グスタフ・クリムの帰郷 その6

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 すぐに踵を返した人狼に続いて、ハリエッタもまた大急ぎで階段を駆け下りていく。一行が向かった先は中庭を見下ろせるバルコニーだった。ハリエッタ達が先にこの城砦にたどり着いたおり、伯爵とリリーベルが立っていた場所だった。
 そこにハリエッタが立って様子を伺った時点で、すでに軍服姿の騎馬の一団が、死せる兵士達の軍勢の列を突破し、一斉に中庭になだれ込んできた、まさに丁度その瞬間であった。
 騎馬の一団が一気呵成になだれ込んでくる中、死せる兵士達は隊列を崩し押されるがままに後退し……中には騎馬の突進に踏みとどまれもせずに転んだり突き飛ばされたり、地面に投げ出され馬蹄に踏みにじられる者もいた。これが人間の兵士であれば無残で哀れな光景にも見えたかも知れないが、死せる兵士どもは骨の一片一片にばらばらになって散らばってしまい、挙句はさらさらと砂になって消えていくばかりだった。そして行く行くは、一度帰した砂塵のひとかたまりから、あらためて人型をなし全く新しい兵士たちが姿を見せるのだった。気がつけば中庭への進入を食い止めようと隊列を組んでいたよりもまさに倍の頭数が、侵攻してきた部隊の騎士達を押し包んでいた。
「一体どういうこと……? あれはもしかして、王国軍の兵士では?」
 その混乱を見守りながら、ハリエッタが思わず疑問を漏らす。確かに、騎馬の一軍が身にまとっていたのは王国駐留軍の軍服だった。よくよく見やれば軍服の意匠の異なる一団が後続にいて、それがよく見知った荘園の騎士団であることが分かった。
 ガレオンの手勢がいるのは分かる。でも何故王国軍まで……?
 そもそもガレオンは手勢をこんな目に合わせたくないからと救援を拒んだのに、彼女らを追ってここにやって来るのは本末転倒ではないか。それでも敢えて乗り込んできたからには死せる兵士達と対峙するのはやむを得ないとして、王国軍の兵士までもが一緒に危機に晒されようとしていた。そればかりか、実際にはそんな王国軍の方が先頭なのだ。これを黙って見過ごすわけにはいかなかった。
「伯爵、死せる兵士たちを止めないと」
「無理だ。彼らのあるじは、厳密に言えば上で眠っているエナーシャなのだ。彼らは誰の命令も受けられずに頑なにこの城砦を守っているだけなのだ」
「そんな……!」
 見れば、中庭の木立に手綱をもやいだだけだったミューゼルがうろたえて浮足立っているのが見えた。
 いても立ってもいられずに、ハリエッタは我知らず駆け出していた。手に愛用の剣がある事を確認しつつ、大慌てで階段を下りていく。何が出来るというでもなく、とにかく馬だけでも安全なところに誘導しようと、機嫌をなだめながら手綱を引いて屋内へと引き入れようとする。
 だがもやいを解かれたミューゼルは、逆に興奮したままあらぬ方向へと駆け出していくのだった。
「ちょ、ちょっと!」
 ハリエッタは慌ててミューゼルの馬首にしがみつき、その背に飛び乗った。
 こうなってしまっては、なるようになれと思うしか無かった。
 興奮したミューゼルは安全な場所へ退避するどころか、騎士達と死せる兵士どもがもみ合っている混戦のさなかへと突進していく。こうなって来ると兵士どもの方でもミューゼルとハリエッタとが伯爵の客人であるとかないとかを識別するいとまも無かっただろう、向かっていくところをとにかく足止めせんとばかりに兵士が立ちふさがるので、ハリエッタも剣を抜いてこれを薙ぎ払っていくより他になかった。彼女としてはとにかく混戦を抜けて安全な場所へ避難したかったが、ミューゼルも行く手に待つ兵士の姿にいちいちびっくりしては進路を変えるものだから、ハリエッタもどうなだめてよいかもわからない。振り落とされないようにしがみつくだけで手一杯であった。
 当然、行く先にいるのが死せる兵士達とは限らない。騎乗した騎士団の誰かしらとぶつかりそうになる事もしばしばで、とくに王国軍の兵士達は戦場にハリエッタの姿を見つけてはどの兵士も一様に驚いた顔を見せるのだった。無理もない、味方以外で死者でも兵士でもない者にこの混戦の中、遭遇するなどと思っても見なかっただろう。それが王国軍の兵士ではなく、ガレオンの手勢であったとしても、彼女とここですれ違えばやはり驚いた表情を見せざるをえないのだった。
 では、それがガレオン当人であったならば、どうだっただろうか。
 ハリエッタはミューゼルが突進していく真正面に馬影を見て、思わず手綱を引く。行く手を遮られたからといって、死せる兵士達のように無造作になぎ倒してしまうわけにはいかない。
 だがその時ばかりはむしろ間違えて打ち込んでしまっても良かったのかも知れなかった。お互い正面からの衝突を避けようと無理に馬首を転じようとしてバランスを大きく崩しそうになる。馬の姿勢を立て直しながら相手をあらためてまじまじと確認して、彼らはお互いにあっと声を上げたのだった。
「あなたは……!」
「貴様……!」
 そのように声を上げたのは、誰であろうガレオン・ラガン当人であった。
 彼はその場でハリエッタの姿を見るやいなや、瞬時に鬼のような形相になって怒声を張り上げたのだった。
「おのれ! 全部きさまのせいだぞ!」
「わ、私……!?」
 互いに解消しがたい行き違いがあったのはハリエッタも認めるとしても、お前のせいだ、などと責を問われるような筋合いであっただろうかどうだろうか、と彼女が面食らっていると、逆上したガレオンは手にした剣をやみくもに振り回し、ハリエッタに打ち掛かってきたのだった。
「わわっ!?」
 これにはハリエッタも大いに慌てた。何せ彼女の生涯の中で、死せる兵士ではない、生きている人間に刃を向けられたのはそれが生まれて初めての事であった。
 馬上でどうにか剣を構えてこれを受け止めるが、初めて真正面から受け止めたその斬撃はさすがに重い一撃で、彼女はどうにか受け流すのが精いっぱいだった。
 ガレオンがどこまで本気だったかは分からないが、逆上して闇雲に打ちかかってくるに至ってハリエッタはあっという間に窮地に立たされてしまった。逃げてしまおうにも剣を引いてきびすを返す、そのタイミングすらうまく掴めない。しかも鎧甲冑に身を包んだガレオンと違って、旅装姿のハリエッタには刃を防ぐ手立てがなかったから、ひとたびその太刀を浴びてしまえば大怪我をするのは避けられなかった。
 そんな風にハリエッタが劣勢であると見るや、両者の間に割り込んできたのはあの人狼であった。黒い巨躯がさっと眼前を横切ったかと思うと、剣を大きく振り上げたガレオンの目前に敢然と立ちはだかったのであった。
「化物め! 邪魔立てするか!」
 問答無用とばかりに馬上から刃を振り下ろしたガレオンだったが、黙ってそれを見ている人狼ではなかった。強靭な後ろ足で軽やかに地面を蹴ったかと思うと、一足とびにガレオンの目前に迫り、首元にその大きな首で噛み付いたのだった。
 一思いに噛み砕いて喉を食い破ることもできたかもしれないが、人狼はそうしなかった。跳躍したその勢いでもって、そのままガレオンの身を馬上から引きずり落とし、地面にねじ伏せる。前足で胸をおさえて息のかかる距離で一吠えすれば、よほど豪胆な人間でなければ恐怖に震え上がるはずだった。
 だがガレオンはその例外たる豪胆さをみせ――単に取り乱していただけかもしれなかったが――みっともなく地面に転がりながらもどうにか取り落とさずに握りしめていた剣を、闇雲に振り回して人狼を払いのけようとする。騎士としての優れた剣の技というより単に手にした長物を闇雲に振り回すばかりの、子供じみた抵抗でしかなかったが、人狼にしてもそれにおとなしく殴られる道理もないので迂闊には近づけない。
 人狼が近づけずにいるところを、ガレオンはどうにかその場に立ち上がって姿勢を取り繕う。あらためて、今度はもう少しまともに剣を正面に構え、人狼に相対するのだった。
 さてどうしたものか、と人狼がガレオンの様子を伺っていると、そこに一騎の騎馬が近づいてくるのがわかった。
「ハリエッタ! ハリエッタ・クリム!」
 見れば、馬上にあったのは王国軍の部隊をここまで名目上率いてきた、タイタス・パルミナスであった。
 人狼とガレオンが対峙するところを何もできずに見守っていただけだったハリエッタは、その場に現れた人物を見て思わず声を上げる。
「え、ええっ!? パルミナス……じゃない、タイタス卿! どうしてこんなところに……?」
 両者がそのようなやり取りをしているのをみて、ガレオンと人狼は思わず戦いの手を止めてしまった。そしてパルミナスとハリエッタの様子を見て、ガレオンは再び憤怒の叫びを上げるのであった。
「お前たちッ……! 顔見知りだったのか!」
 顔を真赤にして、まさに地団駄を踏まんばかりのガレオンに、タイタス・パルミナスはすらすらとうそぶくように涼し気な表情で言い放った。
「……ですから、クリム侯爵とは面識があるとあのとき申し上げたじゃないですか。タイタス家は武門で知られた名家とはいえ、僕は生まれつき御覧の通りの貧相な体格でして。最初についた剣の師匠の手厳しい修練についていけずに、幼いころはここにいるハリエッタ嬢と同じ先生のところで剣を学んでいたのです。そういうご縁もあって、当然クリム侯爵とも何度となくお会いしたことがあります」
 えへん、とどうでもいいところで自慢顔になって、パルミナスは言う。
 そして今度は、ハリエッタに向き直って、事情を説明するのだった。
「そこなるガレオン殿から、クリム家の名を騙る偽者がこの廃墟に逃げ込んだと聞き及びましてね。それで一緒に軍勢をすすめて、ここまでやってきたという次第です。……でもまあ、僕が保証しますよ。このハリエッタ嬢は間違いなくクリム侯爵家のご令嬢その人に間違いありません」
「そのようなことは最初から分かって……!」
 そこまで言いかけて、ガレオンははっとして口をつぐんだ。
 いや、そこまで口走ってしまえばもう何もかもを白状したも同然だったかも知れない。最初から偽者ではないことを承知の上で、彼女らに偽者という嫌疑をかけていたのだ……巡察官であるパルミナスに対して、一番知られてはいけない事を自ら暴露してしまったガレオンであった。
 その三者のやり取りに、人狼が口をはさむ。
「そういう話は後回しだ。あれを見ろ!」
 狼が喋ったという事実にパルミナスが一瞬ぎょっとした顔を見せたが、真に驚くべきはここから先であった。いつの間にか彼らは、死せる兵士たちにぐるりと取り囲まれていたのだ。それだけではなく、彼らは一行の見ている前で次々に勝手に形を失って砂塵に戻っていったかと思うと、それぞれが一つの大きな土くれの塊へと寄り集まっていくのだった。あれよあれよという間に、その大きな塊は今度は骨でできた巨大な火吹き竜をかたどって、彼らの前に対峙するのだった。
 怪異がある、と噂に聞いた。事実足を踏み入れれば屍のような兵隊どもが出迎えてくれた。行きすがった狼が人語を解した――そこまでの事実があれば、タイタス・パルミナスとしては不思議なものを見聞きしたといずれ人に自慢話をするには充分だった。言ってしまえばそれ以上はもう勘弁、というのが彼の偽らざる思いであった。
「え……ちょっと、これは流石にどういうことなのかな……?」
「とにかく! タイタス卿、ここから逃げましょう!」
 そんな折だった。ふいに中庭の真ん中に、一人の少女が姿を見せた。
「……エナーシャ?」
 ハリエッタは一瞬そう思ったが、よく見るとそうではなかった。身にまとっている装束が眠っていたエナーシャのそれとは違っていた。
 それはおのが妹、エヴァンジェリンだったのだ。
 彼女は唐突に姿をみせたかと思うと、さっと右手をかざす。地面に散らばる骨や土くれが、さらさらとした砂のようなものに形を変え、それが彼女の目の前で細長い棒のような形に今度は寄り集まって、形を作っていくのだった。
 やがてそれは錫杖のような形になる。
 エヴァンジェリンは手にしたその錫杖で、足元の石畳を強く穿った。
 一瞬、光がはじけた気がした。
 死せる兵士たちはおろか、巨大な骸骨の火吹き竜までもが、一様に動きをぴたりと止めた。
 そんな連中を相手にする人間の兵士たちも、一体何事が起きたのかとうろたえながら様子を見守るばかりだった。そんな彼らが見守る中、エヴァンジェリンは旅装の外套を風になびかせて、悠然とした足取りで静止した火吹き竜たちの前に進み出てくるのだった。
 一体何をするつもりなのか、と皆が息を潜めて見守る中……彼女が今一度錫杖で石畳を穿つと、次の瞬間には火吹き竜も兵士たちも、その場でぼろぼろと崩れ落ち始めるのだった。
 何もかもが、それこそ文字通りに砂塵に……砂となり塵となり、風に流されて形を失い、消えていくのだった。
 やがて、その場にはすっかりと静寂が訪れた。
 先程まで、ひどい混乱の中剣を振るっていた兵士たちも、気の抜けたような表情でお互い顔を見合わせていた。落ち着かない馬をなだめ、お互いの無事を確かめ合う。
 パルミナスは周囲を見回し、状況が落ち着いたと判断すると、ひとつわざとらしく咳ばらいをして、懐から一通の書状をすっと取り出した。
 改めてその場で書面の文面にさらっと目を通したのち……皆と同様に呆然とした表情のガレオンの前につかつかと歩み寄り、彼の正面に立って、勿体をつけた口調で告げるのだった。
「こんな時に何ですけど、ガレオン・ラガン殿。僕らはあなたを逮捕します」
「逮捕……!?」
 その一言で、ガレオンは茫然自失から急に現実へと意識を引き戻されたようだった。泡を食ったような表情の彼を尻目に、パルミナスはやけに得意げな態度で、話の先を続けた。
「つまり、この場で身柄を拘束させていただくということです。理由はご自身でも分かっていらっしゃいますよね? 先ほど言いかけたあの言葉……」
「……くッ」
「ハリエッタ嬢とそのご家族、クリム侯爵家の皆々様を、本物と分かったうえで偽者と断罪し、身柄を取り押さえようとわざわざリヒト山を越えてまで追いかけ回すなどという茶番を繰り広げてしまった」
 憤怒の形相で、無言のままパルミナスをにらみつけるガレオンだが、パルミナスはべつだん怯むでもなく、むしろ何がおかしいのか何とも意地の悪い笑みをにやにやと浮かべて、そんなガレオンを見返すばかりだった。
 そこにハリエッタが疑問を差し挟む。
「そもそも、この人は何でそこまでして私たちを捕まえようとしたの。その理由が知りたいわね」
 そう言ったハリエッタに対して、パルミナスは手にした書状の文面をちらりと指し示す。
「この逮捕状と一緒に僕のところに届けられた報告書によると……王都で、架空の投資話でとある貴族から財産を巻き上げたという男が逮捕されたそうで。マルケス・エーロンという男なんだけど、こいつが尋問の中であなたの名前を挙げたそうですよ、ガレオン殿。あなたからその貴族を破産させたいと、名指しで指示を受けたって」
 その貴族というのが……と書面を目で追いながら、パルミナスは読み上げる。
「……グスタフ・クリム侯爵、とここには記載がある」
「お父様が? いったいどういうことなの?」
「クリム家が破産すれば領地であるクレムルフトを頼るに違いない、という目算があったんだろうね。一文無しで昔懐かしい所領に帰ってきたところで、金を積んで家名を買い取るなり、君たち三姉妹の誰かの婿養子になるなりして、彼自身が貴族になりたかったんじゃないかな」
 悔しそうにわなわなと身を震わせるガレオン。図星なのか、何の反論も出来なかった。
「……彼の父親は荘園を治める領主代行という話だったけど、肝心のクリム家が領地に不在だというのなら自分の父親がその土地では一番の権力者ということになる。なのに、仮に世襲でその地位を継いだとしても、その土地の一切合切が自分のものになるわけではない。僕が彼の立場なら、そこに何かしら思うところがあるんじゃないのかな。……でしょ、ガレオン殿?」
「ということは、私たちは……」
「クリム家が抱えていたという負債のうち、無効と認定されるものがいくつかは出てくるだろうね。すべてが、というわけにはいかないかも知れないけど、住んでいた家屋敷ぐらいは戻ってくるんじゃないのかな」
「それじゃ、私たちは王都に帰れるのね?」
 よかった、と胸を撫で下ろしたハリエッタだが、その喜びを告げようとして初めて、さっきまでそこにいたはずの人狼がどこにもいないことに気づいた。
 ガレオンは王国軍の兵士たちにその場で身柄を取り押さえられた。配下の手下たちが多少は難色を示すかと思われたが、残念ながらそういう忠義者がいないところに、あるじの人望の程が伺いしれた。
 ハリエッタはパルミナスとエヴァンジェリンとともに、バルコニーに戻ってみる。けれどそこにも、謁見の間にも、人狼はおろか伯爵の姿も無かった。あらためて階上の寝室に行ってみると、眠れるエナーシャの姿さえもそこから忽然と消えてしまっていた。
 死せる兵士たちは砂塵に返ったとは言え、それらしき砂や土くれはその場にそのまま残されており、伯爵家も怪異も何もかも痕跡も残らなかったわけではないが、少なくとも伯爵家の一同の姿は、それきり誰も見たものはいなかった。

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