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格安ランチを止めた理由

私の好きな訓話のひとつに「君子固より窮す。小人窮すれば斯に濫る」というものがある。儒教の先生である孔子の一団が遊説の最中、飢えに飢えた際に高弟が先生である孔子に向けて発した不満の言葉に対する返答説諭である。
私は幸運にも言語に絶する程に飢えたことがない果報者であるから、この時の発言者にあたる子路の気持ちをまことに理解することは出来ようはずがないけれど、辛いときに恨み節を言う子路のような人とじっと堪えて言わない孔子のような人とでは、やはり人格の練り方及び高さが違うように思える。

と、それで話を終わればいいところではあるが、もう少しだけ話すと――当時の旅行のしきたりにおいて、流民でもない限りはその団を率いる長者は同行者に対してその食を保証することはしなかった(出来なかった)はずで、また当時の孔子は無位無官だったろうから、余計にそうであったに違いない。そして、尊貴というものを装飾発信することを得意とした礼教集団である孔子の一団だから、平等意識などはそれこそ教義に反するためにもとより持っていなかったに違いなく、要は集団の長である孔子と末端の弟子の飢えは、恐らく同列ではなかったと思う。
そういう観点からすれば、孔子にはいささかの余裕があり、弟子たちにはなかった故なのだろうと思えるが、多くの弟子及び師父である孔子の言行録からみる関係性を考えれば、孔子がそのような事態に直面した際に礼を盾に食の独占を行っただろうとは無論思えないし、そのようなことをおこなう匹夫如きは数千年もの間中国の精神世界において君臨することは出来ないだろうから、そう考察したとしても孔子の品格はいささかも卑小になることはない。ただ、そのような環境にあっても敢えて声をあげた子路の精神こそもっと研究してもいい題材に思えるが、表題にはあまり関係がないから、この話はいったん棚にでもしまっておこうと思う。

さて、私はここでいう濫れた小人が、とにかく嫌いである。
ときには自分自身が窮して濫れてしまうこともあるが、やはりそういうときは同じように深い嫌悪感に陥る。
通常、特に交友があるわけでもない限り、一時の往来相手が窮しているの
かどうかは、そう判別がつかない。互いの自己紹介で窮しているか否かを最初に確認しあうなら別だが、そのようなコミュニケーションは非現実的であるし、濫れた姿というものはその礼の作法で以て原則人には見せることがないから、適っている程わかりづらくなっている。

ただ、思いもよらず濫色を露わにしてしまうことは、ないとはいえない。
梅田の地下街で飲食しているときに津波警報が鳴れば濫れてしまうだろうし、こうしてスクリーンに集中して文章を書いているときに天井から蜈蚣が降下ってくれば変な声も出るだろう。
雨の日にやけに速度を出している車に水を跳ねられても唾を吐きかけたくなるし、積載率をこえた満員電車のなか殿上人のようにでかでかと足をあけ広げて座り寛ぐ人間なども、見るだけで頭に血がのぼって目眩がする思いは、程度の差はあれ共感を得られるのではないだろうか。

何が言いたいのかというと、私たちの多くは君子ではないのだから、濫れることは仕方がないということなのだ。問題は、濫れるという感情のショートをいつまで続けるのか、ということなのだ。
ショートすると身体は高熱になるものだが、通常人間はその高熱にながく耐えられないがために、平熱に戻ろうとするのが性だ。
つねに怒っている人がいないように、それが一般的であり、普通である。

私は小人であるがために、濫れることも多々あるから、濫れた人に対してそこそこには寛容であると自負している。グラスを割ろうが、飲み物を溢そうが、物を毀損しようが、悪口を吐こうが、許容できる自信が私にはある。
が、それは相手がその濫れを即座に取り繕った場合に限る。
「ごめん」「失礼」「申し訳ない」という自身の浅慮を認めた上で、その場をおさめるための自信が考える最高の仕草を呈してはじめて――良好になるかは確信がないにせよ物事は先に進むのだと私は考えている。
そうしてもらえてはじめて、私としても不安定なグラスで供してしまったことについてお詫びをいったり、経年劣化ですでに傷んでいたのだろうと物本来に責任を転嫁したりなど、安心をお返しすることができる。
多くの人の場合、超常的なゆとりをもつ聖人でもない限りは私と同じだろう。

何事も、謝らなければ話がすすまない。
ただ、残念なことに早ければ幼児でさえ学んでいるであろうこの世の理法を、なぜか行わない成人がこの世には存在する。
弊店に、数百万もする商品を不用意に触り、落として毀損した者がいた。
だが、ひとまずは、そこまではいいとしよう。
然しながら、繰り言ながら一番肝心な謝罪の言葉を、まったく発することなく携帯を触り始め「店内の備品を壊しても弁済しないでよい」という検索結果がのった画面を私に見せるという、到底私には思いもよらない行動をとるような人間に、私は今までケースとして出会ったことがないから、当時の心境は言明するのが難しい。
私は液体が入っている物がなにかの拍子でその中身が飛び出したときにサービスマンがテンプレートとして言うセリフ「衣装の汚れを確認する」と「破片を触らせない」という二大文句は意識せずとも勝手に口から出るようになっているために間違いなく、必ず言っている。
ただ、もしかすると相手にとって私のその物言いや態度が「糾弾」されているように感じたのかもしれなかった。というか、そうとしか思えない返しであったために、自分を納得させるためには、そう考える他ないのだが。

まあ、何にしても私の経験値でははかれない常軌を逸したなにかがその割れた商品のアルコール臭とともに、その時店内に充満していたのは確かで、
私はその独特の不快感が前述したようにたいそう苦手なために、千差万別にそのような体臭を纏う人が入って来るだろう空気感を演出する格安な営業を、やめようと思ってランチを止めたのだという話を書いている。

おかげさまでランチの経営は赤字になってしまって半年間の経営利益は、すべて空気中に揮発して消えたという奇妙な話になったが、実のところ空気中に消えたと思われるその微小な成分たちは、この記事を書くという機会も含めて、過程で得た経験に結びついて私の体内に入り込んでいる。

物事は、なにに繋がり昇華するかは、全くわからない。
せめて、その過程を楽しむために、感情のショートは出来るだけ短くしたいものだが。


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