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なぜ「Amatonormativity」は「性愛規範」と誤訳されたのか、そしてなぜそれは誤訳なのか

 こんばんは。夜のそらです。
 今回の記事では、哲学者エリザベス・ブレークさんが発明した概念「Amatonormativity」の日本語訳について、書きたいと思います。

1.この記事で目指すこと

 以前わたしは、「Amatonormativity」概念を紹介する記事を書きました。この記事を書いたきっかけは、ブレークさんの主著『結婚を最小化する』(Minimizing Marriage)という本が日本語に翻訳されたことでした。

しかし、とても残念なことにその翻訳書では(『最小の結婚』という本のタイトルも微妙ですし)「Amatonormativity」が「性愛規範性」と訳されていました。上の記事では、なぜこれが適切な訳語でないのかを書きました。そして、その代わりの訳語として「恋愛伴侶規範」という訳語を提案させていただきました。その後、ツイッターなどでも「恋愛伴侶規範」という言葉を使ってくださる方がいて嬉しかったです。
 その後わたしは、かなり自分の言葉でかみ砕いて、「恋愛伴侶規範」について(&その有害さについて)解説する記事を書きました。

 お時間のある方は、こちらもお読みください。
 そして、今日のこの記事では、なぜ白澤社の『最小の結婚』の翻訳で「Amatonormativity」に「性愛規範性」という明らかに不適切な訳語があてられてしまったのか、その原因を探っていきたいと思います。そして、ここから分かるように、正直言ってこの記事には生産性はありません。わたしがこれからやろうとしているのは、間違いの原因を遡っていくという不毛なことだからです。ただし、なぜ間違えたのかを特定すれば、2度と間違いを犯さずに済むとも思います。そしてわたしは、この記事を書き終えることで、日本国内でもう2度と「Amatonormativity」が「性愛規範性」と訳されないように、その防衛線を張っておきたいと思います。わたしのような、どこの誰かもわからない、そして大学で研究してもいない人間が、何を言っても無駄かもしれません。でも、研究者の方たちがこの概念を「性愛規範性」と訳すのは、わたしは自分たちのコミュニティが否定されてきた気分になるので、非常に嫌な気持ちになります。
 わたしがこんなに「Amatonormativity」概念にこだわるのは、この概念が、Aロマ(&Aセク)の人たちにとって救いの言葉となったからです。そして、今まで見えなかったことや、きちんと言葉にして批判できなかった「恋愛」をとりまく様々な社会の有害さを、きちんと名指しで批判できるようになったからです。この概念の発明者エリザベス・ブレークさんは、ここまでAロマコミュニティによってこの概念が歓迎されるとは、思っていなかったでしょう。でも、この概念はコミュニティにとって本当に本当に大切な言葉なのです。そして、わたしは、この概念が適切に日本語圏に根付くことを願っています。「Amatonormativity」概念はまだ日本には本格的に入ってきていません。しかし、間違いなくこれからたくさん流通していくでしょう。その本格的な流通の前に、わたしはこの概念(Amatonormativity)がAロマ(&Aセク)コミュニティにとってここまで重要性をもった、そのポイントをきちんと伝えておきたいのです。わたしは、この概念が日本のAロマコミュニティの未来にとって重要なものになると、確信してすらいます。
 その確信を得ることができる、とても記念すべき記事を、noteで読むことができました。羽田さんのこの記事です。

この記事で羽田さんは、『最小の結婚』第3章のち密な解説をしてくださっています。結婚と性行為は、何か本質的に結びついているように思われるけれど、「結婚」することによって性行為が何か特別なものに変わったりするのだろうか?そして、「結婚」という制度に「性(行為)」が不可避に結びつけられていることに根拠はないのではないか?というブレークさんの議論を、とても論理的に解説してくださっています。わたし(夜のそら)は論理的な文章を書けず、だらだら自分の言葉で書く癖があるのですが、羽田さんのこの記事はシュパっと明晰で、読んでいて心躍るものでした。
 なにより、こんなことをわたしが言うのは変なのですが、「Aセクシュアル寄りであり、Aロマンティックである」当事者による『最小の結婚』の解説が読めたこと、そしてブレークさんの議論を使って結婚制度への批判が展開されていることが、嬉しくて仕方ありませんでした。羽田さんはこれから第4章の解説も書いてくださるとのことです。日本にも、いよいよ「Amatonormativity」概念が本格的に流通し始めようとしています。それも、わたしたちAロマ(+Aセク)の手によって!(もちろんAロマの人でなくてもこの概念が便利だと思ったらどんどん使ってほしいです)
 ですから、こうした嬉しい状況を後押しするためのささやかな燃料として、わたしはこの記事を投下します。「Amatonormativity」をちょっとでもググれば防げたような誤訳、ちょっとでもこの概念がAロマコミュニティによって歓迎されていることを知っていれば防げたような誤訳が、2度と研究者たちの手で繰り返されないように、わたしは「性愛規範性」という訳語をこの記事で葬りたいと思います。

2.これまでの日本語圏での使用歴

 はじめに、「Amatonormativity」概念が日本語の研究者たちによって使用・翻訳されてきた来歴を調査します。結論から言うと、日本の学術領域で、オンラインで確認できる論文や書籍で「Amatonormativity」が使用された記録は発見できませんでした。
 日本で発行された論文情報を網羅的に集めているCinii で「Amatonormativity」と入れますが、全文検索をかけてもヒットは0件です。そしてその訳語として『最小の結婚』で用いられた「性愛規範」「性愛規範性」で検索をかけても、Heteronormativity(異性愛規範)しかひっかかりません。また、「elizabeth brake」で全文検索をかけても、ブレークさんの著作を参照しているものがそもそも見つかりませんでした。(ただしCiniiの全文検索はあまり当てにならない)
 次に、Google  scholarで「Amatonormativity」と入力すると、日本語+英語で75件ヒットします。学術領域では英語圏でも「Amatonormativity」はあまり使用歴がないことが分かります。なお、この75件は全て英語の論文や書籍・書評であり、日本語のものはありませんでした。
 最後に、同じGoogle scalarで、「elizabeth+brake+2012+愛」、「elizabeth+brake+2012+性」で検索をかけます。これで、Elizabeth Brakeさんが2012年に出版したMinimizing Marriageに言及している日本語の学術文献がヒットすると考えたからです。この検索の結果、それぞれ33件と5件ヒットしましたが、Minimizing Marriage を参照している日本語のものは1件だけでした。それは阪井裕一郎先生という、慶応大学の研究員の方(当時)が、深海菊絵さん著『ポリアモリー 複数の愛を生きる』(2015年:平凡社)の書評を2016年の慶応大学の「慶應義塾大学大学院社会学研究科紀要 : 社会学・心理学・教育学 : 人間と社会の探究」(81), 109-117, に掲載しているものです。

この書評で阪井先生はブレークさんのMinimizing Marriageに言及していますが、「Amatonormativity」概念には言及がなく、そのため特定の訳語をあててはいません。ちなみに、この阪井先生こそが、白澤社から出た『最小の結婚』の翻訳を(家族社会学の研究者たちの研究チームに)推薦した張本人にほかなりません(同書「あとがき」354ページ)。現在阪井先生は福岡県立大学に在籍とのことですが、とても感謝すべきことです。ちなみにこの阪井先生の論文でWeb上で読めるものは全て確認しましたが、BrakeさんのMinimizing Marriage に言及しているのは上の書評だけでした。
 以上のように、Web上で確認できる範囲では、「Amatonormativity」概念に言及している日本語の学術文献はありません。もちろん、CiniiやGoogle scalarでは内容が確認できない学術論文は無数にあり、紙媒体で精査すれば言及は多くあるのかもしれません。しかし、この概念を使っている可能性がありそうな日本の研究者を20人くらいに絞り込んだとしても、紙雑誌の論文まで全て探しに行くのは(体力的にもコロナ的にも技術的にも)不可能なので、今回は調査の限界ということにさせてください。
 しかし、Web上ではなく、実際の紙の書籍のレベルでは、この「Amatonormativity」がすでに2度だけ使用されている経歴があることが確認できました。それは、2019年11月に『最小の結婚』の翻訳が出る以前の、『クィアと法』(2019年6月:日本評論社)と、『セクシュアリティと法』(2017年7月:法律文化社)という2つの論文集の中に含まれた論文です。前者の『クィアと法』(2019)の第1章「ケーキがあるのになんでセックスなんかするの?--「アセクシュアルと法」を考えるために」(池田弘乃さん著)の13ページに、「Amatonormativity」への言及があります。後者の『セクシュアリティと法』(2017)では、第5章「カップルの特別扱いに合理性はあるか」(斎藤笑美子さん著)の74ページに、「Amatonormativity」への言及があります。どちらの論文も、もちろん2012年のMinimizing Marriageを参照しています。(ちなみに池田弘乃先生は2017年の『セクシュアリティと法』の方でもちらっとだけアセクシュアリティに言及しており、日本語圏でのクィア系の領域でのAsexualityの知名度の向上に貢献してくださっていると思います。)
 なお、『セクシュアリティと法』と『クィアと法』は、タイトルの付け方と編者の先生のメンツから、同じ系列の企画であることが分かりますが、どうやら編集者の方(上田さん)が法律文化社から日本評論社に異動したのに伴って、出版社が変わっているようです。

 以上、わたしが微力を尽くして探した結果にすぎませんが、『最小の結婚』の翻訳以前では、この2つの論文が、日本語圏で「Amatonormativity」概念に言及したケースになります。これから、それぞれについて訳語の問題を中心に詳しく検討していきたいと思います。

3.池田弘乃さんの論文(2019年)について

 この論文は『クィアと法』の第1章に収められていて、Aセクシュアルコミュニティにおける基本的な考え方が紹介されています。わたしは研究者ではないので、この論文の価値は分かりませんが、「アセクシュアル」が論文で取り上げられているということ以上(以外)に、いったい何の価値があるのか分からない論文だな、とは思っています。せっかく研究者の方が論文で扱ってくださっているので、批判は書きたくないのですが、Aセクシュアルと法律の関係とか、差別についての考察など、論文の後半の議論は全てにおいて表層的で、深く掘り下げられておらず、最後の「アセクシュアルという視点”から”考える」の部分にいたっては、ネットにある当事者の声を紹介した方がまだ実りがある気がします。今後もこういう系の論文が日本語で増えていくのは、正直言ってあまり嬉しくないです。池田先生がどういう動機でアセクシュアルを扱っているのかは分かりませんが、もし、「誰も日本で扱ってないからアセクシュアルを扱おう」という、そんな「おもしろクィア」枠的な動機でAsexuality(Aセクシュアル)を扱う研究者が増えるようなら、わたしは徹底的に批判します。わたしたちは、哲学的おしゃべりの材料や思考実験のパーツではなく、生身の人間で、毎日まいにち自分たちのセクシュアリティを意識させられながら、生きている/生きてきたからです。当事者たちの運動や思想、経験をないがしろにして業績づくりのためにAsexualityを扱う論文には、英語圏でそういうのが無数に出たので、もうたくさんです。日本語圏でそういう事態が繰り返されるのは本当に嫌です。やるなら徹底的に調査して、考えて、研究してから論文にしてほしいです。

ちなみに、論文の後半で池田さんがかなり依拠している、Elizabeth Emensさん(2014)の Compulsory Sexuality(強制性愛)という論文は、それなりに影響力があり、強制性愛について網羅的に書いていて、Aセク的にも重要なので、いつかこのブログでも紹介できたらと思っています。ただし、法学系で数十ページみっちりの論文なので、読むのにかなり骨が折れます…。

 さて、この池田さんの論文で「Amatonormativity」が出てくるのは、次の個所です。これは、本文のなかで「性的欲求規範(sexualnormativity)」という言葉が使われたとき、その単語につけられた注17番です。

17)Chasinによれは、アセクシュアルであることには説明が求められ、臨床の対象となる一方で、セクシュアルであることは正常な状態として暗黙の裡に前提とされていること(Chasin 2011: n.12)。なお、関連する概念として性愛規範(amatonormativity)がある。Brakeによれば、「結婚しており性愛を伴う(marital and amorous)愛の関係」に特権的な価値を認める考え方である(Brake 2012: 5)(斎藤 2017:74)。 ※以上、池田(2019)13ページ

この文章は、幾重にも気持ちの悪いことになっています。
 まず、本文中で池田さんは「sexualーnormativity」という語を使って、その説明としてこの注17番は書かれています。「セクシュアル=正常、アセクシュアル=異常」という規範的想定のことですね。しかし池田さんはこの「sexualnormativity」を「性的欲求規範」と訳しています。非常に気持ちの悪い訳語です。どう考えても、「sexualnormativity」は「性愛規範」と訳せばいいと思いますし、「性的欲求」なら「sexual desire」を念頭に置かずに理解できません。
 このように「sexualnormativity」を「性愛規範」と訳さない理由は、しかしすぐに予想がつきます。それは、「amatonormativity」を池田さんが「性愛規範」と訳すことにしているからです。日本語の訳語がそこで重なってしまうので、「amatonormativity」の方に「性愛規範」を使って、結果的に「sexualnormativity」の方が「性的欲求規範」になってしまったのだと考えられます。
 次に、池田さんはここでBrakeさんの2012年Minimizing Marriageを参照しつつ、同時に(斎藤 2017)に言及してもいます。これは、先ほども触れた、『セクシュアリティと法』に収められている論文です。そして、この(斎藤2017)への言及から推測されるのは、池田さんはこの斎藤さんの2017年の論文を通して「amatonormativity」という概念に出会ったのではないか、ということです。
 最後に、池田さんはMinimizing Marriageの5ページに出てくる「amatonormativity」の最初の使用例を紹介していますが、訳語の選択にかなり負荷が掛かっています。原文から引用しておくと、ここは「序文」の次の個所にあたります。

... "amatonormativityーthe focus on marital and amorous love relationship as special sites of value-..."(Brake 2012: 5)

ここは、maritalな(=結婚している)関係や、amorous loveな関係に特別に注目して、それに特別に価値をおく規範として「amatonormativity」を説明する箇所です。そしてこのとき「amorous love」という語は、わたしは「恋愛の愛情」のことを意味していると思います。同書では「amorous relation」ということで一貫して「恋愛関係」が指されていますし、「amatonormativity」を説明する他の個所では、「amorous(love)」という形容詞はしばしば「romantic (love)」に置き換えられていて、両者は同じ意味で使われているはずだからです。
 にもかかわらず、上の個所を池田さんはわざわざ「結婚しており性愛を伴う(marital and amorous)愛の関係」と訳しています。池田さんは「amorous」に「性愛を伴う」という訳語を当てていますが、本当にこの本をちゃんと読んだのでしょうか。それと同時に、この語を「性愛」系の日本語で訳すかなり強い動機を、池田さんははじめから持っていたのではないかと疑わざるを得ません。でないと、ふつう「amorous」を「性愛を伴う」という(おかしな)風に訳そうとは思わないだろうからです。
 わたしは、次のような疑いを持っています。池田さんは、(齊藤 2017)を通して「amatonormativity」という語に出会ったが、(齊藤 2017)がそれを「性愛規範」という言葉(ないし「性愛」に関わる言葉)で訳していたり、「性愛」に係る文脈で「amatonormativity」を紹介していたために、そこから後付けで「amorous」を「性愛を伴う」と訳すことにしたのではないか、という疑いです。
 わたしは、すでに過去のブログ記事の中で「amatonormativity」が「恋愛(amorous love, romantic love)」にかかわる概念であり、「性愛規範」と訳すのはそのポイントを逸している、ということを書きました。ですので、むしろ気になるのは、どうして池田さんが「amorous」にわざわざ「性愛を伴う」という強引な訳語をあてて、「sexualnormativity」を「性的欲求規範」という風に訳さざるを得なくなるリスクを冒してまで「amatonormativity」を「性愛規範」と訳したのか、ということです。
 わたしは、この訳語の選択の原因は(齊藤 2017)にあると考えています。池田さんのこの論文が収められた『クィアと法』(2019)は、(齊藤 2017)が収められた『セクシュアリティと法』(2017)の姉妹本であり、齊藤さんの説明を池田さんがそのまま鵜呑みにしたか、齊藤さんが選んだ訳語を池田さんが変えられなかったか、どちらかの事情があったのではないかと、疑っています。
 もちろん、これは単なる疑いにすぎません。もしこの疑念が誤りなら、わたしは単純に池田さんが「amatonormativity」の概念のポイントを理解していないし、Minimizing Marriageを読めていない(読んでいない)とだけ批判します。しかし、『最小の結婚』そのものの翻訳にまで「性愛規範」という訳語が使われてしまった原因として、齊藤さんの2017年の論文の存在は無視できないのではないかとわたしは考えています。そこで、次はこの論文を見ていきたいと思います。

4.齊藤笑美子さんの論文(2017年)について①

 この論文は、『セクシュアリティと法』(2017)の第5章に収められています。正式なタイトルは「カップルの特別扱いに合理性はあるか?」です。
 このタイトルから、そしてこの本が「法」の本であることから明らかなように、この論文では憲法や民法、家族法のなかで「カップル」だけが特別な保護や特権の対象として法的に規定されることの正当性が批判的に検討されます。序盤では同性婚の法制化を巡るフランスやアメリカ、日本の議論が参照され、どのようなカップルだけが「結婚」として法的に特別扱いされることになっているのか、が問われます。そして後半では、そもそも「カップル」だけを法的に特別扱いすることに合理性はあるのか、といったことが論じられます。
 この論文は4つの節でできており、順番に節のタイトルを書いておくと、「1.はじめに」、「2.同性婚の焦点」、「3.性愛標準性批判」、「4.おわりに」となっています。このうち3節のタイトルにある「性愛標準性」という見慣れない言葉こそ、後でみるように「amatonormativity」の日本語訳に他なりません。
 さて、この論文でなぜ齊藤さんが「amatonormativity」を「性愛標準性」と訳し(てしまっ)たのかを理解するためには、この論文の全体的な議論の流れを理解しておく必要があります。そこで以下では、この論文の大まかな流れを最初にご説明させてください。
 「1.はじめに」の最後で宣言されているように、この論文の目的は「婚姻とセクシュアリティの関係について、同性婚を出発点に自由に考えてみ」ることです(齊藤2017: 68)。1節の最終段落を、長いですが引用します。

まず、同性婚の可能性を問うことは、婚姻制度とセクシュアリティの関係を問うことにつながらう。「婚姻は子どもを産み育てる枠組みであるから自然生殖が不可能な同性カップルには認められない」と述べる場合はもちろん、「同性カップルも、愛し合うカップルであるのだから異性カップルを同じように婚姻が認められるべきである」という場合にも、婚姻にはセクシュアリティがともなうことが前提とされている。婚姻制度だけでなく婚姻外の共同生活を保護する他国のパートナーシップ制度も、たいてい、種々ある人間集団のうち、この「カップル」を特別にくくり出す。しかし、このように「カップル」に特別の含意を法律的に認めることは、根拠のあることなのか。この機会に一度この点を問い直してみたい。(齊藤2017: 68)

この文章は、一読してよくわからない文章です。というのも、ここでは、「婚姻」と「セクシュアリティ」と「カップル」の3つの概念が登場していますが、齊藤さんは「セクシュアリティ」による結合を無条件で「カップル」と同一視しているように見えるからです。齊藤さんは、その2つを同一視したうえで、その「セクシュアリティ=カップル」と「婚姻」に関係があるとすれば、そこでその「セクシュアリティ」は異性愛だけに限定されるのか、をまず問おうとしています。これが第2節の課題です。そして加えて、そうした「セクシュアリティ=カップル」だけが法的保護の対象となることに根拠があるのか、を第3節で問おうとしています。
 わたしの違和感の理由は、その「カップル」と「セクシュアリティ」の同一視です。つまり、ここで斎藤さんが「性愛」と「恋愛」を区別せず、「セクシュアリティ」という語にどちらも混ぜこぜにしている、という点です。わたしは、「カップル」というものが恋愛関係を指すなら、そこに性愛は不在でもふつうに成り立つと考えますが、「セクシュアリティ」という語をこのように「恋愛+性愛」のミックスで用いると、そうした事象が見えなくなります。そして、この混ぜこぜの状態こそが、齊藤さんが「Amatonormativity」を適切に理解できなかった理由ではないかとわたしは睨んでいます。
 さて、続く2節「同性婚の焦点」では、同性婚の合法化が求める「平等」とは何かが論じられます。まず、「婚姻」が法律によって特別に規定されていることには、二重の利益配分をそれにもたらします。まず、法律によって「婚姻」という関係にはその他の関係にはない正当性が付与されます。次に、そうした正当な=特別に承認された関係ゆえに、「婚姻」には種々の権利がともないます。それは例えば、保険に加入したり、財産を相続したり、ということです。
 こうした「法律婚」の正当性がどれくらい大きな意味を持つかとか、あるいはその「法律婚」だけに付随する権利にはどのようなものがあるか、というのは文化や国ごとに違っています。齊藤さんはアメリカ、フランス、日本の状況を、同性婚合法化のための政治運動や過去の判決、パートナーシップ制度との比較などを通じて、簡単に紹介してくださっていますが、詳細は省略します。いずれにせよ、同性婚の合法化を求める運動は、現在は異性婚だけにしか認められていない「正当性」と「諸権利」の2つを求めるものだということになるでしょう。同性カップルだけに正当性を認めないこと、同性カップルだけから権利をはく奪すること、そこに合理性はあるのか、という戦いになるわけです。
 しかし第2節の最後の段落で、齊藤さんは以上の論理に急ブレーキをかけるかのように、次のように言います。

 ところで、以上のような同性婚に託された課題の処理を行うことと、現行制度を不動の前提として特定の権利・利益をこのまま婚姻カップルのみに認め続けることは別の問題である。言い換えれば、特別のカテゴリーとしての婚姻を維持し続けるべきかという問いは、依然として応えられなければならないと意図して残っているのである。(齊藤2017: 71)

この問いに応えるのが、第3節の課題ということになります。

5.齊藤笑美子さんの論文(2017年)について②

 こうして始まる第3節「性愛標準性批判」では、婚姻のもつ正当性や権利そのものが疑問に付されます。齊藤さんは次のように言っています。

(…)同性婚が認められたとしても、依然として婚姻のカテゴリーに入れない人からしてみれば、自分たちが婚姻カップルに比して、不利に扱われる根拠が示されなければならないだろう。カップルのみを特別扱いするということは、性愛関係のみを特別にくくり出して特別に扱うことであるが、なぜそのようなことが許されるのか。(齊藤2017: 72)

注意すべきは、ここでも「カップル=性愛関係」という等式が繰り返されていることです。齊藤さんは、「セクシュアリティ」という言葉や「好き」という言葉、そして「性愛関係」という言葉は使いますが、「恋愛」やロマンティックに類する言葉をこの論文で決して使いません。結果として、この論文では「カップル」がいつも性愛によって特徴づけられることになります。
 第3節で最初に紹介される判例は、あるイギリスの姉妹のものです。その姉妹は、両親から相続した家に30年以上一緒に暮らしてきましたが、どちらか一方が死亡した場合、生き残った方が相続税を支払うためにはその家を売却しなければならないことが事前に分かっていました。そこで姉妹は、自分たち「同居きょうだい」の関係は、婚姻やシビル・パートナーシップ制度による「カップル」と同様に扱われるべきで、それらの制度に承認された「カップル」同じように相続税は免除されるべきだ、と裁判を起こしたのです。(齊藤2017: 72-73)
 しかしこの姉妹の訴えは、残念ながらヨーロッパ人権裁判所の大法廷で退けられてしまいました。大法廷は、姉妹のあいだには「契約的な性質の一連の権利・義務をもたらす公的な約束」が存在しないため、婚姻やパートナーシップ制度とは根本的に異なっている、と無下にも判決したのです。
 この判例を入り口にしつつ、齊藤さんは次の2つの問いを立てます。1つ目は、「法は、いかなる根拠で人々の関係をカテゴライズし、権利を付与したり義務を課したりすべきなのかという実質的問題」です。2つ目は、「何に基づいて上記根拠を認定するのかという形式的問題」です。
 この2つの問いのうち、今回のブログ記事にとって重要なのは1つ目の問いです。齊藤さんは、「カップル」だけを特別に法的に承認する(ありそうな)根拠として、はじめに生殖可能性を挙げますが、これは同性婚の合法化・パートナーシップ制度化の過程ですでに疑問符がついている、とします。同性婚合法化の訴えは、(自然な?)生殖可能性がないからといって同性カップルに法的結婚を禁じるのは合理性がない、としてきたのですから。
 つづいて齊藤さんは、「カップル」だけが特別扱いされる(ありそうな)根拠として、「排他的な性愛関係が想定できること」を挙げます。「カップル」と、友情関係などのあいだの「複数自然人」の関係に違いをつけようとすれば、そこに「排他的な性愛関係が想定できる」か否かがその根拠になるのかもしれない、というのです(齊藤2017: 73)。※もちろんこれは齊藤先生自身の主張ではなく、「カップル」を特別扱いしたいと考える人たちが引き合いに出しそうな、ありそうな根拠、にすぎません。
 
もちろん、「婚姻は、性的関係がなくとも当事者が問題にしない限りは、現実的には成立・継続」(齊藤2017: 74)します。しかし齊藤さんによれば、法学の世界で認められている「婚姻の実質的意思説」では、婚姻の成立条件に「社会通念上夫婦と認められる関係を形成する意思」が求められており、なおかつその「社会通念」には「夫婦に性的関係があること」が想定されている、とのことです。どうやら、法律婚夫婦には「貞操義務」が課されており、「不貞行為」は損害賠償の原因にもなる、というのが「社会通念」を踏まえた法学の世界での考え方だ、ということです。ようするに、結婚している2人のあいだには、他の関係にはない「排他的性愛関係」があるはずで、その「排他性」を破って性行為をすることは「婚姻」の社会通念に反する、ということです。ここで、もともとの齊藤さんの問題に帰るなら、このように「排他的な性愛関係」が存在しているということが「カップル(≒婚姻)」をその他の(友情やきょうだい関係などの)関係から区別する、特別な根拠になる、と考えられているらしいのです。
 以上の説明を経て、その直後の段落で齊藤さんは次のように言います。

ブレイクは、こうしたカップル主義を、異性愛標準性(heteronormativity)にならって性愛標準性(amatonormativity)と名付け、その差別性を問うている(Brake 2012: 88-107)。 (齊藤 2017: 74)

ようやく出てきました。Amatonormativity。なお、齊藤さんがレファレンスしている(Brake 2012: 88-107)は、BrakeさんのMinimizing Marriage の第4章全体です。ちなみに、第4章のタイトルは「Special Treatment for Lovers: Marriage, Care, and Amatonormativity」で、ここはMinimizing Marriage のなかで最も詳しく「Amatonormativity」概念が説明されるところです。
 さて、このように齊藤さんは「Amatonormativity」を「セックス」との関係で理解しています。「カップル」が特別視される根拠として「排他的な性愛関係があること」を挙げて、そうした「排他的セックス」がなされているという理由で、「カップル」をそれ以外の関係から特別に区別しようとする、そういった「差別性」をはらんだ規範・常識として「Amatonormativity」概念を理解しているのです。ものすごく簡単に言えば、「排他的セックスをしている関係だけに特別に価値を置く規範」として「Amatonormativity」を理解しているのです。そして、今や明らかなことですが、このような「Amatonormativity」理解に立って、齊藤さんはこれを「性愛標準性」と訳しているのです。
 さて、これまで長い紙幅を使って、齊藤さんの2017年の論文が、どのような議論をしていて、そのなかでどのように「Amatonormativity」が紹介されたのか。かなり丁寧にみてきました。齊藤さんはこの概念を「排他的セックスを特別に価値づける規範」として理解しており、だから「性愛標準性」という風にそれを訳したのです。
 しかし、もう何度も書いてきたことですが、「Amatonormativity」概念の中心軸は「性愛」ではなく「恋愛」にあります。つまり、結論から言えば齊藤さんは「Amatonormativity」概念を正しく理解しておらず、おそらくMinimizing Marriageを正しく理解していません。
 この誤解の原因は、齊藤さんが「セクシュアリティ」と「カップル」を同一視して、「恋愛」と「性愛」をきちんと区別しないまま議論をしている点にあると考えられます。「セクシュアリティ」と「恋愛・romanticism」をきちんと区別できないと、「Amatonormativity」が「恋愛」に関係する概念であることは、きちんと見えてこないのです。

6.「Amatonormativity」は性愛の問題ではない

 
 さて、このブログ記事の最後では、すでに以前の記事で書いたことと重複する面もありますが、「Amatonormativity」が「恋愛」に関わる概念だということを完全にはっきりさせておきたいと思います。そして、すでに見てきた池田さんと齊藤さんが「Amatonormativity」を理解していないということを、より完全にはっきりさせておきたいと思います。
 「Amatonormativity」概念を発明した張本人であるブレークさんは、自身のホームページ上での「Amatonormativity」のページで、Minimizing Marriage の88‐89ページの部分をコピペして紹介しています。つまり、これはブレークさん自身がお墨付きを与える「Amatonormativity」の説明であるということになります。それは、以下の文章です。

The belief that marriage and companionate romantic love have special value leads to overlooking the value of other caring relationships. I call this disproportionate focus on marital and amorous love relationships as special sites of value, and the assumption that romantic love is a universal goal, ‘amatonormativity’: This consists in the assumptions that a central, exclusive, amorous relationship is normal for humans, in that it is a universally shared goal, and that such a relationship is normative, in that it should be aimed at in preference to other relationship types. The assumption that valuable relationships must be marital or amorous devalues friendships and other caring relationships, as recent manifestos by urban tribalists, quirkyalones, polyamorists, and asexuals have insisted. Amatonormativity prompts the sacrifice of other relationships to romantic love and marriage and relegates friendship and solitudinousness to cultural invisibility.  (Minimizing Marriage, p.88-89)
※「amorous」と「romantic」に関わる単語を強調したのはわたし(夜のそら)です。

この説明では、明らかに「恋愛」を軸にして「Amatonormativity」を説明しています。そして、引用した部分の1文目の「marriage and companionate romantic love」が2文目で「marital and amorous love relationships」と言い換えられていることから明らかなように、ブレークさんは「amorous」という単語を「romantic / romantic love」と同じ意味で用いています。これは、池田さんの2019年の論文で「amorous」が「性愛を伴う」と訳されていたことが誤訳であることの根拠にもなると思います。(こういう例を挙げたらきりがないですが)
 ちなみに、上の英語の文章をわたし(夜のそら)が訳したものが以下になります。「Amatonormativity」はそのまま訳さずにおいておきます。

結婚や、伴侶になるような恋愛の愛(marriage and companionate romantic love)には特別な価値がある」という考え方は、他のケアの関係性の価値を見落とすことに繋がっている。わたしは、結婚や恋愛的な愛の関係(marital and amorous love relationship)に対して、特別な価値を持つものとしてこのように不均衡に焦点を当てること、そして「恋愛的な愛(romantic love)こそが普遍的な目標になるのだ」という想定のことを、「amatonormativity」と呼ぶ。こうした想定は、「〔誰か一人に〕注視する、排他的で恋愛的な関係性こそが人間にとっては正常(normal)なのだ」とか、「そうした関係性こそが〔みんなに〕共有された目標なのだ」とか、「そうした関係性は規範的だ」とか、「そうした関係こそが、他の関係性のタイプよりも優先して目指されるべきなのだ」とか、そういった想定によって成り立っている。「価値ある関係性は、結婚や恋愛的なものでなければならない」というこうした想定は、友情や、その他のケアをする関係性の価値を貶める。このことは、最近であればアーバン・トライブやクァーキーアローン、ポリアモリー、またAセクシュアルの人々が主張してきた通りである。Amatonormativityは、恋愛的な愛や結婚の為に、その他の関係性を犠牲にすることを推し進める。そして amatonormativity は、友情や、一人で過ごすこと(solitudinousness)を文化的に見えないところに追いやっていくのである。(Minimizing Marriage, p.88-89.)

以上の説明で言われているのは、「排他的セックスがあるかどうか」という話ではありません。そこに「恋愛関係」があるかどうかということが、婚姻や「カップル」を、その他の友情やケア関係から特別に区別する基準になってしまっている、という規範のことをブレークさんは「Amatonormativity」と呼んでいます。大切なのは、「性愛=セックス」ではなく「恋愛」の存在なのです。
 せっかくなので、もう一か所決定的な箇所を引用しておきます。もう、これで本当に終わりです。

Amatonormativity wrongly privileges the central, dynamic, exclusive, enduring amorous relationship associated with, but not limited to, marriage. By "central," I mean the relationship is prioritized by the partners over other relationships and projects. Such relationships tend to be characterized by sexual exclusivity, domesticity, and shared property, but need not be: Couples who maintain an enduring amorous relationship but refrain from sex, maintain separate domiciles, or keep their property disentangled, can still be recognized as amorous partners. Conversely, two friends who have sex, live together, or shared property would not be privileged by amatonormativity if friends did not present themselves as romantic partners. (Minimizing Marriage, p.90)※単語に強調をしたのはわたし(夜のそら)です。

訳すとこうなります。

Amatonormativityは、〔お互いに〕注力する、精力的で、排他的で、長続きする恋愛関係(amorous relationship)に不正にも特権を与える。こういった関係は、結婚に結び付いているものだが、とはいえ結婚だけに限定されるものでもない。「注力する」ということで私が意味しているのは、その関係がその他の関係性や先々の計画(projects)よりもパートナーたちによって優先される、ということである。そうした関係は、性的な排他性(sexual exclusivity)や、同居状態(domesticity)、共有の財産などによって特徴づけられる傾向にあるが、必ずしもそういったものである必要はない。セックスをしないカップル。住居を分け続けるカップル。財産を別々にしたままのカップル。そういったカップルであっても、長続きする恋愛関係(enduring amorous relationship)を維持しているのであれば、なおそうしたカップルたちは恋愛のパートナー(amorous partners)として認識されうる。それとは逆に、二人の友達同士がいて、セックスをしていたり、一緒に住んでいたり、財産を共有していたりしても、その友人同士が自分たちを恋愛のパートナー(romantic partners)として提示しないのであれば、その友人たちが amatonormativity によって特権を得ることはないだろう。

Amatonormativity は「恋愛関係」に特権を与えるものです。その「恋愛関係」には、排他的なセックスが存在することもありますが、排他的セックスがそこにある必要はない、とブレークさんははっきりと書いています。(ちなみにここでも「amorous」は「romantic」と同じ意味で使われています)つまり、齊藤さんが「排他的セックスに特権を与える規範」として「Amatonormativity」を理解していたのは、完全に誤り、ということになります。排他的なセックスをする友人関係――それを「セフレ」と呼んでもよいでしょう――だからといって、そこに恋愛関係がないのならば、「Amatonormativity」による特権を得ることはないだろう、とブレークさんはここでわざわざ書いている通りです。(※レファレンスを第4章全体にしていたことから見ても、齊藤さんはおそらくMinimizing Marriage の中身をそもそも読んでいないと思います。)
 そろそろしつこいかもしれませんが、上の引用でも「Amatonormativity」は「恋愛関係」を特権化するものとして説明されています。排他的にセックスする関係だとしても、一緒に住んでいるとしても、二人が「恋愛のパートナー」でないのなら、それが「Amatonormativity」による特権を受けることはない、とされているのです。

7.終わりに

 わたしのこの不毛な記事も、もう終わりです。わたしは、日本語圏で「Amatonormativity」が学術領域で使われているケースを調査して、2つの論文を特定しました。
 2019年の池田さんの論文は、おそらく齊藤さんの2017年の論文から影響を受けていると思われますが、「Amatonormativity」概念を「性愛規範性」と訳していました。池田さんの「amorous」に関する解釈などを見る限り、池田さんはこの概念の意味を理解していません。
 2017年の齊藤さんの論文では、「Amatonormativity」が完全に間違った文脈で紹介されてしまっています。齊藤さんは、ブレークさんが明確に否定しているような状況を特徴づける概念として「Amatonormativity」を理解してしまっており、そのせいで「性愛標準性」という不適切な訳語をチョイスしてしまっています。
 そして、2019年。白澤社から『最小の結婚』が出版されました。しかしそこで、「Amatonormativity」は「性愛規範性」と訳されてしまいました。翻訳をしてくださった研究者たちが、2017年の齊藤さん、2019年の池田さんの論文を読んでいたかどうかは、真実は分かりません。しかし、ふつうにMinimizing Marriageを読めば絶対に選択されないはずの「性愛規範性」という日本語が選ばれてしまったのには、それらの論文の影響があったのではないかと、疑わざるを得ません。もちろん、その影響があったのとしても、不適切な訳語を選択していると思わざるを得ないので、翻訳者の方たちには責任があると考えています。訳してくださった研究者の方たちには心から感謝していますが、この訳語の選択については本当に残念で仕方ありません。

 先ほど大量にMinimizing Marriageから引用して説明したように、「Amatonormativity」は「性愛」ではなく「恋愛」に関わる概念です。ですから、これを「性愛規範性」と訳すのは、はっきりと誤訳だと言えます。もう、2度とこのような不適切な訳語が使われないでほしいと願います。
 そして、もし日本語にするなら、「恋愛伴侶規範」が現段階でのわたしの中でのベストな訳語です。「amato-」はラテン語で「愛されている人」という意味であり、このときの「愛されている」のはもちろん恋愛の意味です。そして「Amatonormativity」は一過性の恋愛ではなく半永久的なパートナー関係を想定していますので、「伴侶」という(ちょっと古風な)日本語が適切かな、と考えました。(さっき引用した箇所でも、「marriage and companionate romantic love」という言葉が出てきていましたが、この「companionate」に注目です)
 この「恋愛伴侶規範」よりも適当な日本語訳は、もしかしたら他にもあるかもしれません。しかし、これだけは言えます。「性愛規範性」や「性愛標準性」は、明らかに不適切です。

 これで、「性愛規範性」という訳語のお葬式は終わりです。

 そして、ようやく私たちは「Amatonormativity」を日本語に迎え入れることができます。「恋愛伴侶規範」。この言葉で社会の悪さと向き合うための闘いを、改めて始めましょう。私たち、Aロマ(とAセク)の手で。