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私(たち)はそこにはいない。でも、どこにでもいる。

 「437番でお待ちの方、診察室へお入りください。」
 待合室のモニターから、機械の声がする。どうしてこういうモニターの声は女性(風)の声にしてあるのだろう、といつも気になっている。でも、色々と考えたあと、全ての声を「女性の声」と「男性の声」に分類して聞き分けるという社会の慣習から自分も逃れられていないことに気づいて、最後には自分が嫌になる。ここまでが、わたしのルーティーン。わたしは、ときどき文字通り自分の首を絞めている。死のうとしているというよりは、自分の声が憎くて仕方ないから。わたしの喉に突き刺さったままの喉仏は、わたしからよく虐められている。そろそろ復讐してくるかもしれない。いつもごめんね。
 診察室に入ると、女性のお医者さんがいる。「女性の」とわざわざ書く必要は本当はないけれど、わたしにとっては重要なこと。主治医の先生が、「女性の先生にしておきました」と、わざわざ女性のお医者さんを紹介してくれて、今日はこの大学病院に来たのだから。
 モニターに映ったわたしの大量のカルテ情報を見ていたそのお医者さんは、入室してきたわたしの姿を見て、一瞬だけ戸惑いを見せた。すぐに、何かを察したようにカルテに目を戻し、椅子に座ったわたしと見比べながら、「一応、本人確認をさせていただきますね。名前をフルネームで教えてください」と言った。この「本人確認の儀式」は、この大きな大学病院にたくさんある診察室の、どの部屋のなかでもきっと行われている、何でもない「儀式」のひとつにすぎない。でも、わたしの部屋で行われていたその「儀式」には、独特の緊張感が漂っていた。
 「あなたは誰?」そう聞かれる場面は、日常生活ではそんなに多くない。家でごはんを食べるにせよ、電車に乗るにせよ、買い物に行くにせよ、「あなたは誰?」なんていきなり聞いてくる人はいない。でも、病院はそれとは違う。何をするにも、ひたすら本人確認を求められる。入院してしまえば、手首につけたリストバンドがわたしのIDになるから、手首を見てもらえれば本人確認になるが、それでも、手術の前には堅い雰囲気のなかで自分の名前を言わされる。そして、初めての患者として診察室に入ったときにも、当然この「儀式」が待っている。
 「夜のそらです」とわたしが自分の名前を告げると、この緊張した「儀式」はあっさり終わった。でも、その「儀式」はあまりにも多くのことをお医者さんに伝達してしまう。わたしが437番の患者であること。目の前のPCに映ったカルテと同一人物であること。それだけでなく、わたしが間違えて診察室に入ってきてしまった女性ではないということ、つまり、どうやらこの患者はカルテに書かれた性別とは異なる性別を生き(ようとし)ているということ。多くのことが、お医者さんに伝達されてしまう。
 その短い「儀式」は、暗黙の契約を生み出す。お医者さんは、なぜ自分にこの患者が紹介されてきたのか、その理由のひとつをうっすらと察する。わたしは、決して好きではない自分の本名を明かし、まったく和解できていない「声」を「儀式」の中で開示する。これ以上のことを、説明させないでほしい。わたしは祈るような気持ちで「儀式」に臨むが、その祈りは通じたようだった。ほんの短い「儀式」のなかで、たくさんの情報を受け取ったお医者さんは、一つの結論を得たように再びカルテに目を戻した。これで、「儀式」は終わりだ。
 診察を終えたお医者さんは、次の診察日を設定しつつ、「初めて会ったばかりで本当に申し訳ないんだけど、わたしもうすぐここの病院を辞めちゃうのね」と言った。ずいぶんとカジュアルな態度で、少しびっくりしてしまうが、きっとあの「儀式」が、わたしへの親近感を生み出したのだろう。確かに、この人はわたしの秘密を知っていて、また、秘密を預けても大丈夫そうな契約相手でもあることは間違いなかった。
 「それで、ちょっと早いんだけど、あなたの治療を引き継ぐ先生のことを相談したいのね」と契約相手は続けた。PCに映る、大学病院のお医者さんのスケジュール表のようなものを眺めながら、「女性のお医者さんの方がいいよね」とつぶやいているが、これは質問ではない、とすぐに判断できる声色だったから、わたしは特にそれには応えなかった。
 診察室を出ると、1階で会計をする。コロナのせいで人は減っているはずだが、ロビーはそれなりに混んでいる。とはいえ、診察を終えて会計窓口に行き、会計番号をもらうのは、まるで流れ作業だ。会計のスタッフさんたちは、診察券を機械に挿したり、あわただしくしているが、さっきまでの「儀式」のような緊張感はない。最後の最後の会計も、多くの大病院がそうであるように機械でおこなうので、もう無駄な心配はいらない。誰も、「あなたは誰?」なんて聞いてこないのだ。
 わたしは、大きな病院の1階に集まる、多くの「患者たち」に混じる。わたしは、何でもないただの「患者」のひとりだ。誰も、わたしが誰かしらない。誰も、わたしに「誰?」なんて聞かない。隣の人との間隔さえ気を付けていれば、ここでは誰もわたしに注目することがない。
 会計を終えて病院を出ると、通りにはたくさんの調剤薬局が並んでいる。でも、わたしは処方箋を握りしめて真っすぐにバス停に向かう。薬局は、「あなたは誰?」と聞かれてしまう場所のひとつだからだ。以前いちどだけ、目立たない小さな薬局に、人が少ないからとふらっと立ち寄ったら、保険証だけでなく免許証まで出すはめになってしまった。免許証に映るわたしは、今よりずっと髪が短いから、そういうとき役に立つけれど、もう二度とそういう面倒はごめんなので、行く薬局は1つに決めている。
 ちなみにどうでもいいことだけど、一般に流通している「お薬手帳」は、サイズが小さすぎると思う。処方箋のコピーをもらって、シールのように手帳に貼っていくのだが、だいたいわたしの処方箋シールは標準のB6サイズを大幅にオーバーしてしまうので、管理が面倒くさい。それに、手帳のページ数も少ないし、ひたすら手帳が増えていく。これも、わたしが薬局を1つに固定している理由のひとつだ。
 バスに乗って駅に着くと、急いで駅前の多目的トイレに向かう。さっきの病院にも多目的トイレはあったけれど、塞がっていて使えなかった。病院には様々なニーズをもつ人がいるから、多目的トイレは行列しがちだ。ベビーカーが入れるトイレがないフロアもあって、競争率も高い。
 駅前の多目的トイレは、不自然に広く感じた。いや、車いすで暮らす方にとっては、これでも小さいか普通なのかもしれない。鏡に映った顔を見て、髪を整える。診察室では服を脱いだり来たりするけど、ゆっくり髪を整える時間はないから、用意していたヘアゴムでバッと後ろで結んでいたままだった。でも、そんなにトイレでゆっくりしているわけにもにかない。わたしは急いで「開」のボタンを押す。
 ずずぅ、とだるそうに動くドアから、外の景色が見える。小さな緊張感が、首から背筋の方に下りていく。もし、これで車いすの方を待たせてしまっていたら。ベビーカーを押す方を待たせてしまっていたら。いつも不安に思う。それに、この駅のトイレはオストメイト対応ではないけれど、ときにはそうした対応トイレを使用することもある。自分が多目的トイレを使っていることの「申し訳なさ」は、いつまでも抜けきれない。
 はっきり言って、多目的トイレの競争率は高い。わたしは、初めていく街でも、初めて使う駅でも、とりあえずトイレの表示を探している。ただ、人の利用が多い場所に面している多目的トイレは、使えない。多目的トイレを使っていることが、多くの人に見えてしまうからだ。
 昨年から勤めている職場は、その点ではそれなりによい。会社の入っているビルの1階の、あまり人が通らない通路の奥に、多目的トイレがある。でも、それはそれで、リスクにもなる。人目に付かないので、そのトイレのすぐそこで「ひそひそ話」をしている人たちがたまにいて、トイレに行こうとして通路の角を曲がると、ばったり会ってしまうことがある。わたしがその通路に来たということは、多目的トイレを使う以外に目的はないので、その場を自然にやり過ごすことは不可能に近い。わたしは、とっさに何となく体調が悪そうな顔をして、口にハンカチを当てたりしながら、すみません、と小さく言いながら多目的トイレに入る。「ひそひそ話」をしている人たちも、とはいえわたしにその現場を見られてしまったわけなので、ばつが悪そうにそこで「解散」となる。「解散」した先でわたしのことを噂されていたらどうしよう、という嫌な気持ちも生まれるが、もう仕方がない。ただでさえ排せつの回数は最小限に抑えて生活しているので、何もかも気にしていたら生きていけない。
 お気に入りの布のかばんに処方箋を大切にしまって、薬局のある街まで電車で向かう。車内はすごく空いていて、電車のシートに座ると、向かいのガラスに自分の姿が映っているのが見えそうだ。少ない乗客もみんなマスクをしている。わたしは、顔を隠した乗客のひとりとして、車内に溶け込む。誰も、わたしが誰か知らない。誰も、わたしに「誰?」なんて聞かない。それでも、誰も不便なんてしない。誰でもなくたって、電車には乗れる。
 誰もがマスクをしている世の中になった。マスクは、わたしにとっては嬉しいアイテムのひとつだ。今の髪型で、マスクをしていたら、わたしはコストをかけずに女性風の顔になることができる。ほとんどすっぴんに近い状態でも、ぱっと見て男性だと思う人の方が、たぶん少ないと思う。ちなみに、マスクに加えて眼鏡までしたら、女性としての「パス度」はさらに上がる。
 ただ、わたしは女性として生活したいわけではない。わたしには「これだ」と言えるジェンダーアイデンティティがなく、つまり性(ジェンダー)が空っぽなので、Aジェンダーを名乗っている。ノンバイナリー、という言葉は「第3の性」のように扱われることもあるので、「ノンバイナリー」を積極的に名乗りたいとは思えないが、「バイナリー」(二元的)な性別システムに馴染めなかったという意味では、わたしは完全なノンバイナリーだ。性別、というものが意味をもつ世界の仕組み自体がわたしには意味不明だし、生まれたときに社会から「あなたは女性/男性ね」という割り当てをもらって、その割り当てられた通りにふつうに生きていられる人の感覚が、どうしても理解できない。
 でも、今の世の中で「Aジェンダーとして」とか「ノンバイナリーとして」他者に認知されることは、不可能だ。だって、男性でも女性でもない性を生きているとか、そもそも「自分の性別」を持たないと感じながら生きているとか、そんな人たちがいることを誰も知らないから。だからわたしは、自分がもともと宛がわれた方の性別(M)でない方に見た目を近づけることで、「Mでない」という否定形をとりあえずの着地点にしている。「女性である」という風に積極的に”パス”したいという思いはないが、いまの世の中で「男性ではない」という否定を手に入れるためには、女性風の見た目に寄せていくしかない。
 薬局に着いて、処方箋を渡す。以前なら、この待ち時間のあいだに新聞を読んでいたところだけど、コロナのせいで新聞は撤去されていた。こんなとき、Twitterやtumblerを開きそうになってしまうものだが、このところ急に体調が悪くなったので、どちらも最近アンインストールした。そういったSNSで誰かとつながることの喜びよりも、SNSで自分が(必要以上に)傷ついてしまうことのコストが、無視できなくなってきたから。
 Twitterで今の日本語アカウントを作ったきっかけは、前のアカウントがトランス差別でめちゃくちゃになってしまったからで、今の「夜のそら」アカウントでは、確かにトランス差別についても書いている。でも、わたしはトランス差別的な人たちと話が通じるとは思ってないし、そもそも怖すぎて関わりたくないので、TERFっぽい人にメンションしたことは一度もない。
 でも、わたしのアカウントにはトランス差別的な人からの一方的な嫌がらせや、罵倒のメンションが定期的にくる。他の人より多くはないのかもしれない。でも、アプリを開いてそういうのが通知欄に来るのは、本当に怖い。訳の分からないDMも、たまに来る。どっちも、心臓が瞬間的に凍って、凍った心臓をこんぼうで殴られている感じがする。砕けた心臓の破片が、血管をつたって、身体全体に広がっていく。下半身は重くなり、吐き気がおそう。
 今のわたしにとって、こうして普通にPCでブログを書いたり、スマホでWeb記事を読んだりできる時間は、限られている。どんどん身体は悪くなっていて、主治医からは休職を勧められている。たぶん、会社からもそろそろテレワークの割合を減らすように言われるから、休職か退職か、選ばざるを得ないだろう。
 この状況で、Twitterを開いて自分から傷つきに行くのは賢い選択肢ではない、と思うようになった。それに、最近のアップデートで引用RTの数が表示されるようになって、トランス関係のわたしの呟きが、鍵垢によって結構引用RTされていることが分かった。このアップデート後、千田先生の論文についても呟いたが、鍵垢からの引用RTが2つくらいついた時点で、突然トランス差別系のひとから文意不明の(わたしには罵倒に感じられる)リプライが来て、本当に怖かった。鍵の向こうで差別的な引用RTをされているのかと思うと、それだけでメンタルにこたえる。
 カバンに入れていたフェミニズム系の本を読みながら、薬が用意されるのを待つ。やっと番号で呼び出されて、薬剤師さんからあれこれ説明を受ける。声を出して返事をするのも嫌なので、一生懸命マスクの下で表情を作って、話を理解していることを伝える。
 薬局を出て、今度は向かいのドラッグストアでコンディショナーを買う。それから、スーパーに寄って帰ろうと思っていたら、路上の軽トラックでお魚を売っていた。子どものころ、家が貧乏だったので、よく人から小さな魚を分けてもらって食べていた。今の家に魚焼き器はないけれど、煮たりはできる。わたしは、大きなアジを買うことにした。そんなに高くないし、今日は病院で頑張ったからご褒美だ。1尾ください、と言うと、軽トラックの横でわたしの様子を見ていた魚商のおじさんは、「最近の子は魚食べないのにね、えらいね」と笑顔を見せた。どう考えても、わたしは「若い女性」として軽く馬鹿にされている感じがしたが、もちろん何も言わずにマスクの下に笑顔を作った。お金を渡そうとしたが、魚屋さんの視線がわたしの手ではなく胸に行っているのがわかった。
 男性から、胸に視線を感じることが、たまにある。わたしが女性か男性か分からないから、「あなたは誰?」つまり「どっちの性別なの?」という判断材料を探していて、胸のふくらみを確認しようとしている人が、たぶん6割くらい。残りの4割は、わたしを「女性」だと誤認して、くわえて女性の胸を見るということが癖になってしまっているひとだ。わたしは「男子」として生き(させられ)ていた時代があるから知っている。女性という存在を見たら、とにもかくにも、その人の胸を見る男がいるのを知っている。胸が大きいから見ているのではなく、ただ胸を見るのだ。そういうのが視線のクセになってしまっている人がいる。そして、そういう人は「さっきの人の胸みたかよ」とか、「●●さんの胸はさ…」というコミュニケーションを、男同士でやっている。わたしは知っている。その気持ち悪い「胸のコミュニケーション」では、その人の胸が大きかろうが、小さかろうが、関係ない。それは、性的対象として女性を扱うという、男性同士のコミュニケーションの作法なのだ。一刻も早く滅びてほしい。世の中への深い憎しみが湧く。
 帰りのスーパーでも、今日は頑張ったから、と自分を甘やかしてコーヒーゼリーを買ってしまった。3個で98円のやつ。小学生のころ、友達の家に遊びに行ってこれが出てきたときのことを、まだ覚えている。ふつうの家庭の子どもは、「おやつ」や「おかし」を買ってもらえるんだ、というのは衝撃だった。わたしは未だに、このときの記憶で生きている。だから、お金がなくても贅沢をした気持ちになれる。家に帰って、すぐにシャワーを浴びたけど、コーヒーゼリーを食べる前に疲れて寝てしまった。
 数時間してから起きて、炊飯器にご飯をしかけてから、買ってきたアジを煮つけにする。骨まで食べたいけど、そこまで時間をかけるのは面倒に思えてきた。醤油と酒と、だしの素と、刻んだ生姜を適当に入れて、火にかける。学生のころ居酒屋でバイトしていたので、何となく味の予想はつく。
 火にかけているあいだ、iPadで海外の新聞やニュース番組を観る。日本の新聞社も、無料でいくつかの記事が読める。どうやら、またJ.K.ローリングさんがトランス差別的な発言をしたらしい。懲りない人だ、と思う。
 ふと、日本語圏のTwitterのことを想像する。きっと、いつものトランス差別的なアカウントが大声で騒いで、ローリングさんが女性だから攻撃されてる、みたいないつも通りの「弁護」をして、それに対して英語の読める信頼できるアカウントの方たち(なかには大学の先生も含まれる)が、英語理解の訂正をしたり、なぜローリングさんの発言がトランス差別的なのか解説してくれていたり、するのだろう。
 状況的にも、悪い予感はしていた。コロナが世界を覆って、英語tumblerもコロナ一色だったが、アメリカが感染のピークを越えたあたりで、ミネアポリスでの警察による黒人殺害事件があり、英語tumblerはBLM(Black Lives Matter)一色になった。しかし、そのムーヴメントが起きる直前、にわかにTERFが勢いづいているのが分かった。コロナが収束に向かい始めている空気を察知したかのように、英語のTERF系アカウントが活発化しているのが、観察されていた。その後、BLMにかき消されたように見えたけど、トランスバッシングの空気が高まりつつある時期だったのは確かだ。
 でも、日本語Twitterの様子は、想像するだけで十分だった。さっきも書いたように、わたしは異常に傷つきやすい。自分でも分かっている。無視したらいいゴミ屑のようなリプライに、いちいち心の全体を傷つけられてしまう。急いでブロックしたり、ミュートしたり、するけれど、寄せられた罵倒とか嘲笑のことを、シャワーを浴びながらずっと思い出して反芻してしまうような人間だ。ブロックしたことが相手に分かるともっと攻撃されるかもしれないと、慌ててブロ解してミュートしていることもある。

 とはいえ、いつも思うことがある。トランス差別をやめない人たちは、本当はわたし(たち)に言葉を向けているのではなく、差別者たちの頭のなかにしかいない、「空想上のトランスジェンダー」に向かって、汚い言葉を吐いているだけなのではないか、と。トランス差別的な思考に漬かりきってしまった人たちは、現実のトランスジェンダー(≒非シスジェンダー)について考えているのではなく、自分たちが勝手に頭のなかでこしらえた「空想上のトランスライツ活動家」と闘っているだけではないか、と。
 だから、本当はそんな妄想と闘っている人たちの言葉に、傷つく必要なんてないのかもしれない。トランス差別的なことをやめられない人たちが考えているトランス(≒非シス)ジェンダーなんて、わたし(たち)と全く関係のない存在なのだから。
 わたしは、情報もリソースもなにもない、田舎町で生まれた。実家は本当に貧しく、わたしは恒常的に医療的なネグレクトの状態に置かれていた。もう、実家の両親のことは責めたくないけれど、学校から直接に病院に連れていかれたことは何度もあるし、検診で引っ掛かってから通院をスルーしたこともあるし、虐待を疑われたことも1度ではない。それに、はっきり理解してはいないが、保険証というものを持っていない時期もそこそこあった。学校の先生の車に乗せられて病院に行って、保険証のことでもめて、父親に「2度と病院に行くな」と叱責されたことを覚えている。その病院には後で保険証を持って再診を受けるようにと言われたが、無視した。
 わたしは、親に迷惑をかけまいと、必死に生きてきた。今では、わたしが男性として生きてはいないことを親も理解し始めているが、ある意味では、もう手遅れだ。わたしは、一般に思春期と呼ばれる期間を、ほぼすべて、孤独に生きた。社会が「男性」と「女性」の2種類の人間しか認めないということを知らないまま、わたしは「浮いた」存在であり続け、そのことを知った後も、きちんと「男性」という割り当てられたグループを生きられないせいで、いじめられ続けた。何とかいじめから生き延びるきっかけを得たあとも、「男子」という存在のなかで目立たないために、ただただ毎日を「演じ」続けた。母親には感謝しているが、この孤独を生き抜くなかで親が頼りになったことは、ない。
 LGBTという単語が日本で流行る前。学校の先生だって、トランスジェンダーなんて言葉だれも知らなかっただろう。多様な性が存在すること。世の中はそうした存在を認めず、それを罰するように作用していること。誰も、そのことを理解したり反省したりしようとせず、「男らしくなれない」存在だったわたしは、ただそれを理由に虐められ、放置され続けてきた。「男子」に必死に混じっているあいだも、それ以外のサバイブの方法があることや、自分の感性が「異常」ではないことを教えてくれる人は、誰もいなかった。
 トランス差別的な人は、いつも頭のなかに「架空のトランスジェンダー」をしつらえている。その「架空のトランス」は、いつも”大人のおじさん”だ。でも、現実のトランスには、当たり前だけど子どももいる。自分のジェンダーというものを感覚し、それについてのアイデンティティを獲得した結果、それが社会に割り当てられた当初の性別とは食い違ってしまう、そういう子どもたちは沢山いる。世の中のジェンダーという制度にいつまでも馴染めない、わたしのような子どももいる。
 そういう子どもたちにとっては、トランスジェンダー的な存在を受け入れ、その子のニーズに応えてくれる理解者がいることが、何よりも必要だと思う。トランス差別者たちは、いつも性器のことばっかり考えているけれど、社会において「ジェンダー」が機能するのは、その多くの文脈において性器の形状がそれ自体では意味を持たない場面だ。学校でのグループ分け、課外活動、友人関係、学校行事、病院の検診。別にそこで、誰かに性器を見せたりするわけではない。でも、トランス(≒非シス)の子どもにとっては、そこで「女子」と「男子」で分割して線を引かれる、そのジェンダーの分割がトラブルの元になってしまう。
 わたしは、別に子どもは好きじゃない。でも、初期設定で全員がシスジェンダー扱いされるこの世の中で、シスでない子どもがいるということを理解している大人がその子の側でサポートしてくれたら、どれだけその子にとって救いになるだろう、と信じて疑わない。
 トランス差別者たちは、トランジションをした子どもがもう一度「もとの性別に戻る」という、De-transitionの話が大好きだ。ほらみろ、と言わんばかり。でも、本当に子どもの健康や福祉のことを考えたいのなら、今すぐトランス差別をやめるべきだ。なぜなら、現実に世界にはトランス(≒非シス)の子どもがいて、様々な社会的・医療的サポートを必要としているから。そして、トランス差別者たちは、そうした子どもの健康や福祉を傷つけているだけだから。

 トランス差別者たちの「空想のトランスジェンダー」たちに特徴的なことのもう一つは、そうした「トランス」たちが、どこにでも押し入ろうとする、そうした傍若無人な存在であることだ。
 差別者たちは世の中の「ジェンダー」というものが全て性器の形状に依拠していて成り立っていると信じて疑わないので、トランスの話題が出てくると、いつも女性トイレと公衆浴場の話をしている。この時点で、本当にくだらないのだけれど、差別者たちの頭のなかにいる「空想のトランスジェンダー」たちは、(男であるにもかかわらず)女性トイレに押し入ろうとしていて、ペニスをぶら下げて女性風呂に入ろうとしているらしい。
 そんなのたまったものではない、だから”トランス女性”に女性トイレや女性風呂を使わせるなんて、絶対にダメだ。こうした女性たちの恐怖を無視してトランスの見方をするなんて、女性差別だ。――――トランス差別者たちは、ずっと同じようなことを言っている。
 なにもかも、馬鹿げている。出発地点があまりにもおかしい。
 そもそも、トランス女性のなかには、すでに女性用トイレを利用している人たちがいる。この出発点を理解していない以上、「トランス女性」が新しく女性トイレに入ってくるなんて怖くて仕方ない、といっている人は、二重に間違っている。その1。トランス女性は「新参者」ではなく、女性トイレを新しく使わせろ、なんて要求していない。だって、すでに使っているのだから。その2。にもかかわらず、トランス女性だけに「恐怖」してみせるのは、単純に差別的な考え方でしかない。こんなときだけ例に出すのはよくないけど、自分が使っている個室トイレの隣の個室に外国人が入ってくるなんて、怖くて仕方がない、と言っている人がいたら、一瞬で「やばい差別者だ」と分かるだろう。それと、なにも変わらない。
 一方で、こうしたトランス差別者たちの思考は、もう一つ別の意味で、出発点を間違えている。それは、現実のトランスたちは、おそらくほぼ100%全員が、自分がもっともトラブルに巻き込まれないで済むトイレを使って生活している、ということ。わたしは、トランス(非シス)の知り合いが多くないので、皆さんが実際にどんな風に生活しているのか、性別移行(トランジション)のプロセスのなかでどのようにトイレ利用を変化させていったのか、具体的にはあまり知らない。でも、ふつうに考えれば分かることだと思う。世の中で圧倒的に「ふつう」に生きられるシスジェンダーとして生きていない人が、わざわざ自分からトラブルに巻き込まれるようなことを、するはずがないということ。
 社会に「ジェンダー」というものがあり、女性と男性を即座に見分けるように私たちの認知システムは習慣づけられていて、その見分けによって「異質な」存在として検知された時には、すごく面倒なことが起きる。そのことを誰よりもよく知っているのは、トランス(非シス)の当事者じしんだ。多くの当事者たちは、知っている。社会に要求された通りの性別を生きないことによって、どんな「罰」が下されるのかということ。そして、自分のアイデンティティの通りの性別に「パス」していないと、どれだけそこで目立ってしまうかということ。この二重のトラブルを、知っている。
 だから、おそらく多くのトランスは、慎重に慎重に、自分の使うトイレを選んでいる。それは、他の利用者たちを脅かさないためだけれど、そもそもは自分がトラブルに巻き込まれないためでもある。排せつは日常的な行為であり、生きていく上で必要不可欠な行為でもある。だから、そんなことでトラブルを起こすようなことをしていたら、自分が一番困る。
 にもかかわらずトランス差別者たちは、見た目にも分かる「異質な」姿のまま女性トイレに押し入ろうとしている存在として、いつも「トランスジェンダー」を空想する。わたしは、女性らしい格好をしていないのなら女性トイレを使うなとか、そんな主張に賛同したくはない。でも、現実を生きているトランスたちは、自分が女性トイレを使うことでトラブルにならないかどうか、おそらく誰よりも気にしているし、”十分に女性らしい”姿になるまで女性トイレの利用を控えているトランス(非シス)を責めようなんて、わたしはひとつも思わない。それは、現実を生きるために多くのトランスが選んでいる方法だから。
 トランス差別者たちが「女性スペースに押し入る傍若無人なトランス」を空想するときには、これらの現実が完全に無視されている。「すでに中にいる」という事実と、「誰よりも中でトラブルを起こさないように気をつけている」という事実と、この二つの現実が無視されている。発想の出発地点が、そもそもおかしいのだ。
 だから、トランス差別者が思い描くのは、いつまでも「空想のトランスジェンダー」にとどまり続ける。それは、わたし(たち)とは関係のない存在であり続ける。

 トランス差別者たちは、自分が頭のなかにこしらえた「空想のトランスジェンダー」の言動を見て、勝手に不安がったり、怒ったり、論争したり、攻撃しようとしたりしている。

でも、残念ながら、わたし(たち)はそこにはいない。それは、あなたの空想の世界のことだから。

その代わり、わたし(たち)はどこにでもいる。
病院の待合室で、あなたの隣にいる。
電車のシートの、向かい側に座っている。
あなたが使っているのと同じコンディショナーを、家で使っている。
駐車場に留めてある軽トラックで、魚を買っている。
あなたが使っている薬局の、待合室にいる。
あなたが用を足しているトイレの近くの、多目的トイレにいる。
あなたが用を足している個室の、隣の個室にいる。
あなたの家の隣の部屋に、住んでいる。
あなたが通っていた小学校に、通っている。
わたし(たち)は、どこにでもいる。
どこにでもいて、それぞれの生を生きている。

わたし(たち)は、どこにでもいて、ふつうとはちょっと違うけれど、ふつうに生きている。
わたし(たち)は、お互いにちょっとずつ違いながら、色々なものと折り合いをつけながら、現に生きている。

あるわたしの一日を上にこんなに長々と書いたのは、わたし(たち)のリアルを少しでも知ってほしかったから。
このリアルを観ようとしないのなら、そんな「議論」には何の価値もない。

わたし(たち)は、差別者たちに何度だって言う。
わたし(たち)はそこにはいない、それはあなたの空想の世界だから。
そして、どれほど耳の痛いことだとしても、言う。
わたしたちは、どこにでもいる。
どこにでもいて、それぞれの現実を生きている。
その現実は、残念なことかもしれないけれど、あなたの生きているその現実世界と、同じ世界なのです、と。