コロナで終活を考えてみた。

くりえいとです。こんにちは。

今の生活も最終的には死に向かっています。終活というと老人向けのイメージがありますが、そうではなく、誰にでも関係のあることです。

死後を考えられるのは余裕のある人というのも事実です。死んだあとのことを考えられるように、余裕のある人生を送れるようにすることも大事です。人は生きたように死にます。死をこうしたい、と考えることは、どう生きたいかに関わってきます。死に至るまでの過程をどうするかを考えることも終活です。

老人だらけ、今

わたしは思い起こせば中学時代は深夜放送ラジオを聞いてた。「ヤングオーオー(abc)」ほか、ヤング真っ盛り文化の1970年代の終わり。ヤングが時代の中心で、世の中は伸び盛りだった。いまは高齢化がはなはだしい。各地のニュータウンという団地には65歳以上の老人が3割4割。北海道では5割。シルバーが今の中心になった。

風景、2020年大阪吹田

公団が団地を壊し建て替えしている。古い団地は廃墟のようで、1軒ごとにチラシ配りで回ったが、住人は老人ばかりだった。子供はいなかった。団地に張り紙があり、物故者の報告だった。高野台の豪邸もほとんどが老人世帯。

風景、2021年徳島阿南。1

至近距離にある幼稚園が子供ゼロ。園舎はまだ新しい。夕方、学童預かりに活用しているだけで、地域ではもう子供の育成ができない。小学校も統合されゆくだろう。全国各地で子供の消滅がおきている。高齢者は支えられる手がなくなり、施設にもあぶれたなら独りで生きていくしかない。

風景、2021年徳島阿南。2

出会う人が基本、自分より年上。仕事の声をかけてもらったりよくしてくれるが、70歳前後のメンバーが推進力の中心であることを事実として受け止めている。我が家は親が80代。朝市も中心が80代。この層がほぼ全枠接種済み。自分の人間関係ですら、ほぼ終活最前線なんだな。。。

2021年、俺

60歳あたりから疲れが残り体力が落ちた。それもあって2021年初夏に阿南に転居した。草刈り後や長距離運転後疲れて、腰痛でのろのろ立ち上がったり歩いたりではこれから思いやられる。実際、農業で体を駆使できるのは70ぐらいまでではないだろうか。そこからは樹木伐採など危険作業はもうできまい。残りは10年という計算だ。

おれは子供が巣立っていって、家族は大阪に残し、単身での農業帰郷だから、10年の中身はどうしたものかと考えてみる。ひょんな出会いからいま地域まちおこし事業をてつだうようになった。そのあいまに農業をするスタイルだ。

10年といえば、自動車や草刈り機をみながら「まだ10年は持つよな」なんて思ったりする。しかしもう新品が何台もあっても使いきれないだろう。おれは毎年毎回草を刈り刈りして老いていくのだろうか。この無限のような四季草刈りループなんてものを考えるとうんざりする。

いまの暮らしがあるという前提の草刈りループは、出会った先輩たち、地区有力者など、10年先までも元気で現役という前提でもある。

しかし、いつ先輩たちのXデーがくるかわからない。

先輩たちのXデー、それは頃枠Xデーだ

いま、頃枠という変数で世の推移を語らないといけなくなった。今までのように長生きができたらいいねが通用しない。ツイッタで語られてる頃枠Xデーはよくて数年。ブースターで加速、となれば2022年中なのかな。そうであれば、人間互助関係の仕事は崩壊するね。仕事のつながりが切れてしまうからね。だから通常の終活でなく、頃枠に対応した終活が必要になるね。

頃枠Xデーで何が変わる?

基本はサービス業はもう運営できないだろう。宅配が翌日届くという過剰なサービスはできなくなる。最終、行政分野は統治形態を維持するために市役所などは存続するだろうが、質は維持できるかわからない。議員定数も補欠選挙でおぎなうんだろうね。

多死社会への移行

いまゆっくり死者増加のペースで進んでいるね。この増加が10万人/年、20万人/年、純増するんだろう。あるとき100万人/年、200万人/年純増するともうパニックだ。そのとき終活どころではなくなり、次は自分という恐怖による混沌になる。

さらに、経済破綻のリスクは恐慌Xデーとして頃枠多死社会に付加されるんだ。どっちかじゃなくてどっちもなんだ。それに大地震Xデーも付加される。

この複合リスクのなかで、さらに地方過疎社会で、さらに若年人間関係がないなかで、62歳から先の10年を終活していくわけだ。

悲惨な時代

日月神示が「生き残ったほうがつらい境遇になる」といったけれど、どうやら、頃枠パスポートはまだましなのかもと思ったりする。苦しまずポックリ心筋炎で死ねるから、安楽死パスポートといえるし。皮肉だけどな。

反枠者たちは生き残る大前提で、「枠打つな」というが、彼らはべつだん終活をかんがえてるふうではない。これから起きる社会の大変動を考慮すれば、生き抜くことがいかに困難で苦しいか。生き残るリスクをよく考えないといけない。それは終活そのものなんだけどね。

少数が残る社会では、相互扶助が成立せずコミュニティも破壊され、生き抜く質だとか、生き抜くこころの拠り所なんてものがまったく考慮されていない。みんなそれでいいのかな?

生き残れたとしても、生存孤立は、ほんとうにまずいと焦りさえ感じる。それでは、生き残れたことにはならない。生きるとは何か?その本質がこれから求められる。枠珍うんぬんでけりが着くはなしではない。

でもおれ最後は孤独死するだろう

そうおもっている。みんな先立っていき、社会の機能も最低限に落ち、監視される社会ならば、反パスで抵抗するも独居老人ならまともな生活品質は得られまい。そこで指標となるのは鴨長明の京都山間部庵生活だ。鴨長明が孤立無援で庵生活をいとなんで、世を去っていったとしたら、10年先の終活は鴨長明みたいでありたい。

それまでになにをするかというと、せめて、生存者のネットワークを再生する係。生存者をつなぎ、相互扶助コミュニティを再生しなければならない。そこに若者がいれば老人は託して死ねる。

さて、肉体生存より大事な生存について

もちろん心の拠り所をみいだすことが大事だ。それはなにかというと、自然界の理法だとおもう。自然界に還るわけだ。で、生き残った人が自然界の理法を理解していればすごく話が早い。仮にそうでなくても自らは心の拠り所をもって暮らしたい。

自然界の理法とは、言い換えれば「神霊」の理法でもある。その循環や因果の様相は、「神霊」の企画設計にもとづく。だから、--「神霊」とともに在る--というような心持ちが、心の拠り所になるんだとおもう。それ以外ではとても生きられないだろう。

空海・弘法大師と四国遍路を歩くわけだが、衣装に「同行二人」とかいてある。自分と弘法大師さんの霊がともに巡礼しているというわけだが、そのとおりだ。--「神霊」とともに在る--から、昔の歩き遍路の苦難を乗り越えていけた。

孤独な蟄居生活なんて無理だ。みんなはそういう。まあたしかに今の過疎地は孤独で寂しい。でも--「神霊」とともに在る--なら孤独ではないのでは?鴨長明も--「神霊」とともに在った--から寂しくなく生きれたのでは?

四苦八苦も、これを打破するなんてとても無理。なら、私が--「神霊」とともに在る--としたら、その感謝があれば、四苦八苦も幻想と化すのでは?四苦八苦がホログラムだとか、マトリックスだといわれても全然解消しないけど、--「神霊」とともに在る--ならどうか?

私が「神霊」そのもの

私が--「神霊」とともに在る--だけにとどまらず、さらにぶっ飛んで、私が--「神霊」そのものでも在る--としたらどうか?

広島原爆破裂の真下で「これは現実じゃない」と宣言し原爆症からも無縁だった聖人がいたが、みんなが誰でもが-「神霊」そのものでも在る--ならば、どうなるだろうか?

いまから10年の歳月で私が--「神霊」そのもので在る--を悟るための内観ができるとそれが終活かもしれない。

はい、自分の中に自分を超えた何か、つまり、内なるキリストがあり、たぶん、自分にとっての救い主はそれなんですね。

内なる神との出会い---そして結婚(一体化)。という終活。いいんじゃない?

なんか「神といっしょ」、ってやすらぎがあるんじゃない???

参考 カタカムナが、あなたを救う。

2021.12.06 くりえいと

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