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Aセクシュアルズ・アズ・アンハッピークィア

 こんばんは。夜のそらです。
 ここ数か月で、自分でも想像していなかったくらい劇的に体調が悪くなり、いろいろ考えてツイッターをしばらくやめることにしました。今日もとても体調が悪いです。それに、コロナのせいで、もとから壊れていた身体の仕組みをよりよく整えるための次の医療的ステップに進めないことが分かりました。しばらくは今の状態を続けざるをえず、正直つらいです。
 ずっと、個人的なことは政治的なこと、という言葉に支えられてきましたが、ここにきて自分の持病(障害)や身体違和、退職のことなど、とても個人的なことと向き合わなければならなくならず、自分の存在のひ弱さに打ちひしがれています。

1.アンハッピー・クィアとの出会い

 まだそれほど体調が悪くなかった、昨年の夏ごろ、仕事を辞めました。厳しい職場ではありましたが、それなりに恵まれていて、自分の能力を活かせる環境だったとも思います。ただ、学生時代までとは違った仕方で期待される「ジェンダー」というプレス機の圧力にいよいよ耐えられなくなり、抑え込んできた性別違和も爆発してしまい、最後は男性用スーツを着ると吐いてしまうようになって退職しました。仕事を辞めてからも、色々な手続きで本当に消耗してしまい、しばらくは自暴自棄になったり、鬱的な状態になったりを繰り返していました。
 そんなおり、ある言葉がツイッターのTLに流れてきました。それは、わたしの尊敬しているAセクの先輩アカウントからの「アンハッピー・クィア(Unhappy Queer)」という言葉でした。それはわたしに宛てられた言葉ではありませんでしたし、よく意味も分かっていませんでしたが、わたしは「これは自分のことだ」と、なぜか真正面から受け止めて感動してしまいました。その後、そのアカウントからの情報を頼りに、それがSara Ahmedさんというライター(元大学教授)さんが書いたThe Promise of Happinessという本の中に出てくる概念だと知りました。わたしはすぐに(ネット上にあった海賊版で)その本を読み始め、少しして手元に本が届いてからも、むさぼるようにその本を読みました。
 ただ、The Promise of Happinessは難しかったです。バトラーなどのクィア理論や、アメリカ文学の知識がないので、ときどき全く話についていけず、それとAhmedさんは同じ言葉で韻を踏むように話を進めるので、するする読んでいくうちに気づいたら節が終わっていたりして、何を言いたいのか分からないままになっているところも結構あります。
 それでも、わたしは「アンハッピークィア」という、わたしにとっての贈り物である言葉をもらって、自分で考えたことを書き残しておきたいと思いました。Ahmedさんの本の解説は書けませんが、その本を読んで考えたことを、記録しておきたいと思います。
 それは、Aセクシュアルはアンハッピークィアである、ということです。

2.約束としての幸福(Happiness as Promise)

 幸福って、なんでしょう。それが、すごくよいものであるということは、皆さん同意していただけると思います。何と言っても、幸福になりたくない人などいないのですから。私たちはみんな、幸福になりたいのです。
 でも、「幸福」というこの言葉の使われ方に少し注意すると、ちょっと違った景色が見えてきます。
 私たちが「幸福」という言葉を使うタイミングには、例えば「あなたを幸福にします」というプロポーズの言葉があります。これは、あなたと一緒に暮らして、そこそこ豊かな家庭を将来にわたって約束します、ということです。そこそこ豊かで楽しい人生を送りたい、というあなたの欲望を、この私に叶えさせてください、ということです。「幸福にします」というのは、欲望のその先に約束された、未来にかかわっているのです。
 他にも、「あなたには幸せになって欲しい」という言葉があります。これは、相手のことを心から思う言葉のはずですが、ときどき、相手を”軌道修正”させるために使われる牽制のセリフにもなります。例えば、そんなことをしていたら、あなたが不幸になるだけ。わたしはあなたに幸せになって欲しい。だから、同性との恋愛なんてやめておきなさい、などです。同性愛者には不幸が約束されている、だから「やめて」ほしい。そうではなく、幸福が約束されている「普通の」異性愛者になってほしい、と。
 それ以外にも、「この家を買えば幸せになれる」とか「この家電で幸せな毎日を」等のキャッチコピーも、よく見かけますよね。これも、さっきの異性愛と同じです。その欲望が満たされれば、それを持っている人には幸せが約束されている、と言いつつ、その欲望を喚起させているのですね。
 こんな風に、幸福(happiness)はいつも「欲望の先に約束されたもの」として、私たちの言葉の中に現れます。そう、私たちは幸福に「なりたい」のでした。幸福は、いま手元にあるものではありません。幸福は、これから訪れるもの。いつも未来のものなのです。私たちの幸福は、私たちの(現在の)欲望が満たされたあかつきに手に入る、約束されたものとしての未来なのです。

3.約束されない幸福

 幸福は、未来に約束されたものです。私たちの欲望が満たされたとき、私たちは幸福になります。
 しかし残念ながら、すべての欲望の先に、等しく「幸福という未来」が約束されているわけではありません。私たちの社会には、正しい欲望と正しくない欲望を区別する差別の力学が働いています。ストレートで真っ当な欲望と、ねじ曲がった/いびつで/おかしな/変態的な/=クィアな欲望とが、区別されているのです。そして、ストレートな(=異性愛的な)人々の欲望には約束されている幸福は、残念ながら、クィアな欲望を持つものにはまだ約束されていません
 今の日本では、同性婚はできません。誰もが否応なく巻き込まれる、「幸せ人生ゲーム」のビックイベントである「愛する人との結婚」が、最初から同性愛的な関係性には禁じられているのです。こんな不正なルールが、どうして許容されていいでしょうか。
 今の日本の学校では、性に関するまともな教育は行われていません。前回の教科書の改訂の際にも、いわゆるLGBTについて教科書で触れる、という方針は採択されませんでした。保健の教科書にも、未だに「思春期には異性を好きになるようになる」と書いてあります。異性愛的な欲望をもたない子どもは、自分の存在を肯定できないようになっています。それは、自己肯定ができない以上の、自己嫌悪や自己否定にも簡単に繋がるでしょう。
 学校教育だけではありません、親戚からの無言のプレッシャー、友人との会話、テレビに映る下劣な「ホモ」ネタ、「そっち系じゃないって!」という強い拒絶、会社の同僚からの何気ない一言(彼女/彼氏いないの?)。。クィアな欲望をもつ人たちの存在は、いつもないことにされ、また冷やかしや娯楽的関心の対象になりがちです。男性同性愛にはいまだに「オネエ」的なものが期待され、女性同性愛はヘテロの男性の搾取的な欲望の視線にさらされ続けています。しね)
 この社会では、幸せになっていい人が決まっているのです。
 それは、異性愛者だけです。同性愛者、クィアな欲望をもつ人には、幸せは約束されていません。わずかな理解者を得ることはできても、法律や制度を前にして、圧倒的な差別が存在します。法律婚ができず、病院で面会ができず、お葬式にも出られず、住居探しに苦労し、パートナーが犯罪や事故の被害者になっても、必要な支援や保険金、保障金を受け取ることができません。そして何より、様々な場面で、自分の欲望(性的指向)やパートナーの存在を、隠さなければならないでしょう。
 わたし(夜のそら)は、そうしたクィアな欲望を持っていないので、そうした差別に苦しめられたことはありません。(そもそも、性愛や恋愛を基礎に置くパートナーシップがどういうものなのか、それすらよく理解していません。)それでも、この世に差別があるということは分かっているつもりです。この社会で、幸せが約束されているのは、ヘテロセクシュアル/ヘテロロマンティックな欲望に対してだけであるということ。ホモセクシュアル/ホモロマンティックな欲望の先には、幸福は約束されていないということ。世の中の制度や規範、法律そして人々の意識の奥底まで、ヘテロセントリックに染まりきっているということ。幸せな未来を描いてよいのは、異性愛者だけだということ。

4.ハッピークィア?

 もちろん、クィアな欲望をもつ全ての人が「不幸だ」と言いたいわけではありません。クィアな欲望をもつ人は絶対に幸福にはなれない、といっているわけでもありません。
 むしろ、それとは反対に、現実の世の中では、少しずつクィアな欲望の存在が承認され、幸せになる人も増えてきているように感じます。「LGBアライアンス」の名の下にT(トランス)が生贄にされつつありますが、長い差別との闘いに昨今のLGBTブームが加わり、同性婚を法律で認める国も増えています。日本ではまだまだ時間がかかりそうですが、自治体の条例レベルでは、同性カップルというものにたいする公的な認知が少しずつ進んでいます。また、Netflixなどの配信サービスのおかげで、クィアな人々を可視化し、その恋愛/性愛の姿をポジティブに描く海外の映画やドラマが日本語で楽しめるようになってきました。比較的大きな人口調査でも、非異性愛的な指向を持つ人の存在を知り、またその存在に寛容であろうとする人の割合は、増えてきていると言います(「理解」とか「寛容」なんて糞くらえですが、ひとまず置いておきます)。
 それに、今では、同性カップルが子どもを育てるということも欧米では驚くことではなくなっています。生殖補助のための技術が進歩し、精子の提供を受けたり、卵子の提供を受けたり、代理母に出産してもらったり、等々。クィアな人々が子どもをもうけたり、育てたり、「ふつうの」核家族を形成したり、といったことはすっかり現実の選択肢になりつつあります。日本にも、精子の提供を受けて子どもを育てているレズビアンカップルがいますし、数年前にはゲイ男性のカップルが大阪で里親になることになってニュースにもなっていました。
 家族形成だけではありません。(わたしだけかも知れませんが、)インターネットを見ていると「LGBTの転職」の広告がいつも表示されます。家族という私的領域、プライベートな人間関係だけでなく、パブリックな領域でも、ちょっとずつクィアな人々の存在は可視化され、受容されてきているのかもしれません。
 クィアも幸せになれる時代は、少しずつ近づいています。この流れが止まらないことを、わたしは切に願います。そして、クィアもまた幸せになれるように、今なお続く差別と闘う人たちのことを、心から尊敬します。

昨日は、異性カップルの事実婚には認められている公的承認が、同性カップルには認められない、という判決がありました。それも、ありえないくらい酷い理由で。どうか、そんな世界が一刻も早く終わりますように。そして、同性婚法制化訴訟にも、よい結果がありますように。

5.ハッピークィアは存在しない 

 クィアも幸せになれる世界を作るための闘いが、進行中です。クィアも幸せになれる世界は、ゆっくりですが間違いなく近づいていると感じます。そうした時代の流れを、嬉しく思います。
 その一方で、気になることもあります。それは、「クィアも幸せ(ハッピー)になれる世界を」というフレーズに含まれる「ハッピー」から、すごく異性愛的なハピネスの匂いがしている、ということです。もう少しちゃんと言うと、異性愛前提でこれまで作り上げられてきた「幸せ」が、クィアたちにも(慈悲深く)おすそ分けされているだけで、異性愛者たちが歴史的に作ってきた「幸せ」のイメージそのものは、無傷のまま生き延びようとしているのではないか、ということです。
 例えば、同性婚の合法化については、日本でも今やかなりの割合の人(人口の半分くらい?)が賛成のはずです(もちろん強固な反対派もいますが)。けれど、そこでイメージされているのは、もとは異性愛モノガミーをベースにした「結婚」のイメージ、そのままだと思います。異性カップルならできる「結婚」が、同性カップルにできないなんて、おかしいよね、という感じです。それは、本当にその通りだと思います。おかしいです。
 でも、少しうがった見方をすれば、そうして異性愛の人たちの「幸せ」な生き方とそっくりのものをトレースして、まるでクィアがクィアではないかのように装っているからこそ、同性婚法制化運動は多くの人の共感や理解を得ているように思えてなりません。
 誰かを「好き」になるのは、人間にとって自然なことで、その「好き」には恋愛と性愛がどちらも混ざっていて、「好き」な性別は一つのジェンダーに限定されていて、「好き」な相手とはモノガミー的で半永久的なパートナーシップを形成する――――ここまでは全部、マジョリティである異性愛者たちが用意したステージです。そして、その用意された「みんなが欲しがる幸せ」のステージの上で、最後に現れてこう言うのです。「その『好き』が同性だっただけなのに」と。
 わたしは、同性愛な方たちの権利や福祉を向上させるために闘っている方たちのことを、悪く言いたくありません。尊敬していますし、応援したいです。ただ、上で書いたように、これまで異性愛者たちが自分たちの「幸せ」を特権化するために組み立ててきた舞台装置―――、つまり「好き」は人間の本質の中心にあるという性愛/恋愛本位体制、「好き」は1つのジェンダーにしか向かわないという性的指向の単一方向性、恋愛は性愛とセットであるという混合神話、そしてモノガミー(モノアモリ―)至上主義と恋愛伴侶規範(Amatonormativity)―――の上にうまく収まるような主張だけが、マジョリティ社会に受け入れられる。その構造が温存されたままなのはよくないのではないか、と思うのです。
 実際、LGBTコミュニティでの「バイ消去(Bi-Erasure)」は、上のような構造の問題と関係しているように思います。また、ポリアモラスな人たちの声は、同じ「セクマイ」のなかでも、あまり聞き取られないように思います。もちろん、Aセクシュアル/Aロマンティックに対する恐怖や拒否感、否定衝動も同じです。Aセク/Aロマの人たちの存在は、恋愛伴侶規範の根幹に触れるものであり、また「好き」を人間の本質だと思っている人たち――これはLGBTコミュニティの中にも沢山いる――にとっては、気味が悪くて仕方がないようです。
 クィアが幸せになれる世界は、近づいています。でも、そこでクィアたちが「幸せ」になることが許されているのは、あたかも異性愛者たちと同じような「幸せ」に価値を認めて、異性愛者たちが用意した舞台の上にきちんと乗っている限り、ではないでしょうか。その舞台装置から降りて、異性愛者たちが自分たちの為に作り上げてきた有害な規範や神話を否定しようものなら、そんなクィアたちの存在はまたたく間に否定されてしまうでしょう。

バイセクシュアル?誰とでも寝る人のこと?ポリアモリー?そんなの成り立つわけない。子どもを育てるの?だったら2人の親がいた方がいいし、3人以上で育てるなんて論外(もちろん1人だけで育てるのもよくない)。AセクやAロマ??そんなのいるわけない。本当は「好き」なのに嘘を吐いてるか、せいぜい禁欲してるだけでは?

 クィアも幸せになれる世界は、確かに近づいています。でも、そこで幸せになれるのは、クィアがクィアであることをやめることによって、です。自分たちがいかにクィアでないか、いかに自分たちが異性愛者たちの作り上げてきた舞台装置のうえに行儀よく収まることができるか、それを認めてもらってはじめて、クィアは「幸せ」を胸に抱くことを許されるのです。
 ハッピーになることを許されるのは、クィアネスを隠すことができる限りにおいて、です。だから、ハッピークィアは存在しないのです。

6.Aセクシュアルに未来はない

 クィアはクィアのままでは幸せを約束されない、と書きました。そうはいっても、少しでも多くのクィアが幸せになるなら、それはいいことではないか、とも言えるような気がします。もしろ、少しでも多くのクィアが「幸せ」になり、異性愛者たちによる「幸せ」の独占状態を打ち破ることによってしか、不幸なクィアを減らす道はないのではないか、というような気すらしてきます。

 今は、異性愛者たちが自分たちだけの為に作ってきたステージの上に乗っているけれど、そのステージの上に異性愛以外の人も乗るようになれば、きっとステージの形も変わっていくはず。異性愛前提で作り上げられ、神聖なものとされてきた「幸せ」の舞台装置が、クィアたちにも共有されていくにつれて、その神聖さは薄れていくかもしれない。舞台装置はやがて崩壊し、クィア達を苦しめるような悪しき規範としてのパワーを「幸せ」は失っていくだろう。そうして、少しでも多くのクィアたちが「幸せ」になることで、異性愛中心的な世の中の仕組みを変えていけるかもしれない。そうすればいつか、クィアがクィアのまま幸せになれる世界が来るかもしれない。ハッピークィアが存在できるような世界が、来るかもしれない…………。

こうした考え方は、けれども、わたしには疎遠なものに映ります。少しでも多くのクィアたちが「幸せ」になれる社会を目指していこう、「幸せ人生ゲーム」のルールを改良して、改変して、異性愛者たちによる「幸せの独占状態」を破壊しよう。こうした呼びかけは、わたしには縁遠いものに感じられます。わたしは、Aセクシュアルだからです。
 この記事の最初に書きました。幸福とは、欲望の先に約束されているものだ、と。そして今の世の中では、異性愛的な欲望だけに幸福が約束されているのだ、と。そうだとしたら、必要なのは、クィアな欲望の先にも幸福が約束されるような、そうした社会を作ることだ。クィアな欲望が、異性愛者の真似であることをやめて、クィアな欲望のまま認められ、否定されず、その欲望が自由に満たされる世界こそが、求められている。クィアな欲望の先にあるはずの「幸福」を奪い去る、そうしたヘテロセントリックな社会に問題がある。私たちは、クィアな欲望に対してその本来の「幸せ」を取り戻さなければならならない―――――。こうした主張には、確かに賛同できます。でも、わたしはその政治にフルコミットはできません。わたしはAセクシュアルだからです。
 Aセクシュアルとは、性的欲望を持たないということです。他者との性的なかかわりを望まない、ということです。だから、実はAセクシュアルからは、そもそも何も奪われていないのです。
 ホモセクシュアルな欲望からは、未来の幸福が奪われています。それがクィアな(=いびつな)欲望であるとされるために、未来に幸福が約束されていないのです。だから、未来を取り戻さなければならないのです。クィアな欲望が自由に満たされる、そうした「幸福な未来」を取り戻さなければならないのです。
 それに対して、Aセクシュアルからは、何も奪われていません。欲望がない、のですから。なので、Aセクシュアルには、取り戻すべき未来も存在していません。誰かと共にされる性的快楽も、誰かと結ばれる性的パートナーシップも、Aセクシュアルは欲望していないのです。
 クィアな欲望には、未来が約束されていません。幸福な未来が奪われています。しかしそれとは全く違った意味で、Aセクシュアルには未来がありません。Aセクシュアルは、欲望をもたないからです。Aセクシュアルに未来がないのは、ヘテロセントリックな社会に未来の約束を奪われているからではありません。そもそも、そこに目指すべき未来がないからです。
 だからわたしは、「ハッピークィア」の存在が許される世界を志向する、上のような政治に自分を重ねることができません。クィアがクィアなまま幸せになれる未来、取り戻されるべきクィアな未来が、Aセクシュアルには最初から存在していないからです。「クィアにもクィアとしての幸福な未来を」という掛けごえの横で、Aセクシュアルであるわたしは立ち尽くしてしまいます。Aセクシュアルには、はじめから未来がないのです。

7.Aセクシュアルズ・アズ・アンハッピークィア

 幸福をめぐるクィア達の闘いは、現在進行形で続いています。クィアネスを隠しながら、異性愛的な舞台装置に収まる「ハッピーなクィア」であることを目指す闘いも、あるいはそうした舞台装置に収まりきらない「クィアハピネス」を拡張的・破壊的に目指していく闘いも、現在進行形で続いています。そのどちらも、クィアたちに未来を取り戻すための闘いです。クィアな欲望の先にある未来、欲望の満たされる幸福な未来を、ヘテロセントリックな世界から奪い返すための闘いです。
 そうした「幸福な未来」を賭けた闘いの政治に、わたしはうまく参加できません。むしろそこに、言葉にしがたい疎外感を抱いてしまいます。それは、わたしがAセクシュアルで、(性的)欲望というものをおよそ持たない存在だからです。Aセクシュアルには、奪われている未来、取り戻すべき未来がはじめから存在していないからです。
 少しでも多くの欲望が、その欲望のままに満たされる世界が求められるのは間違いありません。少しでも多くの人が、幸福になれる世界です。欲望を否定され、アンハッピーになってしまう、そうした「アンハッピークィア」が生まれない世界を作ろう、そうした政治的闘いが、確かに必要です。しかし、Aセクシュアルのわたしには、そうした幸福をかけた闘争は疎遠なものです。Aセクシュアルには、未来がないからです。

 それでは、Aセクシュアルは何を求めるのでしょうか。あるいは少なくとも、ひとりのAセクシュアルとして、わたし(夜のそら)はどんな世界を夢見るべきなのでしょうか。
 それは、性愛=恋愛と結びついた、「幸福(ハピネス)」という概念そのものが力を失う、そういう未来です。

 クィアな欲望をもつ人たちの政治は、あるべき「幸福」のイメージを巡って闘われています。同性愛だって異性愛と同じように「幸福」になるべきなのに、とか。異性愛社会が「ふつう」だと思うような「幸せ」以外にも、人が幸せになるような性愛=恋愛の関係があるはずだ、とか。そうしたクィアな政治は、そうはいっても、「幸福」と「性愛=恋愛」の結びつきを残しています。様々なクィアな性愛=恋愛にも、幸福な未来を取り戻そう、としているのですから。
 それに対して、Aセクシュアルとして求めるべきは、そのように性愛=恋愛と癒着したままの「幸福」という理念自体を否定することだとわたしは思います。「幸せ人生ゲーム」のルールを改良することよりも、「幸せ人生ゲーム」そのものを終わらせること、です。幸せの形を変えたり、広げたりしたいのではありません。「性愛=恋愛」と切り離せないまでになってしまった「幸福」に、別れを告げることです。
 いいえ、性愛=恋愛と「幸福」が結びついているのが悪いのだから、その結びつきを切ればよく、「幸福」そのものに別れを告げる必要はない、と思う方もいらっしゃるかもしれません。しかし、わたしはそれは甘いと思います。それはまるで、「結婚って異性間だろうが同性間だろうがどっちも同じだよね」と言っているようなものです。「結婚」という概念から「異性愛」を切り離す、こうした主張は、戦略的には有効なときもあるでしょう。しかし、間違いなく害の方が大きいと思います。なぜなら、その「結婚」がもっぱら異性愛だけに宗教的・法的・道徳的に認められてきたことは、「結婚」制度そのものの本質にかかわることであり、そこには忘れてはならない同性愛差別の歴史もまた詰まっているからです。両者を簡単に切るべきではないのです。
 それと同じように、Aセクシュアルとしての政治があるとすれば、それには「幸福」そのものを敵に回す覚悟が必要だと思います。性愛=恋愛と分かちがたく結びつき、今もなおその改良が志向されている「幸福」そのものと、Aセクシュアルは対峙すべきだと思うのです。

 Aセクシュアルは、アンハッピークィアです。今はまだハッピーになれていないから、「アンハッピー」なのではありません。「ハッピーな未来」という、誰もが欲望するはずの未来をはじめから欲望しないから、「幸せ人生ゲーム」そのものの土台を破壊する存在だから、Aセクシュアルは「アンハッピー」なのです。Aセクシュアルは、「ハピネス」そのものに権威を認めません。「幸せな未来」を巡る欲望の政治そのものを否定します。だから「アンハッピー」なのです。あるいは、こう言った方がよいでしょうか。Aセクシュアルは「アンチハッピー・クィア」である、と。

 これが、わたしがAセクシュアルとして生きるということのマニフェストです。未来を否定し、幸福を否定し、性と恋愛の楽しいゲームそのものをひっくり返す、アンハッピークィアとして生きるということです。
 かつて書きました。AセクシュアルとはKilljoyである、と(参照)。Aセクシュアルは、他のクィアたちとは全く異なる意味で「アンハッピークィア」で、だから、これ以上ないくらいにKilljoyなのです。
 さようなら、幸福(ハピネス)。

(参照)