活躍していて、わたしのような普通の人でも読める、素敵な文章をブログなどに書いてくださっています。講演もいつも超満員です。ちなみに、Youtubeで確認したら「アー(ハ)メ(ッ)ド」さんという風に呼ばれていましたが、ご本人の意向は分からないのと、カタカナにしづらいので、今日はAhmedさんと表記させていただきます。

網掛けにした部分は、エッセイからのわたしの翻訳です。すこし長くなってしまいましたが、エッセイの雰囲気もお伝えしたいので、読んでいただければ幸いです。ちなみにエッセイそのものはここ↓からダウンロードできます。ページ数は、このデータのものです。

1.よく分からない論考

そのレターが明瞭な議論である必要なんて、なかった。それは、そのレターにべったりとくっついて離れない、ひとつの印象を与えるためにあるのだから。「トランス活動家がフェミニストをいじめている。そして大学は、そうしたいじめを許容している」という印象を。(24ページ)

 このエッセイは、あるレターを巡るあれこれからはじまります。
 そのレターは、UKの有力紙ガーディアンに掲載されました。短いレターには、たくさんの学者さんの署名が添えてありました。そのレターのタイトルは、「個人の考えを検閲し、黙らせることを私たちは許さない―――このような虐め(いじめ)と闘う特別な責任が大学にはある」。


 ここで「検閲」とか「いじめ」とされているのは、フェミニストに対する「検閲」や「いじめ」です。最近、性産業(セックスワーク)やトランスアクティヴィストの主張に【疑問】を抱いたり、そうした主張や活動に【批判】的なことを言うだけで、「それは差別だ」という風にひどい「検閲」を受けてしまう例が相次いでいる。これは、フェミニストに対する「検閲」であり「いじめ」だ。大学は、もっと【自由な批判】や【自由な言論】ができる場所でなければならないはずだ。―――――これが、そのレターの主張です。そしてそこには、たくさんの学者さんの署名がありました。

 さて、このレターはそうした「検閲」や「いじめ」の例を4つ挙げているのですが、まず事実の問題として、その4つについては残念ながら事実誤認が指摘されています。セックスワーク差別の発言を繰り返していた人のショー(演奏会)が中止になったのは、検閲ではなく単にチケットが売れなかっただけでした。トランスフォビア的な主張で有名な人の講演だけを行うのは大学として問題なので、トランスライツに理解にある別の登壇者の企画を並行して設定しようと、交渉が試みられていただけでした。※詳細については、例えば以下のブログをご覧ください。

 しかしAhmedさんがこのレターに注目するのは、そこに事実誤認があるからだけではありません。このレターが、非常に問題のある仕方で、トランス差別(とセックスワーク差別)を擁護しているからです。
 上で翻訳したところに書いてある通り、このレターには「明瞭な議論」はありません。4つの事例が並べられていますが、どんな権力者が、どのように、なぜ「検閲」や「いじめ」を行ったのか、具体的には書いていません。でも、Ahmedさんに言わせれば、そんな具体性や明瞭さは、このレターには必要ありませんでした。大切なのは、そのレターに「べったりと貼りついた」ひとつの印象を、読者に与えることなのですから。
 それは、「フェミニストがいじめられている」という印象です。「フェミニストが、トランスアクティビストによって、またトランスの権利や健康を擁護する人たちによって、いじめられている。」という印象です。「あいつはトランス差別者だ」、「あいつはターフだ」、そんな口実を使って、フェミニストの口を塞ごうとしている勢力がいる。そうした印象さえ与えられれば、それでいいのです。トランス活動家や、その支持者たちの「ターフ探し」によって、女性たちがいじめられているのだ。そんな印象を与えることができれば、具体的な説明や明瞭な議論なんて、必要ないのです。

 フェミニズムは、女性差別の温存を願う勢力によっていつも反発を浴びてきました。もの言う女性は、いじめられてきました。それは事実かもしれません。でも、このレターは、現実に起きているトランスへの差別や攻撃をまるっと無視して、そこからもう一歩進んでしまうのです。今起きているのも、そうした「検閲」や「いじめ」の一種だ、と。「トランス差別」の口実を使って、フェミニストの口封じをしようとしている勢力がいるのだ、と。

 このレターと同じような文書が、日本でも公にされました。「フェミニズムの現在」を特集する雑誌に、それは公刊されました。書いたのは、女性学の有名な研究者です。もう、後には戻れません。
 たくさんの学者さんたちが、口を揃えて言いました。何を言いたいのか分からない文章だ、と。支離滅裂で、あっちこっちに話が飛んでいる。なにかぐだぐだと口ごもっていて何を言いたいのか分からない。まったく、よく分からない論考だと。
 でも、それでいいのです。「明瞭な議論である必要はなかった」。むしろ、明瞭な議論でない方がよいのです。だって、明瞭に書いてしまったら、ただのトランスフォビアが、隠れなく見えてしまうでしょう。「誤解だ」と言い逃れする余地が、なくなってしまうでしょう。だから、はっきり明晰に、論理的に、自分の考えを反省して書けば――それは本来は研究者に欠かせないスキルだと思いますが――、こんなに多くの同業者たちからへらへら擁護されることは、きっとなかったでしょうね。
 たくさんの学者さんが、「よく分からない」と言いました。そうですね。支離滅裂で、調査不足で、学者さんが書いた文章だとは信じられません。でも、よく分からないことにこそ、意味があるのです。ガーディアンのレターが、そうであったように。

―――トランスの権利を擁護している連中は、危ないやつらだ。「ターフ」という呼称を使っている連中は、危険な奴らだ。女性の安全が脅かされている。シェルターが破壊された。物騒なパレードをやっている。女性が攻撃されている。トランス擁護者は危ない。あちらの人たちが暴力的なせいで、まっとうに話ができない。戦争が起きている―――。その論考に「べったり貼りついた印象」が伝われば、それで十分なのです。それで十分、トランスは死ぬのです。

 それにしても、あの論考――それが「論文」かどうかなんて、私たちには心底どうでもいいことです――は、そんなに「むずかしい」ものだったでしょうか。あの論考が書きとめられた下地(テクスチュア)には、トランスへの無理解や差別、侮辱という名の横糸が、そしてトランス差別者たちからの身慣れた言い訳という縦糸が、しっかり編み込まれていましたが、テクストをよく読む文系の研究者の方がたには、それは見えませんでしたか。
 書いた人に差別意識があったかどうか、差別の意図があったかどうかなんて、高校受験の国語の問題みたいにそんなことを読み取るのが、テクストを読むことなのでしょうか。書いた本人にすら自覚されていないかもしれない、テクストの下地に流れ込んでしまっている糸を解きほぐし、その糸を編み込んでいる権力という機織り機の姿を暴くのが、ものを読むということではないのでしょうか。いったいいつまで、見えないふり、聞こえないふりを続けるのでしょうか。
 ちなみに、例のガーディアンのレターに対するAhmedさんの詳細なリアクションは、以下のブログ記事に見ることができます。レターが掲載されてからわずか1日後に、このレターの問題を厳しく指摘したものです。

2.表現の自由と転倒した世界

(…)そのレターは、言論の自由という言葉を使う。一方では言論の自由の大切さを説きながら、まさにその言論の自由が脅かされているのだ、と。(…)レイシストたちが語るストーリーはこうだ。「私たちは、移民についてきちんとした問いを発することすらできなくなってしまった。いまでは、そうした問いを立てるだけで『お前はレイシストだ』という烙印が押されてしまうのだから」。レイシズムであるとの非難が、ここではまさに、きちんとした問いを立てることを疎外するものとして理解されている。事態がひっくり返っているのだ。レイシズムは、〔不当にも〕禁止された言論、マイノリティの言論として理解され、いまや〔言論の自由の名のもとで〕励行される。(…)そうした図式のなかでは、支配的な考えの方が、あたかも少数派の見解であるかのように再配置される――「少数派の見解を表明するために、私たちは闘わなければならない」と。レイシズムは、「レイシストであるための自由が私たちから奪われている」という主張によって活力を得るのである。(24-25ページ)

 レイシストは言います。どうして日本が嫌いなのに、日本に住んでるの?どうして外国人に医療費を払わないといけないの?と。
 セクシストは言います。どうしてフェミニストはいつも怒ってるの?女性が差別されている証拠を出してみて?女性は社会で優遇されてるよね?と。

 そうしてどちらも、自分の無理解と差別的な態度を指摘されて、こう言うのです。―――どうして?質問しているだけなのに、と。

 お決まりのフレーズ。私たちは「議論」したいだけなのに。

 「議論」をしたいだけなのに。素朴な疑問を口にしただけで、今ではすっかり差別者よばわり。これは不当な口封じだ。私たちこそマイノリティだ。「差別」の名の下に、私たちの口を塞ぐ連中がいる。言論の自由が奪われている。言論の自由を守れ。

 いま起きているのは、、、「ターフ探し」。「トランス差別」を合言葉に、女性の口を塞ごうとしている勢力がいる。私たちの言論の自由が、奪われている。私たちは、素朴な疑問を出しただけなのに。フラットに、議論したいだけなのに。フェミニストとして、批判的に(クリティカルに)ジェンダーについて考えたいだけなのに。

 それは、ただの素朴な疑問。――――トランス女性の定義を教えて?
あなたはどっちのトイレを使ってるの?ペニスがついた女性が女性トイレを使ってもよいかどうか、フラットに議論しましょう。そんなに女性スペースに入ることに拘るのは、あなたがやっぱり男性だからでは?トランス女性は女性らしさのステロタイプを強化する存在なのでは?

 すべてが、ひっくり返っています。差別をやめられない人の世界では、すべてがひっくり返っています。トランスを攻撃している側が、ここでは不当な攻撃の被害者になっているのです。

 そして言います―――「ターフ探しが起きている」と。本当は、寄り添いたいのに。本当は、共闘したいのに。「ターフ」のレッテルを張って、フラットな議論を妨害している勢力がいる。

 この転倒した世界では、トラブルを起こしているのは「ターフ」ではありません。「ターフ」を責める人たちこそが、そして、トランス差別をやめさせたいと願い、声を挙げるトランスジェンダーたちこそが、すべてのトラブルの原因なのです。ここでは、世界がひっくり返っているのです。

 でも、覚えておかなければなりません。

ある人たちが、その人の存在そのものが反駁されてしかるべきものであるかのようにして他の人を扱うことで、議論を武器のように使っているとき、対話なんてものは可能にはならない。(…)トランスフォビアだったりアンチトランスだったりの発言を、多様性という名の言祝ぐべきテーブルの上に乗せられたもののように、自由に表現されてしかるべきひとつの考え方として扱うことはすべきではない。テーブルに座っている誰か別の人を抹殺することのために議論をしている人間が、現実にテーブルに座っているとき、そこには対話なんてものはありえないのだから。(31ページ)

 差別者からの「素朴な疑問」に、トランス自身が応じる必要はありません。排除を目的とした「定義」の質問に、答える必要はありません。覚えておいてください。あなたの存在を否定することのためだけに「議論」をしたい人とは、そもそもまともな「議論」なんてできっこないということ。あなたの存在を否定するための「自由」なんて、「言論の自由」が守るべき自由には、含まれていないこと。転倒した世界を生きる人は、「対話」がしたいのではなく、あなたの存在を否定したいだけなのだということ。そんな人間と一緒のテーブルに座る必要なんて、これっぽっちもないということ。

3.見えないハンマー

それにしても、多くの学者たちはどうしてこんなレターに署名したのだろうか。どうして、こんなものに署名するなんてことができたのだろうか。私が思うに、その学者たちはこのレターの「ポイント」を聞き落としていたのだろう。そのレターを支持する人びとの多くは、トランスの人々に対するハラスメント〔=力関係を使った不当な攻撃や嫌がらせ〕が情け容赦のないものであるということに、肌身で触れてこなかったのである。それを支持した人たちには、そんなハラスメントに触れる必要がなかった。これが、特権を特権たらしめているものだ。特権があるとは、ある世界を背景に押しやって自分から見えないようにすることができる、ということだ。(28ページ)

 かれこれもう1年半以上、多くのトランスが、差別をやめてほしいと声を上げ続けてきました。なかにはもちろん、声を挙げられなくなって消えてしまった仲間もいます。そして、命を絶ってしまった仲間も。

 一時期ツイッターで、シス特権とは何か、ということが話題になっていた気がします。Ahmedさんはシンプルに教えてくれます。シス特権とは、トランスがハンマーでなぶり殺されそうになっていることに気づかないでいられる、ということです。シス特権とは、「シス特権なんてあるだろうか」と問いを立てられるということです。シス特権とは、トランスジェンダーへの暴力や差別、攻撃やハラスメントを「見えない背景に押しやること」ができるということです。

 一緒に平和運動をしている仲間が、とつぜん在日外国人へのヘイトスピーチを始めたら、あなたはどうしますか?「考えはちょっと違うけど、これからも一緒に平和運動をしていこうね」となりますか。もしそうだとしたら、あなたの考える「平和」ってなんですか。爆弾が降ってこなくたって、誰かに銃を突きつけられなくたって、差別は人の心をずたずたにするし、差別は人を殺すことだってできます。差別の扇動は、そこでターゲットにされているひとの生活と命を、簡単に脅かします。だったら、そんなヘイトスピーチは、「平和」とは絶対に両立しないはずでしょう。

 トランス差別も同じです。女性差別をなくそうと手を取り合ってきた仲間が、とつぜんトランス女性への差別や攻撃を始めたとして、「ちょっと考えは違うけど、これからも女性のために一緒に頑張ろう」って、なるんですか?じゃぁ、それってなんですか??女性差別がなくなることって、トランス女性が差別されていたとしても実現するんですか?

 この国の女性差別は、本当に酷いと思います。本当に本当に酷い国だし酷い社会だと思います。でも、いわゆる「フェミ」系のアカウントで、自分のTLに流れてきているはずのトランス差別が見えていない人がいるなら、いったいその人は、何を目指しているのでしょうかわたしにはわかりません。それはまるで、在日外国人の方に対して大声でヘイトスピーチをぶちまけている人と一緒に手をつないで「9条を守れ」と言っている平和運動家のようです。わたしは、そんな人が本当に平和を願っているとは、思えません。9条も泣いているでしょう。

4.そのハンマーを握るのは、あなた

冷や水を浴びせるトランスフェミニストたち(transfeminisit killjoys)は、トランスの人たちに対して振るわれる暴力のシステムとして、振り下ろされるハンマーの存在を暴き出す。その振り下ろされるハンマーには、ラディカルフェミニストを自認する人たちからのハンマーも、含まれている。そのように振り下ろされるハンマーのいくつかは、表面上はとても柔らかいものに見える。それは、まるでそこかしこに転がっているジョークのようなものだからだ。(…)彼女は、そのジョークで別に何か大したことを言おうとしているわけではない。だから、そんなにガミガミ言うなよ。でも、冷や水を浴びせる側の人は、自分の経験から知っている。誰かが何かを軽く扱い続けているとき、そこでは何か重たいことが進行中なのだ、と。(28-29ページ)

「あいつの脳みそにはチンコが詰まってる」、「これだから男体もちは」、「あいつらはY染色体のせいで考えが歪曲している」、「トランス女性は女装したおじさんと区別がつかない」。

 ツイッターでは、今日も「フェミニスト」たちが楽しそうに談笑しています。まるでジョークを言うように、トランスへのヘイトを振りまいては、同じようなアカウント同士で盛り上がっています。でも、冷静に考えれば分かるはずです。ミソジナスで女性差別的な男性がいたとして、その男性の差別的な考えは、別に生殖器の形状のせいでも、染色体のせいでも、ないということ。
 でも、そうして何でもかんでもふざけてペニスや染色体に還元しているうちに、いつのまにか、トランス女性への差別のミームができあがっていきます。あいつらにはペニスが付いている/付いていた。そんな奴らは、危険な奴らに違いない。そんな奴らは、「男性」でしかない、と。

 たくさんの人たちが、何度も何度も言ってきました。もうすでに、トランス女性は女性として生活している、と。うまく「パス」できないことに悩むトランスももちろんいるけれど、(男性の)犯罪者と見分けられないという理由でトランスを排除しようとしたら、結局はすべての女性に「女性らしい」格好を押し付けることにしかならない、と。それは、トランス女性だけでなく、ボーイッシュなひとや筋肉質なひとが不愉快な思いをするだけだ、と。
 そして何より、多くのトランス女性は社会のなかで弱い立場に置かれています。誰かに怪しまれたり通報されたりするリスクは、本人が一番おそれています。何度もなんども、みんなが説明してきました。それに、ただでさえ、トランス女性は性暴力の被害にもあいやすいグループなのです。

 でも、楽しくジョークで盛り上がっている「フェミニスト」は、一向に聞く耳を持ちません。自分たちの楽しみを削ぐ、Killjoyな連中の言うことなんて、聞くつもりがないのです。

ゴン、ゴン、ゴン。
トランス女性に、ハンマーが振り下ろされます。トランス女性の魂が、削れる音がします。かぼそい自尊心に、深い亀裂が入ります。

そのハンマーを握るのは、「フェミニスト」たちです。まるでジョークを言うかのように。「女装のおじさん」に怯えて見せながら。ハンマーを振り下ろしていきます。
そのハンマーを握るのは、”ラディカルフェミニスト”です。

5.線引きではない、一点狙い

 「生物学」が、目下フェミニズムのなかで武器に仕立て上げられている。これは極めて奇妙なことだが、実際にはむしろ顕著である。生物学的な性なるものについての固着した考えにしがみついている人がいるらしいのだ。でも、私はそんな人たちの中にまさかフェミニストが混じっているとは思わない。(…)伝統的な生物学をそのままに通用させておきながら、いわゆる「ジェンダークリティカル」であること。それは、私たちの身体がジェンダーのシステムによってがっちり捉えられているのを強めこそすれ、その縛りを緩めはしない。しかし、私たちがこうしたことについての議論に取り掛かろうものなら、今度はターゲットの方が動き始める。そして今度はこう言うのだ。トランス女性は女性にはなれない。そいつらは、「男の子」や「男性」として、社会化されてきたのだから、と。
 誰が女性であるのかについての、こうした線引きの基準をひとが用いようとするとき、そうした基準はすでに、排除のための技術となっている。なぜならその基準は、それを他者たち〔=ここではトランス女性〕と自分が共有するためのものでは最初からないからだ。線引きの基準はだから、点になっている。それは、誰かを一点に目掛けている。それは、何かをしようとたくらんでいる。それは、エッジを研ぎ澄ましている。その線引きの基準は、そのようにトランスの存在そのものを論駁しようとする試みが論駁されることになれば、それ自体が変化していく。なぜなら、そもそもその基準自体が排除のベースだからだ。ターゲットはここでは、動くターゲットである。(…)「女性」の境界線について警察じみたことをすることが、フェミニズムにとっての大惨事をもたらさなかったことなど、一度もない。(30-31ページ)

 女性には様々な女性がいます。都会生まれの女性、田舎育ちの女性。障害のある女性、そうでない女性。日本人の女性、外国にルーツのある女性。会社員の女性、専業主婦の女性。異性愛者の女性、同性愛者の女性、Aセクシュアルの女性。そして、シスジェンダーの女性がいて、トランスジェンダーの女性がいます。こんなに「女性」は多様なのに、そこに何一つ「共通の女性性」なんてありえないのに、それなのに、トランス女性が出てくると、「女性」の線引きが急に問題にされます。
 誰が女性かを決めるために、生物学を使いましょう。と言う人がいます。でも、女性というジェンダーを生きるひとたちの存在を特定の身体の器官に結び付けて、その生き方を縛り、政治や社会から女性たちを締め出してきたのは、ほかでもない家父長制です。Ahmedさんは、あきれながらこう言います。「生物学」によって女性の線引きをしようなんて、そんなことを教える教科書があるのなら、その教科書は家父長制が筆を執って書いたに違いない、と。(30ページ)
 そうして、「生物学」によってトランス女性を「女性」の線引きから追い出そうとする試みが失敗すると、今度はこう言う人が出てきます。「トランス女性は、”女性として”社会化されていないから女性ではないのだ」と。さっきまでは生物学の力を借りていたのに、今度はこうして「社会化」に訴えることで、ふたたび「女性の線引き」が試みられます。
 みんな、気づいています。それが、本当は「線引き」の問題ではないということ。それは、線をめぐる論争ではありません。それは、点で狙い定められた、一点狙いの攻撃です。先っぽを尖らせて尖らせて、トランス女性の存在を狙い撃ちにしているのです。
 「女」の境界線を引き直す。そんなタイトルがついた論考が、先ごろ公刊されました。でもそれが、自分に向けられた「トランス差別的ではないか」という疑いに論駁するために書かれたものだったということを、思い出してください。どうして、トランスジェンダー(トランス女性)が現れたとたんに、「線引き」が問題になるのでしょうか。それは、実は見せかけにすぎません。そこで本当に問題になっているのは、本当は「線」ではなく「点」です。
 だからこそ、線引きがぐらぐら動いても、気にせず「議論」が続けられるのです。本当は誰も、女性の線引きなんてできっこないことに、気づいています。ただ一点、トランス女性を鋭く突きさすことだけが目標になっていることに、とっくにみんな気づいています。これは、線引きの問題ではないのです。

6.ハンマーを握るのは、わたし

制度の壁は、誰しもの前に立ちはだかる現実の壁ではない。それは、あなたが自分であることや、あなたが何かしようとしていること。そのことを理由に、あなたの前に立ちはだかる壁である。その壁は、ある人にとっては手で触れることのできる、硬い壁だけれども、その同じ壁は、誰か別のひとにとっては、存在すらしていない。これこそが、たとえどれほど骨の折れることだとしても、振り下ろされるハンマーが自分の武器になるということだ。(32ページ)

 さきほど「見えないハンマー」のところで書いたように、ある人にとっては生々しく振り下ろされるハンマーでも、別のひとには見えていない、ということがあります。
 そのハンマーを、Ahmedさんは今度は「制度institution」の問題として説明し直します。たとえば、わたしは日本国籍を持っていて、当たり前のように投票券が自宅に届きます。履歴書に名前を書いても、何かこれといって面接で変な質問をされることはありません(見た目が男性らしくない点を除けば)。でも、日本に住みながらも日本国籍を持たない(or国籍を奪われたままの)ひとも、いらっしゃいます。そうした方にとっては、「国家イベント」である議会の選挙は、わたしとは違って自分の運命を他人に握られているような感覚かもしれません(想像で語ってしまい本当に申し訳ありません)。あるいは、「選挙に行って政権をかえよう」という呼びかけも、すっと心には入ってこない、場合によっては疎外される経験になるかもしれません。わたし(夜のそら)にとっては存在していない壁が、そうした「国籍をもたない」方たちには、立ちはだかっています。
 以前のノートで、わたしは自分から見えている世界を「ジェンダー生産工場」に喩えて書きました。わたしは、そのジェンダー生産工場から出てきた、産業廃棄物です。

 わたしには、見えています。ジェンダー生産工場のラインが、見えています。工場の中で、どんな風に「女性」と「男性」が加工されて作られていくのか、どんな風に丸太たちが自分のジェンダーに疑問を持たないようにされているのか、工場の中の男女の区別がどうやって維持されているのか、つぶさに見えています。
 わたしにそれが見えるのは、わたしが失敗作であるAジェンダーだからです。わたしにとっては、ジェンダーという制度そのものが、壁であり、ハンマーだからです。もちろん、ジェンダーの壁は女性たちにも立ちはだかります。女性が女性であるというだけで、差別される現状があります。でも、それとはまた違った仕方で、わたしにはジェンダーの壁が見えています。おそらく、多くのシスの女性には見えていない壁が、わたしには立ちはだかっています。男性にもなれず、女性にもなれないエイリアンだけが味わう壁に、わたしは何度も何度も、毎日毎日ぶつかっています。

 そうして、自分にしか見えていない壁があるからこそ、そうして自分にしか振り下ろされないハンマーがあるからこそ、今度はそのハンマーが自分の武器(tool)になる、とAhmedさんは述べています。

 世の中の女性差別を変えることができるのは、誰でしょうか。それは、女性だと思います。女性こそが、差別的な制度にぶつかり、だからこそ、差別的な制度がどこにどのようにあるのか、よく分かっているからです。
 世の中の障害者差別を変えることができるのは、誰でしょうか。それは、障害当事者だと思います。健常者には見えない「壁」が、健常者には経験されない「ハンマー」がどこにあるのか、その壁(バリア)に阻まれたことのある人にこそ、よく見えるからです。

 怪我の功名と言っては、あまりに簡単に聞こえるかもしれません。でも、Ahmedさんはこのエッセイの最後に、怒涛のように私たち読者を鼓舞します。壁に行く手を遮られた人間にしか、壁の存在は見えない。逆に言えば、壁に阻まれた人間は、壁に「さわる」ことができる。壁に「さわる」ことができるということは、その壁を壊すことができるということだ。たたみかけるように、書き連ねていきます。

コン、コン、コン。ハンマーで壁をたたく音がします。
そのハンマーを握るのは、わたしです。

わたしの行く手を阻む壁を、今度はわたしが壊す番です。
他の人には見えていない、さわれない壁だからこそ、わたしが小さなハンマーを手に取って、壁を少しずつ削っていくのです。chip, chip, chip。

7.ハンマーを握るのは、わたしたち

 響き合うハンマーは、最初からそこで共鳴していたわけではない。私たちは、私たちのからだを取り囲む世界を叩いて削る人々に、魅かれ合ったのだ。(…)私たちは、私たちの力を結集するチャンスを逃してはならない。(…)壁を叩いて削っていくなかで、私たちは、私たちが通るぶんには困らなかったものによって足止めをくらっている人と、遭遇することになる。私たちは、ばったり出会う。私たちは、お互いが進めている採掘の仕事を目撃し、その仕事を通して互いを認識する。私たちは力を合わせて、武器を手に立ち上がる。私たちは声を上げ、立ち上がる。
 コツ、コツ、コツ。響き合うハンマーこそが、私たちがともに前に進んでいくということなのだ。(32-33ページ)

 わたしは、Aジェンダーとして、ハンマーを握ります。世の中の人間を隅から隅までジェンダーの二分法で切り刻んでいく、ジェンダー生産工場の「悪さ」を、わたしは言葉にできるようになりたいです。
 わたしはまた、Aセクシュアルとして、ハンマーを握ります。性愛こそが人間にとっての最高の愛情表現で、セックスこそが何かの最終目的であるような、そして、セックスに価値を置かない人間を「壊れている」かのように扱う、強制性愛社会の「悪さ」と、正面から向き合いたいです。

 フェミニズムという名のハンマー、わたしにとって巨大なそのハンマーを握る資格は、わたしにはありません。わたしは女性ではないからです。でも、このように願うことが許されるのなら、フェミニズムのハンマーと、わたしのハンマーが響き合ってほしいと、思います。
 男女の二つを区別するジェンダーの差異化の原理は、きっとどこかで、女性を抑圧する側に置き続ける、女性差別の根っことつながっていると思います。男女がセックスすることを褒めたたえて、「愛情表現」の名の下にカップルの間での性暴力、多くの場合はつねに女性が被害者になる性暴力を見てみぬふりしている異性愛規範は、わたしがAセクシュアルとして壊したい壁とつながっている気がします。

 多くのトランスジェンダーが、「ラディカルフェミニスト」の握るハンマーによって、心と身体をたたきつぶされています。一刻も早く、そのハンマーを捨ててほしい。

 でも、トランスジェンダーたちが今度は手に取るハンマーは、きっとフェミニズムのハンマーとも、響き合うはずです。実際わたしは、トランスフェミニストという言葉があることも知っています。私たちトランス(非シス)が、フェミニズムと敵対するなんて、したくありません。

 みんなが同じハンマーを握ることは、できません。それは、悪しき還元主義であり、マイノリティがそこでは再び沈黙を強いられてしまいます。

 わたしたちがそれぞれがぶつかる壁は、それぞれ異なっています。どんなに重くて小さくても、自分の手許にあるハンマーを握りましょう。そうしてみんなが握ったハンマーは、予期せぬところで響き合うかもしれません。穴を掘り進めていたら、どこかでぱったり会うかもしれません。壁の向こうから、音が共鳴するかもしれません。

 私たちは、みんな違います。でもだからこそ、ハンマーが響き合う可能性を信じていたいのです。

コーン、コーン、コーン。そこかしこから、ハンマーの音がします。
ハンマーが、響き合っています。
そのハンマーを握るのは、私たちです。