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その彫刻刀を握る手は:彫刻された棘と「棘」のある諸身体

 こんばんは。夜のそらです。今日は、トランス差別について書こうと思います。そのきっかけは、わたしが読んだ2つの論考です。
 一つは、『思想』2020年4月号に掲載された清水晶子先生の論文「埋没した棘」です。清水先生は、トランス排除的な人たちからの壮絶な嫌がらせに耐えながら、ずっとフェミニストとしてトランス差別と闘う前線に立ってくださっています。もう一つは、尾崎日菜子さんの手紙「埋没したものを掘り起こす」です。この手紙は、アジア女性資料センターが発行している『f visions』2020年6月号に掲載されたものです。手紙のあて先は千田有紀さん。『現代思想』2月号に掲載されたあの(差別的な)論文に対する、尾崎さんからの応答がこの手紙です。
 『思想』の清水先生の論文では、最後の方で、尾崎さんがずっと前につぶやいたツイートに対するトランス排除的な人たちの反応が分析されます。尾崎さんの手紙では、タイトルから分かるように清水先生の「埋没した棘」の問題設定が継承されますが、そのなかでわたしが2月に書いたブログに尾崎さんが言及してくださっていることを最近知りました。わたしは、それを教えてくれた知り合いの方に『f visions』を送ってもらい、昨日読むことができました。ですからこのブログ記事は、そうしてリレーされてきたバトンをわたしが受け取った記録です。
 この記事では、清水先生の論文や尾崎さんの手紙の内容も紹介しますが、わたしが理解不足で間違ったことを書く恐れもあります。それはわたしの責任ですのでご了承ください。また、わたし自身の経験についても書きますが、全てのトランス(非シス)が同じように自分の身体を経験しているわけでは当然ないので、ご注意ください。最初の3節までは、清水晶子の論文と尾崎さんの手紙の紹介で、4節からがわたしの考えです。長くなるので、興味が無くなったら3節までで読むのをやめていただいて構いません。

1.傷つきやすさの連帯

(…)そもそもの実際問題としても、公衆トイレで利用者の男性器の有無を確認することは少なくとも深刻な人権侵害を伴わない限り不可能であり、男性器を露出して公衆浴場の女湯を利用するトランス女性という存在も実状からは程遠い(…)。にもかかわらず、トランス批判派の女性たち、フェミニストたちがこれらの主張を固持するとき、そこに浮かび上がるのは、特定の性的・身体的な傷つけられやすさにおいて「女性」の均一性を保障し、ひるがえってその傷つきからの保護にこそ「女性」の連帯の拠り所を見出そうとする欲望である。言い換えれば、女性トイレや女湯の利用資格を執拗に問おうとする人々にとって、ある利用者が実際に性暴力を働くかどうかは問題ではなく、それどころかおそらくは、その人にペニスがあるかどうかすら、本当には問題ではない。問題は、その人の身体がペニスによって挿入され傷つけられうるものとして認められるものかどうかであり、そしてその傷つきからの保護こそを――その保護のために他にどのような傷つきを与えることになろうとも――最重要とする課題設定を共有できるかどうか、なのだ。(清水晶子2020:39ページ)

 はじめに清水先生の論文を紹介します。清水先生の論文のタイトルは、「埋没した棘」。この「棘」は、ペニス(男性器)を象徴するもの(と同時に、尾崎さんの過去ツイートを象徴するもの?)です。
 そもそも、「棘」とは何でしょうか。「棘」は、尖っています。人を傷つけます。だとしたら、「棘」からは身を守らなければなりません。「棘」の生えたものは、遠くに遠ざけて、「棘」に刺されないようにしなければなりません。ですから、もしその身体に「棘」――ペニス――を生やしている人が、その「棘」をもって攻撃しようとしているなら、身を守る必要があります。そんな危険な人たちを、自分たちのセーフスペースに迎え入れるなんて、とんでもないことです。
 トランス女性を排斥しようとする人たちは、しばしばこうしたロジック(レトリック)によって、トランス女性のトイレ利用や公衆浴場利用を論じ、排斥を声高に主張します。現実には、その身体にペニスがあるかどうかをトイレの入り口で確認することなど(すべての利用者に対する重大な人権侵害なしには)不可能で、ペニスを備えた身体を隠すことなく女性用の公衆浴場を利用しようと積極的に行動するトランス女性など、ほとんど空想の産物であるにもかかわらず。
 しかし清水先生は、そうしたロジックの裏には、実は別の動機が隠れている、とします。「棘」のある身体、攻撃的で危険なものが最初にあるのではなく、最初にあるのは「傷つけられる私たちの身体」だ、というのです。フェミニストは、女性の連帯を唱えます。その連帯の大きな拠り所が、とりわけトランス排斥的なフェミニストたちにとっては「傷つけられやすさ(vulnerability)」にある、と清水先生は論じます。その連帯にとって重要なのは、どこかの誰かが実際に攻撃的な存在としてあり、「棘」をもってリアルに自分たちを傷つけようとしていることではありません。自分たちの身体が「傷つけられうるもの」であり、とにもかくにも「棘」に刺されて傷つくものであることが、連帯を駆動しています。順番が逆なのです。
 少し難しいので、私なりの例で説明してみたいと思います。ある高級住宅街があり、「ゲーテットコミュニティ」を形成しているとします。その住宅街エリアは、エリア全体が高い塀に囲まれていて、特定の「ゲート」をくぐらなければ外と行き来できません。その高級住宅街では、住人たちが管理組合を作っています。管理組合の仕事は、そのコミュニティの安全を守ることです。なにせ、大金持ちしか住んでいないのですから、泥棒が入ったら大変です。そして、高い塀で囲んで綺麗な街並みを作っているので、町の景観や安全が脅かされてはたまったものではありません。住人たちは高いお金を出して管理組合を組織しています。大金持ちである自分たちは、泥棒や「浮浪者」によって傷つけられやすいので、身を守る必要があるのです。管理組合の人たちは、住宅街のいたるところに監視カメラを設置し、住人以外の人間が入り込んでいないか夜通しパトロールをします。ゲートの入り口では、厳しい身分チェックをします。もう、市町村のゴミ収集車すら中には入れません。
 高級住宅街の人々は、高いお金を出し、強い志をもって管理組合を組織しています。コミュニティの「連帯」です。その連帯を可能にしているのは、自分たちの「傷つけられやすさ」です。しかし、いったい誰がそのコミュニティを「傷つけ」ようとしているのでしょうか。
 実際は、誰でもありません。高級住宅街の人々は、まずはじめに自分たちの「傷つけられやすさ」によって連帯し、管理組合を作っているので、特定の「危険人物」を念頭に置いてはいないのです。しかしその「誰でもない」は、「誰もがそうである」に容易にひっくり返ってしまいます。コミュニティの住人は、塀の外で身を休めているホームレスの方がいたら、わざわざゲートの外まで出て行って攻撃しに向かうようになるでしょう。住宅街でフードを被っている住人がいたら、銃をつきつけて「フードをはずせ!」と叫ぶでしょう。野良猫が迷い込んできたら、こっぴどく痛めつけて追い出すでしょう。コミュニティのメインの住人とは肌の色が違う人が運送業者としてやってきたら、口汚くののしって追い返すかもしれません。
 どうして、そんなことになるのでしょうか。それは、高級住宅街の人々の「連帯」が、「傷つけられやすい自分たち」の存在を拠り所としているからです。具体的な、リアルな危険があり、そこから身を守るために「連帯」したのではなく、とにもかくにも「傷つきやすい」、そんな自分たちの存在を出発点として「連帯」してしまったからです。順番が変なのです。その結果として、コミュニティの住人は自分たちと少しでも違う存在を見つければ、その途端にその相手を「棘のある存在」と見なすようになっていきます。その相手が、現実の脅威であるかどうかは、もはや関係がありません。異質な身体を見つけるや否や、「傷つきやすい」自分たちを「傷つける」存在、「棘」のある存在に違いないと、排斥の銃口を向けるようになるのです。
 清水先生がトランス排除的なフェミニストたちに見出しているのは、そうした「傷つきやすさ」の連帯です。清水先生が、実際のところ排斥の対象が「棘」をもつ危険な存在であるかどうかはもはやどうでもよく、自分たちが「傷つきやすい」存在であることの重要性が共有できることだけが問題なのだ、と書いているのは、そういうことだと思います。
 こうした「傷つきやすさ」の連帯は、その前提として、特定の「女性の身体」を均一的なものとして表象することで成立しています。それは、ペニスを挿入され、また妊娠する可能性をもつ、そうした「女性身体」です。
 清水先生は、これを問題視しています。なぜなら、そうして均一なものとして表象された「傷つきやすい女性身体」を前提とする「連帯」は、さきほど書いたゲーテッドコミュニティの管理組合ように、多様な身体の存在や、多様な「傷つきやすさ」の存在を覆い隠し、排除してしまうからです。例えば、そうした「女性身体」による連帯のなかに、妊娠可能性のない女性身体は含まれているでしょうか。障害のある女性の身体は含まれているでしょうか。わたしと同じように、病気や障害で「まだら」や「斑点」をもつ女性の身体は、含まれているでしょうか。同性である女性によって性暴力を受けた/受ける人の身体は、含まれているでしょうか。ペニスの存在よりも、肌の白い人の存在=権力におびえなければならない、そういった傷つきやすさは、「連帯」のなかで無視されていないでしょうか。市役所の職員が使う難しい言葉によって傷つけられる女性や、職場の常勤スタッフの意向に脅えながら働く非常勤・派遣スタッフの女性の傷つけられやすさは、無視されていないでしょうか。
 実際のところ、均一な「女性身体の傷つきやすさ」に基づく連帯は、それらを無視することでしか成り立ちません。とにもかくにも自分たちには女性身体がある、これはペニスによって傷つけられる。その――まるで普遍的に全「女性」に共通で、全「女性」にとって最も重要なはずの――問題を、最も重要な問題として共有できなければ、その「連帯」に加わることはできないのです。
 そうして作り上げられた「連帯」が、いまこのようにしてトランス女性を排斥するムーヴメントを駆動しているのは、周知の通りです。異なる身体を見つけるや否や――まるでフードを被った住人に銃口を向けるゲーテッドコミュニティの管理組合のように――、それを「棘」として、危険なもの、傷つけるものとしてターゲットにするのです。
 「棘」は、初めから「棘」だったのではありません。もはやそこにペニスがあるかどうかすら問題ではない、と清水先生は言います。そうですね。「オペ済みトランスは認めてやる」という差別的な言葉が流通すると同時に、「オペ済みだろうがトランス女性は女性ではない」という差別的な言葉も、同じくらい流通しています。もう、「棘」が本当にそこにあるか、それが本当に自分たちを傷つける「棘」であるかどうかは、どうでもいいのです。自分たちが「棘に刺される=傷つきやすい」身体を持っていて、その身体と少しでも違っていれば、そこには「棘」があることにされます。その「棘」はきっと、出生時に「男性」を割り振られてしまったトランス女性だけでなく、障害のあるひと、肌の色の違うひと、”きれいな身なり”をしていないひとなど、様々な人びとに無限に押し付けられていくことでしょう。
 「棘」は、初めからそこにあったのではありません。「棘」は、あとから植え付けられたものです。それは、「フェミニスト」の連帯によって彫刻されたもの、彫刻して外から/後から付け足されたのなのです。

2.埋没した棘

「チンコまたにはさんで、「ちーっす」」がトランス批判派の強い反応を引き起こしたのは、露出しておらずしたがってその外見/現れ(appearance)からは視認可能(detectable)ではないような差異の存在を事後的に語るからであり、しかも視認を免れることがいかに容易であるかが殊更にカジュアルに語られるからである。この言明は、均一の傷つけられやすさを持つ身体とその均一で視認可能な外見/現れ(detectable appearance)とに基づく共存や連帯がもたらすと期待されている安心や安全の幻想に対して、敬意を欠く――実は私もチンコまたにはさんだだけでその場にいたのだけれど、あなた気が付かなかったでしょ?――のみならず、まさにその幻想の基盤を脅かすものとして、受け取られたのだ。(清水晶子2020:45ページ)

 先ほど書いた「均一な女性身体の傷つきやすさ」の連帯に基づくフェミニズムにとっては、自分たちと同じ「傷つきやすさ」を持つ存在であるかどうかが外見によって視認可能だと信じられています。だからこそ、少しでも外見の異なる「異質な身体」に対して、「棘」が植えつけられるのです。トランス排除派の人々を見てください。いつもいつも「こんな外見の奴も「心は女性だ」と言えば女性になるのか」と憤慨しています。本当はトランス排除派の女性だって、気づいているはずです。いくらかのトランス女性は、もはやトランスであることすら気づかれないほどに「埋没」し、女性として生活していることに。わたしだって、そうです。わたしはトランス女性ではありませんが、現在はほぼ「女性」としか視認されない状態で外出しています。
 「均一な女性身体」という幻想、神話がなければ「連帯」できないフェミニストたちにとって、そうした事実ほど否認したい事実はないでしょう。自分はトランスジェンダーを見分けられる、とかたくなに主張する――非現実的でおろかな――排斥派のひとが、ネット上にはたくさんいます。
 だからこそ、尾崎さんの「あたしとか、チンコまたにはさんで、「ちーっす」とかいって、女風呂はいってんのやけど、意識低すぎ?」というツイートが大混乱・大喧騒を引き起こしたのだ、と清水先生は分析します。均一な女性身体を拠り所として、異なる身体を必死に「棘」として排除しようとしても、異なる身体を完全に排除しきることはできない。そのもっとも否定したい事実を、「均一性の連帯」に対するいっさいの敬意もなく、カジュアルに暴露してしまった。だからこそ尾崎さんのツイートは激しい反応を呼んだのだ、と清水先生は分析します。
 もちろん、トランス排斥派の人たちは、この尾崎さんのツイートを、自分たちが「トランス女性」に恐怖するのは当然なのだとか、「トランス女性」は侵襲的で侵略的なのだとか、そういったことの「証拠」として使おうとしています。ほらみろ、こんなにトランス女性の危険性は「分かりやすい=視認可能」ではないか、というわけです。しかし、そうした証拠集めははじめから失敗しています。むしろ、それが失敗していることに気付いているからこそ、その事実を認めたくないためにあれだけの混乱・喧騒が起きたのだろう、と清水先生は分析します。誰にも見られることなく、ただクラウド上に刺さっていただけの尾崎さんの数年前のツイートが、ことさらに掘り出され、「ほらみろこんなに危険ではないか」と、トランス女性の「棘」の可視性=視認可能性があげつらわれるとき、しかしその当のツイートは、トランス女性の「棘」がかくも視認不可能に「埋没」している事実をこともなげに暴露し、その異なる身体の存在にあなたは気づくことができなかったでしょう?と挑発しています。トランスジェンダーは可視的=視認可能(detectable)な存在として排除できるはずだ、という「連帯」を支えるはずの「均一な女性身体の傷つきやすさ」が幻想でしかないことが、「埋没した棘」の存在によって暴かれてしまったのです。(あのツイートについて、尾崎さんはそれはフィクションであると後述しています。しかし、清水先生の論文が注目するのは、その文面が実話であろうとなかろうと、なぜあれほどトランス批判派の怒りと混乱を招いたのか、ということです)
 以上が、清水先生の論文についての、わたしの簡単なまとめです。まだお読みでない方は、本当に勇気づけられるのでぜひ読んでください。(※本当の論文では、中盤でかなりジュディス・バトラーの議論が参照されるのですが、理解が難しかったので省略しました。すみません。)

3.埋没したものを掘り起こす

 話を回りくどくしてしまって申し訳ありません。はっきりと申し上げますね。あなたがトランス女性のペニスを目撃させて、不安を抱かせた当の「彼女たち」というのは、結局のところ、シスジェンダー女性のことではありませんか?それも、人生の内に一度もトランス女性と触れ合う機会がなかったような、もしくは、トランス女性と接触した経験を意識の底に積極的に沈めてしまっているような、特定のシスジェンダー女性のことではありませんか?(尾崎日菜子2020:83ページ)

 続いて、尾崎日菜子さんの手紙の紹介をします。手紙の正式なタイトルは「埋没したものを掘り起こす――千田有紀さんとの濃厚接触の果ての断片、または、これからも接触を続けるための手紙」です。
 尾崎さんの手紙は、『現代思想』で非常に問題のある論文を書いた、千田先生に対する問いかけで始まっています。あなたの論文は、「彼女たち」に対してトランス女性のペニスを目撃させ、恐怖させておきながら、その恐怖に寄り添う優しい言葉づかいで書かれているけれど、その「彼女たち」にはシス女性しか含まれていませんね、と尾崎さんは始めます。しかし、

トランス女性のペニスを危険なものであるかのように仰々しく語るあなたの「彼女たち」は、トランス女性やジェンダークィアたちの身体のリアリティを決して代弁してはくれません。あなたが「彼女たち」の口を借りて饒舌に語る「彼女たち」の意味世界には、私たちの奇妙で脆弱で傷つきやすいペニスはどこにも存在していません。(尾崎日菜子2020:83-84ページ)

尾崎さんが言いたいことは、「私たちぬきに、私たちの身体の一部としてのペニスの意味づけをするのはやめてほしい」「あなたが引き直した線の内側に、すでに常に存在してしまっている私たちの身体感覚を無視しないでほしい」(83ページ)ということです。
 清水先生が論文で書くように、トランス女性はすでに「女性」という線の内側に既に存在してしまっていました。しかし、トランス排除的な女性たち、そしてそうした「彼女たち」の恐怖にうやうやしく寄り添う千田先生は、そのようなトランスの存在を「棘」として、恐怖の対象として、一方的に再想像しようとします。既に共にいた、という事実を必死に否定するかのように、「棘」としてトランスの身体の一部分を掘り返しています。それは、とがった、危険な身体である、と。
 しかし、他者の身体に勝手に意味づけをしてはならない、ということを誰よりも積極的に語ってきたのは、フェミニズムではなかったでしょうか。女性の身体に、母性としての意味づけを勝手にするな。女性の子宮は「赤ちゃんの容れもの」ではない。妊娠可能性があることは、社会のなかで責任を負えないことを意味しない。女性の人格を、身体の一部分に勝手に還元するな。性的対象として人格を損なう扱いをするな。「私たちの身体に勝手に意味づけするな」、「私たちの身体感覚を無視するな」ということを教えてくれたのは、フェミニズムではなかったでしょうか。
 尾崎さんは、トンラス女性、ジェンダークィア、非シスの人々が自分の「ペニス」について多様な語りを残してきたことをあなたは見ようとしない、と千田先生に迫ります。もしかしたら、そうした語りが「相互に矛盾し複数性をもった」意味世界を構成してしまっているから、千田先生(たち)は耳を傾けてくれないのかもしれません。
 しかし、そうではないかもしれません。千田先生たちが「私たち」との接触を果たすことができないのは――――

なぜなら、私たちは多くの場合、あなたたちと同じ存在として十分に埋没してしまっているからです。あなたや「彼女たち」の中に溶け込んでしまっている私たちの存在は、あなたにはうまく取り出せなくて、だから、ペニスがあるものとして私たちをこれほど恐れているにも関わらず、私たちと「彼女たち」の区別さえもできていないのかもしれません。(尾崎日菜子2020:84ページ)

異なる身体感覚をもつ「私たち」トランス/ジェンダークィア/非シスの声を、千田先生は聞こうとしません。ただ、そこに「棘」を見出して恐怖するよう「彼女たち」に促します。しかしその声を千田先生(たち)が聞くことができないのは、「私たち」があまりにも異なっているからではないかもしれない、と尾崎さんは書きます。その声が聞き取られないのは、「私たち」と「彼女たち」が、実はお互いに溶け込んで生きてきたからです。
 尾崎さんは続けます。「均一な女性身体」がある、みんな「ペニス」に恐怖しているという仕方で、千田先生が「意味の彫刻刀」を使って「私たち」のペニスを「棘」へと彫刻する以前には、もっと密かでぎこちない「接触」があったのではないだろうか、と。
 尾崎さんの郷愁は、Covid-19が蔓延する世界以前の、「私たちが平和的に共存していた状態」へと向かっています。Covid-19が顕わにした、またCovid-19によって新たに作られた「生のあやうさ」が、「私たち」の共存していた時代の「シスターフットという土壌」の存在を教えてくれる、と尾崎さんは言います。そこでは、「私たち」が同じような抑圧の構造に巻き込まれ、共存しつつ、あやうい「接触」が起きていたのだと。
 この「生のあやうさ」が、「私たちのシスターフットという土壌」(尾崎2020:85ページ)の拠り所だとしたら、それはきっと、均一な「傷つきやすさ」によって連帯する、ぺったんこの女性身体の神話とは異なるものとなるでしょう。わたし(夜のそら)には具体的にイメージできませんが、それはきっと、互いに異なる身体があることを前提としつつ、それぞれの生をあやうくする社会の抑圧的な構造を共になくすための連帯なのでしょう。
 この話題に関係するかどうかわかりませんが、一つだけここに書いておきたいことがあります。わたしは、トランス女性に対する差別に抗う日本語圏の抗議が、この国における民族マイノリティの女性たちから最も早く上がったことを絶対に忘れません。わたし(夜のそら)は、在日コリアンの方々、とりわけ在日コリアン女性に対するひどい差別や攻撃から、ずっと目をそらしてきました。でも、わたしが目をそらしてきた女性たちは、誰よりも早くトランス/非シスのために抗議の声を上げてくださいました。わたしはそのことを忘れません。そして、今まで本当に申し訳ありませんでした。

4.母体保護法/優生保護法

 以上で、清水先生の論文と尾崎さんの手紙の紹介は終わりです。以降は、わたしが考えたことを書きますが、すでに9000字を超えているので、疲れた方は読まなくても結構です。
 これからは、わたしの話をします。わたしは、近いうちに(広い意味での)性別適合手術をします。とはいっても、睾丸を摘出する手術なので、すぐ終わるし、部分麻酔で、退院するだけならその日のうちにできます。
 しかし、皆さんはご存じでしょうか。この国には母体保護法という法律があり、生殖機能を失わせるような外科手術は法律で禁じられているのです。では、どうしてわたし(たち)がそんな手術を受けられるかというと、性同一性障害であることを理由として、その苦痛を取り除くという治療の名目で、性別適合手術を母体保護法の例外規定としているからだそうです。(※実際には、睾丸をとるだけなら、性同一性障害の診断(診療)ガイドラインに沿っていない手術もこの国では大量に行われていて、それで母体保護法違反で医師が処罰されたりはしていないようです。ただわたしは、病気が多く体力が少ないのと、術後のホルモン調整が上手くいかないと非常にリスクがあるので、主治医と相談しつつ、仕方なくGIDのガイドラインにそって診察を受けています。本当は一刻も早く手術したいです。)
 さて、この母体保護法は、1996年までは「優生保護法」という法律で、障害者を差別する内容が含まれていました。優生保護法では、「不良な子孫の出生の防止」が大きな目的の1つであり、勝手に「良くない」存在だと認定した人たち(多くは障害をもつ方たち)に対して、強制的に不妊手術をしていました。信じがたい法律です。
 わたしは、優生保護法や優生思想について詳しくありませんが、この優生保護法は、障害を持つ人たちの身体を「社会に刺さった棘」のように意味づける、最低最悪の法律だったといえるのではないかと思います。この法律は戦前の国民優生法に由来しますが、そこでも「悪質な遺伝性疾患を持つ者の増加の阻止」が謳われていました。優生保護法や国民優生法は、健全で健康な日本人が、脈々と子孫を生み出していくなかに刺さった「棘」のように、障害をもつ人、病をもつ人の身体を意味づけていたのだと思います。
 戦後の優生保護法によって不妊手術をさせられた方の数は、約25000人に上るそうです。(厳密には、同意なしの強制手術が約16000件、残りの9000件は同意ありの不妊手術だったそうですが、この「同意」にはきっと何の内実もないと思います。)本当に、信じられないほど非人道的なことを、日本人は日本国憲法がありながら行ってきました。なお、当然のことですが、この優生保護法には(昨年ようやく)違憲判決が下っています。
 わたしが優生保護法のことをここで書いているのは、特定の「異質な身体」に対して「棘」を見出す、つまり「意味の彫刻刀」で勝手に彫刻するという点で、トランスジェンダーに対していま起きている差別・排斥の流れと共通点があると考えているからです。健常者とは異なる身体・精神をもって生きている障害者に対して、その存在を「あってはならないもの」や「社会を脅かす脅威」とみなして、そうして社会=国家に刺さった「棘」を抜くように、不妊手術を強制してきたのではないかと思います。
 もちろん、優生保護法の強制不妊手術事件にはジェンダーによる偏りがあり、被害者の7割は女性です。ここには、障害があることと女性であることが、二重の差別として重なり合う掛け算のような事態があったと思います(インターセクショナリティ)。とはいえ、法律によって「不良な子孫」として決めつけられた人たちがおり、そうした人たちの殖器官が「社会や周りの人にとって危ないもの」としてみなされたのは間違いないはずです。
 どうして、そんなことが起きてしまったのでしょうか。それは、社会の中で「意味の彫刻刀」を握っているのが圧倒的に健常者たちで、障害をもつ人たちの身体を勝手に加工する権力をもち、それに対して障害をもつ人たちが「そんな意味づけをやめろ」という風に抗議できない立場に置かれていたからだと思います。
 ここでもやはり、「棘」は初めから「棘」として存在していたのではありません。人の役に立つ、国の役に立つ、一人前に働ける、そういった健常者中心の社会があり、健常者だけが権力(パワー)をもつ社会がはじめからあり、そうした「健全な社会」や「健康な日本民族」を危険から守るために、自分たちとは異なる身体・精神をもつ”障害者”に対して、「あなたの存在は危険である」、「あなたの生殖器官は「棘」である」という風に勝手に意味づけが行われたのだと思います。その「棘」は、障害者の身体(生殖器官)に対して後から付け足されたもの、健常者たちの社会の「意味の彫刻刀」によって彫刻され、押し付けられたものだったと思うのです。

5.意味の彫刻刀

 誰の身体を、どのように意味づけるか。誰の生殖器官を「棘」として危険なもの扱いするか。それを決めるのは、社会の中で権力(パワー)をもつ人たちです。社会の中で力をもち、人を抑圧する側にいる人たちが、「意味の彫刻刀」によって「棘」を彫刻するのです。
 フェミニズムもまた、別の仕方で「意味の彫刻刀」と闘ってきたはずです。女性は妊娠するのだから子育てに向いている、だから会社で働くのに向いていない、とか。女性ホルモンは母性を育むから、女性は愛情あふれる存在だとか。女性はだから感情的だ、とか。女性は子どもの世話をするための身体の機能を持っているのだから政治や商売には向いていない、とか。妊娠した女性の身体には「神聖な命」が宿っているから、勝手に中絶してはいけないとか。そんな、男性中心社会/男性たちが握る「意味の彫刻刀」をへし折るために、フェミニズムは闘ってきたのではないでしょうか。
 そんな男性たちによる、身体(とくに生殖器官)への意味不明な意味づけが現実に有効なものとして機能してしまったのは、男性たちが社会の中で不均衡に権力(パワー)を持っていたからだと思います。だから、「意味の彫刻刀」による訳の分からない身体への意味づけが、現実の差別的な社会の正当化の根拠に使われてしまっていたのでしょう。
 この国においては、トランスの身体にもまた、シス中心社会/シスジェンダーによる「意味の彫刻刀」が振るわれています。この記事でずっと書いているように、均一な女性身体の神話を信じる「フェミニスト」たちによって、「棘」が彫刻されています。それだけではありません。紙の上では異性同士として婚姻した片方がトランスして戸籍を変えてしまうと同性婚が出現してしまうので、婚姻している人にはGID特例法による戸籍変更が認められていません。ここでは、現在の日本の(伝統的な)婚姻制度をおびやかす「棘」として、トランスの身体は理解されています。また、未成年の子どもがいるトランスも、法律による戸籍変更ができません。今度は、子どもの健康・安全にとっての「棘」として、トランスの身体は理解されています。トランスの身体は、家族制度や、標準的家族内での子どもの健康・安全を脅かすものとして理解されているのです。
 そして、戸籍変更のための手術要件は、言うまでもありません。「女性」や「男性」とはどのような存在なのか、そのシス標準的な常識を脅かす「棘」として、トランスの身体は意味づけられています。身体に生えた「棘」を抜いてから、健全な「男性」や「女性」になりなさい、と特例法は言います。GID特例法は、当事者たちの努力によって獲得された、トランスの健康と生存にとってとても貴重な法律だと思います。でも、伝統的家族=シス中心的な人々が「意味の彫刻刀」を握っている状況は否定できないし、それは変わっていくべきだとわたしは思います。

6.地下工場と産業廃棄物

 以前わたしは、千田先生の『現代思想』論文に対する反論(というか存在主張)のために、記事を書きました。

この記事でわたしは、世の中全体は「ジェンダー生産工場」である、ということを書きました。それは、わたしから見えている景色です。生まれてきた子どもは、大きな丸太のように、工場のレーンに流されて行って、外性器を適当に確認して「男性」と「女性」のレーンへと分けられていきます。そのあとは、「男性」側の丸太は「男子・男性」になるように、「女性」側の丸太は「女子・女性」になるように、加工がされていきます。服を着せて、言葉遣いを教えて、身体の動かし方、歩くタイミングなどを教えて、立派な「女性」や「男性」になるように、丸太を削って、やすりをかけて、色を塗って加工していくのです。
 このジェンダー生産工場は、シスヘテロな人々を基準に運用されています。工場の管理人たちは言います。ペニスというその突起は「男性器」である。それはお前が「男性」であることの証拠・象徴である。そして、異性を欲望したけっか「女性器」に挿入するのが、その正しい使い方だ、と。
 トランスジェンダーは、このジェンダー生産工場から生まれた産業廃棄物です。加工しても加工しても「自分は男性/女性ではない」という風に納得してくれず、いくら「その性器の形だけがお前の性別を決定する」と言い聞かせても、それを認めず、ときに自分でもぎ取ってしまおうとします。
 社会全体をすっぽり包み込むこのジェンダー生産工場のなかで、トランスたちは「意味の彫刻刀」を握ることが許されていません。それどころか、恐怖や怒りを増幅させ、「バズる」ことでクリック数が稼がれ、怒りが消費されていく、そうしたSNS時代の特性とあいまって(憤怒のエコノミー:outrage economy)、フェミニストたちによる「棘」の彫刻の試みがトランスの身体に対してしきりに行われています。
 しかし、私たちトランス(非シス)は、シス中心の社会の「意味の彫刻刀」をただ一方的に受け入れてきたわけではありません。社会の主流の「ジェンダー生産工場」から生まれた産業廃棄物である私たちは、地下工場に潜って、自分たち自身で「意味の彫刻刀」を握り直し、自分の身体を意味を与え、また自分自身でそれを加工してきました。GID特例法はそのひとつの目に見える成果ですが、それ以前には「性転換師」と呼ばれる人々による「闇医療」も、トランスの人たちは開拓してきました。先ほど書いたように、わたしはガイドラインの延長線上で睾丸摘出手術をしますが、ガイドラインに沿わないクリニックがこれほど沢山あるのも、トランス(非シス)たちが地下工場を開拓してきた成果だと思います。ちょっと驚いてしまうけれど、数十年前には、動物病院で睾丸摘出の措置を受けるトランス(非シス)もいたようです。まさに、社会の表にはでない地下工場です。尾崎さんの手紙にも、ペニスが「新しい性器を作り出すための素材」であるというトランスの語りが紹介されています(尾崎:84ページ)。これは、反転法による性器形成ですね。それだけではありません。現在のMtFの性別適合手術には、S字結腸法もあります。腸の一部が、女性器へと加工されていくのです。
 (わたしは、睾丸を摘出して、身体が男性ホルモンを作らなくなって、男性ではない存在として自分が死ねる日を夢見ている。ペニスと呼ばれる器官が、どんどん委縮して小さくなって、わたしの身体が正しい姿に落ち着く日を夢見ている。本当はペニスも切除したいけれど、自分の体力が持つか分からないし、ペニスをとったあとの造膣は拒否できても、外陰部の形成はセットになりそうだから、それはそれで受け入れがたい。)
 そうして、地下工場でそれぞれの身体と自分たちを和解させる試みが、今日もどこかで進行しています。そうして加工された身体をもって、またトランス(非シス)は地上の社会に戻っていきます。ときにはタイに渡航したりしながら、自分の身体を自分のものにしていくトランス(非シス)たちの地下工場の開拓の歴史は、シスな人々には見えない、それこそ「埋没」した加工のプロセスでしょう。
 トランス(非シス)のなかには、自分自身の身体に刺さってしまった「棘」のように、自分の外性器の存在を感じるひともいます。わたしは、そのリアルは絶対に否定できないし、誰にもその権利はないと思います。そうしたトランス(非シス)が、自分に納得のいく仕方で、安全にその「棘」を抜くことができるように、地下工場がもっともっと整備されていってほしいと思います。
 その一方で、お前の身体には「棘」が生えている、という「意味の彫刻刀」を振り回して私たちの身体に「棘」を彫刻しようとするシスセントリックな試みには、いつまでも反対しなければなりません。そんな暴力的な「意味の彫刻刀」によって心を削られ、自分の身体には他の人を傷つける「男性器=棘」が生えている、という風に感じて、それが今度は翻ってその人自身に突き刺さる「棘」のようになってしまわないように、しなければなりません。冒頭で紹介した清水先生の論文は、そうして「意味の彫刻刀」を振り回す人たちのトリック=レトリックを暴く、とても貴重な仕事だと思います。本当に、感謝なことです。

 これで、清水先生の論文と、尾崎さんの手紙を読んで、わたしが考えたことの記事は終わりです。最後に2つだけ、書かせてください。
 まず、わたしがいまこうして非シスジェンダーとしてトランス関係のブログを書けていること。その大きなきっかけを作ってくださったのは、ゆなさん(@snartasa)でした。『現代思想』に千田先生の論文が出て、わたしはそれを読んで青ざめて吐き気がするばかりだったのに、ゆなさんは徹底的に立ち上がってくださいました。そして、そのあとにブログをアップしたわたしを、ゆなさんは守ってくれました。変な研究者に攻撃されたときも、誰よりも怒ってくれました。きちんとしたトランスジェンダーになれず、いつまでも「非シスジェンダー」なんて名乗っているAジェンダーのわたしの言葉を、優しいお姉さんのようにいつも尊重して「いいね」してくれました。
 そんなゆなさんが、今日紹介した清水先生の論文も受けて、書いてくださっているブログがあります。途中で紹介したかったのですが、最後になってしまいました。ゆなさんの言葉は、いつも優しいです。このブログを読んで、トランスジェンダーって何なんだろうと思ったら、ぜひこちらのブログを読んでください。異なる存在でありつつ、隣にいる「私」から、「あなた」へのメッセージです。


 最後の最後に。今回の記事を書いたのは、尾崎さんの手紙を読んだことに加えて、janisさんが開催してくださった、Alison Phipps, Me, not you: the trouble with mainstream feminism (2020)の読書会に参加することができたことも大きなきっかけとなりました。Phippsさんの本では、SNSの力を借りて主流化した「白人フェミニズム」が、黒人女性たちの声を上塗りして消していったり、女性たちの恐怖や怒りを動員することでトランス排除が行われたり、その過程で保守派や極右勢力と「フェミニスト」が協調してくさまが分析されています。この本の詳しい紹介は力不足でできませんが、この本を読むことで、上の清水先生の論文が自分なりにやっと理解できるようになりました。読書会には、研究者の方もおそらく参加されていましたが、安心して参加することができ、本当に毎週多くのことを学ぶことができました。本の内容を読んで希望を失ってしまいそうになることもありましたが、トランス差別を問題だと思い、真剣に考えている方が沢山いることを実感でき、他の方とつながれたことは、貴重な経験でした。参加されていたすべての方、そして詳しいレジュメを作って本の理解をサポートして、会の全体の進行に心配りをしてくださったjanisさんに感謝いたします。

※トランス差別に反対する記事では、Ahmedさんの反トランス差別エッセイを紹介する記事も書いたことがあるので、興味があればご覧ください。一応、この記事のタイトルは下の記事のタイトルとあわせています。