竜の爪あと その3

  3

 竜は身を休めたまま動く様子はなく、その間に一行は城塞へと近づいて行った。
「行くのはいいが、勇敢と無謀には俺はしっかりと区別をつけたい。無理だと感じたところで遠慮なく臆病風に吹かれさせてもらうぞ」
 ベオナードがそう念押ししたが、果たしていざという時にそううまく逃げおおせられたものかどうか。
 さすがに全員で乗り込んでいくのは危険と判断し、部隊の大半を周辺に待機させ、ルーファスとベオナード、アドニスとわずかな随伴でもって城砦に近づいていく。
 朽ちた建屋を一人ずつ慎重に潜っていく。頭上を振り仰げば、昼間は照りつける太陽があったが、今は夜闇の中にぼんやりと竜の翼の影が視界に入ってくるのだった。
 間近に迫る異形に、兵士の誰しもが息を飲んだ。
 建屋の屋上までは石積みの階段があり、足を忍ばせて登っていく。竜の姿はさらにその上、物見台の上にあり、まるではしごのような木製の細い階段をまずはベオナードが先頭に立って登っていくのだった。
 頭だけを覗かせて、正騎士はそろりと様子を窺う。
 果たして、そこに竜の姿はあった。
 空を横切る姿は目撃した。この物見の塔の上で翼を休める姿を見て、そこにいると知った上で敢えてここにやってきた。
 その上で、そっと覗き込んだ眼前に実際に竜がうずくまっているのを見て、落ち着き払ってはいられなかった。
 無論、真っ先に首を出したからには冷静に観察することを忘れるわけにもいかない。竜がどのくらい警戒心のある生き物なのかは定かではないが、少なくとも今は翼を休め、呼吸でわずかばかり身体を上下させている他は、身動きするそぶりもなくじっとしていた。
 少なくとも捕まえてきた生き物なり人間なりにむしゃむしゃと食らいついている現場を押さえたわけではなさそうだった。
 ならば、どうすべきか? ベオナードは一瞬の逡巡ののち、意を決して身を乗り出した。
 梯子を登り切って、両足が物見台の床を踏みしめたところで、一度は竜の様子を窺う。耳ざとく床板の軋みを聞きつけて首をもたげるわけでもなく、竜は眠ったままのようだった。
 ベオナードがとって喰われなかったのを見て、部下の兵卒が上官一人を危機に晒すわけにはいかないと慌てて後に続く。正騎士の無事を正しく確かめたのちに近衛騎士が後に続き、最後にようやくアドニスがおそるおそる階段を登ってきた。
「大丈夫なの……?」
 物音を立ててはいけないと思いつつ、やはり不安がそのように口走らせる。一番慎重なはずの魔道士が迂闊につぶやきを洩らしたのを誰も咎め立てなかったのは、やはり皆感じている不安は同じだったせいだろうか。
 その時だった。息をひそめて様子をうかがう一団の前に、暗がりから――竜の背後の辺りから、つかつかと一人の男がこちらに向かって進み出て来るのが見えた。
 アドニスは思わず目を見張った。
「オルガノフ……!」
 それまで気配すら察することの出来なかった人影の出現に、近衛騎士も正騎士たちも色めき立ったが、何よりアドニスが口走ったその名前が、その場に冷や水を浴びせたような緊張をもたらした。
 そう、それはまさに、行方不明となっていたはずの魔法使いその人だった。
「安心するといい。竜は眠っている」
 年の頃は三十半ば、南方風の浅黒い肌に目鼻立ちのくっきりした顔立ちの男だった。すらりと長身で細身だが肩幅はがっしりとしており、学徒風情とは侮れぬ凛とした佇まいを見せていた。
 オルガノフは傍らの竜の脚をそっとなでるようにしながら、こちらに歩み寄ってくる。
「やはりアドニス、君だったか。誰かが万が一にも私を探しに来るのだとすると、君ではないかと思っていた」
 魔導士に語りかける言葉のようではあったが、その目は竜の方を向いたまま、誰に語るでもない空疎な芝居の台詞めいた口上に聞こえた。
 そんな、あさっての方を向いたオルガノフの様子を窺うように、アドニスは我知らず一歩、二歩と彼に歩み寄っていく。
 そのアドニスの身の安全を案じて、ベオナードが後に続き、ルーファスもまた苦虫を噛んだように進み出る。
 アドニスが問いかける。
「本当に竜を見つけるなんて」
「むしろ私の方が竜に見つけられたというべきか」
「危険なの?」
「今は眠っているから安全だ。だがこの存在そのものが君らに味方するものかと言えば、そうではない。そういう意味では、確かに危険な存在だ。……あるいは、私にとっても」
 うっそりと呟くように言った魔法使いに、正騎士が意を決して問いかけを放つ。
「オルガノフ殿。挨拶も早々にお尋ねするが、貴公は竜を手なづけてしまったのか?」
「あるいはそう出来れば、という思いから接近を試みたが、私の方が竜に引き込まれてしまった」
 オルガノフはそういうと、そこで初めて、一行の方へと向き直った。
「竜を支配しているのは怒りだ。まだ若い竜だ、有り余る魔力を秘めてはいるが、何故そのような力を持たされているのかが分からない、そんな苛立ちを抱えているのだ。あるいはこの私がその怒りを鎮める事が出来ればと思ったが、逆に取り込まれ、私の魔導のわざもまたこの竜の怒りの発露の手段に成り下がってしまったよ。……本当に気をつけた方がいい。出来うる事なら気づかれる前にこの場から逃げ去った方がいい」
 オルガノフの言葉に誰も返事を返せなかった。魔法使いの言葉自体が、真摯な警句というよりはまるで仰々しい芝居の長台詞のように空疎な響きに聞こえた。
 そのオルガノフがしかと見据えていたのは、やはりアドニスであった。彼女は助けを求めるようにベオナードを、そしてルーファスを見やるが、二人にしてもアドニスの挙動を固唾を呑んで見守るばかりだった。
 やがて……オルガノフがそれこそ舞台上の役者のように天を仰いで両手を広げると、それに呼応するかのように、彼の背後にいた竜がゆっくりと首を持ち上げるのだった。
 その場にいる誰しもが――オルガノフを除く全員が、はっと息をのんだ。
「……逃げて!」
 アドニスが短く叫ぶ。ベオナードとルーファスはそれを受け、それぞれに配下の兵士に退却を指示するが、明らかに竜の動きの方が早かった。竜は大きく身を乗り出し、前足を伸ばす。逃げ遅れた兵士の一人が無残にもその下敷きとなった。
 オルガノフの恍惚とした陶酔の表情の向こうに、アドニスは憤怒に荒れ狂う獣の眼を見た。彼女はただ恐れおののき、後ずさる事しか出来ずにいた。
 その竜の、大きく開かれた口腔から炎が吹き荒れるに至って、士官である無しを問わず、探索隊の一同は総崩れになって闇雲に逃げて行くのだった。この世の終わりのような大音声の咆哮が響き渡ると、建屋そのものがぶるぶると震え、人々は恐れのみならず足をすくませざるを得なかった。その背後には炎が迫り、ある者は這うように逃れ、ある者は慌てて階段を転げ落ち、そしてある者は運悪くも灼熱に焼かれて消し炭になっていくのだった。
 這々の体、とはまさにこの事だ。騎士としての矜持も兵士としての責務も関係なく、ただおのれが生き残りたいがために人々は走った。
 それでも騎士ベオナードは他人をかばう余裕こそ無かったものの、自分よりも遅れを取っている部下がいないかと、周囲をぐるり仰ぎ見る機会が一度ならずはあった。アドニスが立ち止まって竜を……あるいはオルガノフを振り返ろうとしたのが見えて、ベオナードは強引に肘をつかんで思いとどまらせる。そんな彼らの背後すぐ近くまで灼熱の火炎が迫っているのが見えて、ベオナードはアドニスをおのが腕に庇いながら転げるように地面に伏せた。
「……ッ!」
 その拍子にどこかぶつけでもしたのかアドニスが呻きをもらしたが、ベオナードはおかまいなしに彼女を階段の窪みに向かって突き飛ばした。そうやって二人がもつれるように階下へと転げ落ちたのが、敗走する隊列の最後尾だった。
 さすがにはしご同然の階段を真っ逆さまに転げ落ちてはひとたまりもない。アドニスは反射的に腕を伸ばし、踏板を掴もうとする。手が滑ってその場にとどまる事は出来なかったが、直接階下の石畳に頭から激突するのは回避出来た。床にごろりと転がったアドニスが上体を起こしてあらためてふり仰ぎ見ると、竜はまるで勝ち誇ったかのように薄闇の空に向かって雄叫びを上げていた。
 その時、アドニスは確かに見た。竜の傍らに仁王立ちになっていたオルガノフが、一歩足を引いて竜の方に身を寄せたかと思うと……そのまま、魔法使いの姿がすっと消えていくのが分かった。最初からそこにいたのは肉体を持った人間ではなく幽魂のたぐいだったようにも思えたし、物理的にオルガノフの肉体が竜の身体と何らかの形で同一のものへと吸い込まれていったようにも見えた。いずれにせよ、竜を前にしてオルガノフの姿はきれいさっぱりかき消えてしまったのだった。
 そして再び、竜の咆哮が響いた。
 その勝どきの声を聴く者はただ惨めに敗走する彼ら王国兵のみだった。この廃墟の街に、竜に……竜に取り込まれたオルガノフにひれ伏す者が果たして他にいたかどうか。先の調査団の行く末は何一つ明らかでは無かったが、楽観出来ない事だけは確かなようだった。
「さて、どうする?」
 部隊がその場から引き下がってどうにか安全と思われる場所までたどり着いたところで、近衛騎士ルーファスがベオナードに問うた。
「どうするもこうするもあったものか。これ以上武勲にこだわっても仕方があるまい。竜は実在したし、友好的でも無かった。まずは竜がいたという第一報を王都に知らせる必要があるだろう。だからまずは、伝令を送る」
「それから?」
「それからの事は、それから考える。ヘンドリクス卿の返答を待つも良し、その間に出来ることがあれば考える」
「不甲斐ないとは思わんのか!?」
「近衛が何かしたいなら俺は止めはせんが、俺の判断としては、まずは村へ撤退だ」
 ついてくるかどうか、それは好きにしろ……ベオナードはそう告げて、おのが配下の兵士達に撤収の指示を下した。苦虫を噛み潰したようなルーファスだったが、そのやり取りを傍目で見ていた魔道士アドニスにもベオナードの言い分の方がどう考えても真っ当に思えたから、それ以上何か言う気にもなれなかった。
 しばらく興奮したように虚空に向かって叫び声をあげていた竜だったが、どうするのかと息をつめて動向を窺っているうちに、落ち着きを取り戻したのか翼を畳んで城楼の上で身を丸めるのだった。これ幸いと、ベオナードら一行は竜に発見されぬよう、足音を忍ばせながら粛々と撤退を開始した。目指すは廃墟の街の城門、そちらに向かって整然と行軍を開始した。
 だが……異変に気づいたのはそれからしばらくしてからの事だった。
 城塞に寄り固まるように築かれた街だったが、路地を抜けて目抜き通りに出れば往来はまっすぐに伸びており、街を出ていくまではすぐのはずだった。
 だが一行がどれだけ歩いても、いつまでたっても城門が見えてこない。
「おい、ちょっと待て」
 ぶつぶつと不平を呟きながらもここまでついてきていたルーファスが、足を止めた。
「この辺りはさっきも通ったぞ。……大体、まっすぐ歩いているだけで道に迷うわけでもなし、いつになったら城門にたどり着くのだ」
「いえ……ちょっと待って」
 アドニスが口を差し挟んだ。
「いったんここにとどまって、何人か先に歩いてみて。……ゆっくり歩いて、こちらから呼んだらすぐに引き返してきて」
 アドニスの提案に、ベオナードの指示を受けた兵士が二人、おずおずと歩き出す。二人はまっすぐ歩きだしたかと思うと、すぐ先にある路地へ突然方向を転じたのだった。
「おい、ちょっと待て!」
 それを見ていたルーファスが、叱責に似た声で兵士らを呼び止める。
「なぜそこで曲がろうとした。どこへ行くつもりだったんだ?」
「私が見てくる」
 二人が戻ってくるのと入れ違いに、アドニスが探るように歩き出す。
「はっきりした事は言えないけど、何かしら結界のようなものが張られている気がする」
「結界だと……?」
「多分、この廃墟一帯に同じ結界が張り巡らされているんじゃないかしら。無意識に、ここから出て行く道を避けるように仕向けられているように思える」
「確かなのか……?」
 猜疑の眼差しを向ける近衛騎士に対し、アドニスはただ肩をすくめるばかりだった。
「状況から推論しているだけだから、絶対正しいとは言わないけど、実際私たちがここで堂々めぐりをしているのは事実よ。その原因を突き止め、問題を解決しない限り、私たちはいつまでもここをぐるぐると歩き続けるしかない」
 アドニスの説明に、ベオナードが横から問いを差し挟む。
「結界とやらが実在するとして、だれの仕業と考えるべきかな?」
「調査団の誰か、というわけではないでしょうね」
 そういって、アドニスは塔の方を振り仰いだ。魔導士に尋ねるまでもなく、誰しもが同じことを考えていただろう。
「ではやはり、あのオルガノフか」
「あるいは、竜自身がやった事か」
 竜、という言葉に、ルーファスが苛立たしげに声を荒げる。
「結界などと、馬鹿でかいとかげ風情にそんな器用な事が出来るのか」
「竜は長命と言われている。説話のたぐいには人語を解し人を助けたり呪ったりという言われようがいくつもなされていることから、長く生きた竜にはそのような知性が備わっていると研究者はいう。……オルガノフはあれを若い竜だと言っていた。それでもやはり、豊かな魔力を秘めているものなのでしょうね。それをどう使うかを知っているかどうか、それは分からないけど」
「オルガノフは、取り込まれた、という言い方をしていたな」
「魔力の使い方は竜が知らなくても、オルガノフならばよく知っているはず。どちらがというより、このさい竜もオルガノフも一緒の存在と考えた方がいいのかも知れないわね」
「竜にせよオルガノフにせよ、会おうと思えば赴かねばならぬ先はどちらも同じだ。街を出ることは出来ぬとして、あの城塞に戻るのまで、邪魔立てされたりしないだろうな?」
 ベオナードの問いに、アドニスは答える。
「そんなの、行ってみればすぐに分かる事でしょう」

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