竜の爪あと その1

   竜は死して爪あとを残し
   その傷の癒える日は遠く
   いつか形をなした災いを
   人々は目の当たりにするであろう


  1

 アドニス・アンバーソンが死去したという報せをユディスが受け取ったのは、その日の午前遅く、昼にさしかかろうかという頃合いだった。
 遅い朝食のあと、一人お茶をいれて部屋着のままぼんやりと読書などして過ごしていた折に、下宿の大家である老婦人アンナマリーがわざわざ部屋まで手紙を届けに来てくれたのだった。身支度もろくに済ませていないままの彼女が戸口に立つと、老婦人は渋い表情を見せた。
「外はいい天気ですよ。せっかくだからお出かけでもしたらどう?」
「……そうね、考えておく」
 ユディスは髪も整わないままの頭をくしゃくしゃと掻きながら、気だるげに生返事した。
 アンナマリーは親切で愛想もいいが、多少おせっかいというか、世話を焼きすぎるきらいがあって、時としてそれが煩わしいこともあった。もっともその日その場に関して言えばユディスものんびりし過ぎではあったのだが、ともあれ彼女は苦笑いで老婦人を見送りつつ、手紙を開封して目を通したのだった。
 彼女が呑気にしていられたのは、そこまでだった。
 文面を目にした瞬間、それこそ血の気が引くような思いがした。
 つい先月、叔母の邸宅に直接見舞いに足を運んだばかりではなかったか。その時は多少やつれているとはいえ、まだまだ元気に見えた。いずれはこの時が来るのは分かっていたつもりだったが、いざその知らせを受け取ってみると、やはり動揺は隠しきれなかった。
 アドニス・アンバーソンは名目上はアンバーソン子爵家の当主であり、ユディスの叔母に当たる人物であった。
 問題はその叔母の死んだ日付だ。手紙によれば叔母が死んだのは手紙を受け取ったその時点から数えて二日も前のことだった。王都から叔母の邸宅のあるアーヴァリーまでは早馬を飛ばせば半日もかからないはずで、何故、と疑問に思いながら封筒を見返すと、どうやら元は速達と書かれていたらしい赤いインクの滲みがあるのがわかった。判読出来ないのであれば仕方なかったが、郵便省の誰かしらがもう少し真面目に仕事をしてくれていれば、と今更どうにもならない繰り言が出てきてしまうのは致し方ないところだったかも知れない。
 アンバーソン家は王国に古くからある名家で、肩書きで言うならばユディスは子爵家の令嬢という事にはなる。ただそうは言っても彼女には他に兄弟姉妹はおらず、父母は幼いころに火災で死去しており、叔母も未婚のままの身の上だった。
 アドニス・アンバーソンはユディスの母と姉妹であり、この姉妹の他に兄弟はなかった。しいて言えば婿養子にあたる父方に親族はあったかもしれないが、ユディスには面識はなかった。それを考慮に入れなければ、王都で慎ましやかな下宿暮らしの身の上のユディスと、郊外の片田舎であるアーヴァリーに独り隠遁していた叔母以外に、アンバーソン家に連なる家柄の者はいないはずだった。
 ともあれ、叔母の邸宅には頼りになる従者たちがおり、今頃はもしかしたら連絡のつかないユディス抜きですでに葬儀を終えてしまっていたかも知れない。用意周到な叔母のことだからユディスに連絡がつかなかった場合のことも彼らにはきちんと言い含めてあったかも知れないが、とにかくユディスは今すぐにでも叔母の元へ駆けつける必要があった。
 彼女は慌てて身支度をすると、アンナマリーに外出する旨を――場合によっては数日留守にするかも知れない旨を告げて、旅行鞄を引っ張り出してきては取り敢えず荷造りを開始した。今から馬車を手配すれば日暮れ頃にはむこうにたどり着けるはずだった。
 そうやって――死者を悼む余裕もなく慌ただしげな彼女の元に、一人の来客があったのはそれからほんの小一時間もしないうちのことだった。
 馬車の手配をアンナマリーに頼んではおいたものの、それが着くにはさすがに早すぎる。誰かと思い戸口に出てみると、そこには見知った顔の男性が立っていた。
「……マティソン少尉?」
「やあ、ユディス。こんにちは」
 軍服姿でこわばった笑みを浮かべる青年を前に、ユディスも渋い表情を隠しきれなかった。
 憲兵隊の若い士官であるマティソン少尉は、アンナマリーに勧められて渋々出席したお茶会でここ最近知り合った青年であった。交わした会話の内容によればユディスよりは三、四ほど年上、すらりと長身だが軍人としては少し痩せ気味、無理にはやした口ひげも手入れこそ行き届いてはいるが少々幼げな顔立ちには似合っているとは言いがたい。お茶会の席を早々に中座しては礼を欠くからと、取り敢えず自分と同じように話し相手が見つからずに居心地悪そうにしていた者同士で当たり障りのない世間話をしていたのがそもそもの出会いであったが、それ以来何かと顔を合わせる機会があったりなかったりで、もしかすると向こうはユディスに余計な期待を抱いているのかも知れなかった。
 彼女にしてみればどちらかといえば面倒な話ではあったし、それとは別にこの日この時点での来訪というのがまた実に厄介で、正直歓迎すべき客とは言えなかった。
「少尉、本当に申し訳ないけど、私は早急に王都を出立しないといけない用事があるの」
「存じ上げてます。叔母さんの件ですよね?」
 おそらくその一言を耳にしたユディスの表情は、露骨に疑わしいものを見るような顔つきになっていたに違いない。
 口をあからさまにへの字に曲げる彼女を前に、少尉はしどろもどろになりながら先を続けた。
「ええと……このたびは、なんとお悔やみを申し上げればよいのやら」
 いかにも手馴れないたどたどしい口上を、ユディスが適当な所で遮った。
「お悔やみはこの際どうでもいいけど……そもそも、どうして少尉が私の叔母のことを知っているの?」
「それは、そのう……」
 マティソン少尉はもごもごと口ごもりながら説明した。いかにもな話し下手のたどたどしい話ぶりにユディスは苛立ちを隠しきれなかったが、出て行けと叫ぶのをどうにか我慢して事の次第を聞き出した。
 曰く、叔母の死去に際してアーヴァリーの役場に届けがあり、それが爵位のある人物にまつわるものであったので、王都に取り急ぎ一報が寄せられたのだという事。その子爵家の令嬢が王都に居を構えているというので、憲兵隊の元にも報告があったのだという事。諸々の部署を渡り歩いてきた案件とはいえ、直接郵便が届くのとほぼ同時となれば、それなりに耳が早いと言えただろうか。
「いきさつはそれとして、どうして憲兵隊がそんな事を気にかける必要があるの?」
「僕も疑問に思ったので、上官に質問してみました」
 曰く――彼も今日は非番だったにも関わらず、今朝方上官に呼び出されその件を告げられたのだという。わざわざ呼びされた理由を当然疑問に思った彼に上官が語って聞かせたのは、このたび死去したアドニス・アンバーソンなる子爵家のご婦人が、単に爵位があるという以上にどのような人物であるか、というあらましであった。
「魔導士アドニス・アンバーソン。黒き竜を退治した英傑の一人」
「……」
「全然知らなかった。君の叔母さんは、すごい人だったんだね」
 そのように感心したように言われたところで、ユディスとしては誇らしいどころか内心うんざりした気持ちにならざるを得ないのだった。もしかしたら露骨に聞こえるように舌打ちをしてしまっていたかも知れない。
「その私の叔母のことで、私に何か聞きたい事がある、という事なのね?」
 憲兵である彼がごく個人的にお悔やみを言いに来ただけならまだしも、上司の指示でやってきたというのであれば事は世間話では済みそうにはなく、むげに追い返すわけにも行かなさそうだった。話がこじれた場合はその上司とやらが令状を持って踏み込んで来るのかも知れず、そうなるとことさらに迷惑だった。
 ユディスはため息混じりに、少尉を自室に通すしかなかった。
 片付けの行き届いた部屋とは言いがたいが、今なら荷造りの真っ最中だという言い訳が使えたかも知れない。ソファの上に開け放たれた旅行鞄に、これから詰め込まれる予定の着替えのたぐいが、綺麗に畳まれるのを待ったまま乱雑に投げ出されていた。
 マティソン少尉がぎょっとしたのは、そうやって物があれこれ積み上げられた中に、ひと振りの剣が、あまりに無造作に投げ出されていた点だった。
 もちろん、ユディスが騎士であったり軍人であったりするわけでもない。一人暮らしであっても子爵家に連なる家柄のご令嬢であれば、所有財産として剣の一振りぐらいは持っていてもおかしくはなかったが、それが居室に何気なしに放り出されて置かれているとなればさすがに自然な光景とは言い難かった。
 ユディスは少尉が何に目を止めたのかに気づいたが、往来の真ん中で所持物を咎められたわけでもなし、敢えて弁解しなくてはとも思わなかった。マティソン少尉も、女性の一人暮らしの部屋を……ましてやこれから荷造りされる旅行の持ち物の委細をじろじろ見るのも礼を欠く行為だと考えたのか、敢えて追及はせずに、一つわざとらしく咳払いをして話の先を続けた。
「話を聞けばなるほど確かに、黒竜退治の英雄の一人が亡くなったとなれば、王国にとっても大きな出来事であるには違いないかと。……むしろ、使いが僕でいいのかとすら思うくらいにね」
 全然知らなかった、すごい話だ……とマティソンはもう一度素朴に感激してみせるのだった。
 むろん、それはもう二十年以上も前の話だったから、そんな事件があった事を仮に聞き知っていても、誰と誰が連座していたかなど、委細を知らずとも不思議ではなかった。現にマティソン少尉も上司から知らされるまで、そもそも黒竜退治があったことを知っていたかも怪しかった。
 だがそんな彼でも、黒き竜の名そのものを聞いたこともない、ということはさすがになかったかも知れない。黒竜バルバザードの名は、王国に災厄をもたらすものとして、ずっと昔から語り継がれてきた忌まわしき名前であったのだから。
 とはいえ……本当に黒竜が現れるまでは、ほとんどの人間はそれはおとぎ話だとしか思ってなかったし、実際に最果ての辺境域で黒き竜の目撃情報がもちあがっても、まともに取り合う者の方が圧倒的に少なかった。
 それでも王宮は律儀にその件を気にかけ、実際に黒き竜がいるのかどうか……人々が目撃したのが真に黒竜バルバザードであるのか否か、それを見極めるために調査団が派遣される事となった。
 その調査の任に当たることとなったのが、魔導士オルガノフであった。魔道士の塔に籍を置く彼は、若くして予言の才が豊かな事で知られ、王太子フレドリックから相談役として重用されている事でその名を知られる人物であった。
 調査にあたってその王太子が直接彼を名指ししたというわけでもなかったから、最初は渋ったオルガノフだったが、いずれにせよ王宮からの命令とあれば結局は従わざるを得ない。
 そんなオルガノフは出立を前に、自分のかつての教え子であったアドニス・アンバーソンに、このように漏らしたというのだった。
「本当は、私を黒竜に近づけてはいけないのだ。必ず良くないことが起きる」
 誤報であるに越したことはない。竜など現実には実存しないのだ……オルガノフはそう言い残して旅に出ていったが、結果として二度と王都に戻ってくることはなかった。
 調査団が音信を途絶えさせるのと前後して、辺境域の村々から何物か怪物のようなものに襲われるという被害報告が相次いだ。それが果たして黒竜なのかどうか、それを確かめ、先の調査団……とりわけオルガノフの行方を探すように、と二番手の探索隊が派遣される事となったのだった。
 今度の探索隊は先の調査団の救助が一番の目的で、怪異に襲われているという辺境域の開拓民たちをいざともなれば守る必要があるようにも想定された。だから探索隊は王国軍の部隊が当てられ、その部隊長の任を命じられたのが正騎士ベオナードであった。その部隊に近衛師団からも騎士ルーファス他数名が同行する事となった。黒竜の実存がどうやら本当らしい、ということが明らかになったがゆえに、探索行に名目だけでも居合わせようという事になったがゆえだった。
 そしてその探索隊に魔導士として同道したのが、ユディスの叔母である魔導士アドニス・アンバーソンであったのだ。
「そして彼らは辺境におもむき、黒竜を発見し、これを退治して帰ってきた」
「……だから? それがどうしたというの」
「正騎士ベオナード卿は今現在、残念ながら消息がわかっていません。ですが近衛騎士のルーファス卿は十数年前に病没したと記録にあり、この際は国庫から費用を出して追悼の式典が執り行われています。……なので、アドニス殿についても本来であれば同じ処遇であるべきではないかと。この件に関して、アンバーソン家の方々、とりわけアンバーソン家の当主の地位を相続すべき方に相談すべき内容なのではないか、と」
「アンバーソン家は叔母とその妹……つまり、私の母親以外は兄弟姉妹がいなかった。叔母は長子ではあったものの、魔道士を志した事もあっていったんは家督を私の両親に譲っている」
「でも、君のご両親もすでに故人であるし、アドニス・アンバーソンは生涯未婚だった。つまりアンバーソン家の次の跡取りというのは……ユディス、君の事に他ならない」
「その追悼式とやらを丁重にお断りしたいときは、あなたに直接言えばそれでいいの?」
「いえ……話はそこで終わりではなくて」
「?」
「すいません、叔母さんがお亡くなりになったばかりというのにあなたのご両親のことまで蒸し返すのは本当に失礼だとは思うのですが……あなたのご両親は過去に邸宅の焼失により亡くなられている。けど、記録によればその時にもうひとり、アンバーソン家のご令嬢も一緒に亡くなった事になっている……というか、一時期までなっていたんですよね」
「……」
「その後数年たって、そこにご夫婦の令嬢まで一緒だったというのは記録の間違いで、実際は子爵家の所領であるアーヴァリーの別邸にいて王都には不在だった、というのです。……なぜそのような事実誤認があったのかはわかりませんが、結局それは書類の不備であったとして処理され、火災で死去したのはご夫妻の二人だけであった、という風に記録が修正されてまして」
「……」
「その時のご夫婦の間の一人娘というのが、ユディス・アンバーソン。つまりあなたのことで、その火災の件の異議申し立ての書面を提出した名義人が、あなたの叔母であるアドニス・アンバーソンその人だという……」
 そこまで喋ったマティソン少尉を見るユディスの眼差しは、これ以上ないほどに軽蔑の色がありありとしていた。
 少尉はその冷ややかな視線に生きた心地がしなかったであろうが、これも職務と割り切ってのことか、上ずった声でどうにか先を続ける。
「ひとつ……ひとつ不自然なのが、これらの記録は最終的には、王宮が下賜している爵位の名義人が誰で、そのあとの相続順位がどのようになっているのか、という話になってくるのですが……本来はアンバーソン子爵家の跡取りというのは姉妹の姉であるアドニス・アンバーソン殿になるわけですが、彼女は魔導士の塔に入って魔導士になる道を選んだので、結婚し夫を迎えた妹君に一旦爵位を譲っていますよね。この時点で子爵夫妻は跡取りの第一位をご自身たちの令嬢、第二位を姉であるアドニスに指定していました。しかるに、この爵位は夫妻が死去ののち姉アドニスのもとに移り、先のあなたの死亡の誤認、取消の申請のさいも、そちらの爵位移譲に関する異議申し立てはされてはいなかったのですね。もちろん、おおもとの順序でいえば長子であるアドニス殿が相続するのが筋ではあったわけですが……」
「マティソン少尉、結局あなたは何が言いたいの?」
「ええと、つ、つまりですね。当時べつだん深く疑問には思われなかった、君が一回すでに死んでいた、という件が、今回改めて疑問視されているということなのです。……アドニス・アンバーソンを子爵位をもつ方として、また黒竜退治の英傑として見送るのはいいとして、姪である……姪とされるあなたに本当にすんなりと爵位を移譲してもよいものか、という」
 そんなマティソン少尉の話を聞きながら、ユディスは内心舌打ちをした。
 そもそも叔母の死を告げる手紙がちゃんと速達で届いていれば、憲兵隊がこの少尉を差し向けるよりももっと前に王都を離れられていたはずで、こんな面倒な話に付き合わされなくとも済んだのに。
「……少尉。あなたは私をどうしたいの?」
「僕がどうしたいかをが決めるわけではないんですけどね。爵位の相続に関して、おそらくあなたは事情聴取の対象となるはずです」
「けれど私は、葬儀のために王都を一刻も早く離れたい。……それを足止めするために、顔見知りのあなたが説得役にあたることとなった、ということなのね?」
「いやはや、そのとおり……いや、僕だって君が悪い人だと思っているわけではないけど、立場上どうしても今回は君の味方にはなれなくて……」
「別に私からも、味方をしてくれなんてお願いはしないわ」
「じゃあ」
「そういう事は、どうにかして解決していかないと」
 アドニスはそういうと、散乱する荷物の中から、例の一振りの剣に手を伸ばした。
 マティソン少尉はそれを目にして、表情を硬くした。
「さっきから気になっていたけど、それは一体……?」
「叔母からの預かり物」
 ユディスはそういうと片手で柄に手をかけ、一気に鞘から引き抜いた。
 少尉は目を丸くした。憲兵隊と言っても彼の普段の仕事は事務方で、詰所でひたすら書類仕事をしているだけなのだ。刃傷沙汰など縁のない彼だから、今この場で抜身の切っ先を目の当たりにすれば、呑気に落ち着き払ってなどいられなかった。
 ただでさえそんな状況なのに、目の前の刀剣は彼が今まで見たことのない代物だった。刀身がまるで血のように深い赤色で、金属とも石ともつかない不思議な色艶をしていた。
 マティソン少尉があからさまに身じろいだのを見て、ユディスは一瞬だけ思案顔を見せたかと思うと、何かを思い直したように剣を再び鞘に収める。一連の所作から、彼女が剣の達人とは言えないまでも扱いには充分に慣れているのはすぐに分かった。
 しかもそれでその武器を収めるでもなく、今度は鞘のまま軽々と振り上げる。壁にでも当たりはしないかとはらはらするのはマティソン少尉の方で、ユディスはと言えば一つ一つの所作に迷いがない。
「少尉、申し訳ないけど、私は本当にどうあっても叔母の元に駆けつけないといけないの」
「だからって、それをどうしようと……?」
 ユディスの返事はなかった。代わりに切っ先がこちらに振り下ろされるのが分かった。憲兵隊の兵士とは言えマティソン自身は何かの典礼でもない限り人前で剣を抜いた事など一度もなかったから、こんな折におのが身をどう守ればよいのかもとっさには分からず、足がすくんで逃げる事も忘れていた。
 そんな折だった。不意に部屋の戸口から、二人のいる居間に何者かがノックもせずに足を踏み入れてきたのだった。
 ユディスは、振り下ろした切っ先を咄嗟に途中でぴたりと止めた。……なので、マティソン少尉は殴打される一歩手前で助かったのだった。
 そこに姿を見せたのは、長身のマティソン少尉よりもさらに頭一つ分以上も背の高い、大きな体格の男だった。ひょろりと背が高いだけの憲兵とは違い、身の丈に応じて肩幅も胸筋も厚い。まさに大男と言って差し支えなかった。
「……取り込み中だったか?」
「ベオナード卿?」
 驚いて声を上げたのはユディスだったが、その口から出てきた意外な名前に、マティソンもまた驚いて同じ名前をおうむ返しに繰り返すのだった。
「ベオナード卿……!?」
 おのが名を口にした両者をまじまじと見比べつつ、その大男……騎士ベオナードと呼ばれた男はにやにやとほくそ笑みながら言うのだった。
「ユディス、久方ぶりに顔を合わせておいてこんな事をいうのも野暮な話だが、俺が覚えている限りではその男が着ているのは憲兵隊の制服のはずだぞ」
「それは知っている。彼は憲兵で間違いない」
「なら、憲兵相手に剣を振り上げるなんて大それた事は、俺なら可能な限り避けたいところだ。一体、何があったんだ」
「それは、この失礼な少尉さんに訊いて」
 ぶっきらぼうにユディスが答えて、ベオナードの視線がマティソンに向かう。
「これは……その」
 マティソン自身も意識していなかったが彼は思わず振り上げられた剣から身を守ろうと両腕で頭を庇いつつ、身を低く屈めて思わず片膝を床についてしまっていた。膝を折った無抵抗の相手を容赦なく打ち据えようというのは確かに問題だったが、マティソン少尉自身はむしろ自らが何の抵抗も出来なかった事実を恥じたようだった。咳払いをしながら直立の姿勢に戻ると、ユディスもまた、ばつが悪そうに少尉とベオナード卿を見比べ、剣を引っ込めるのだった。
 ベオナード卿はそれを見て、満足げにほくそ笑んだ。
「そうだ、それがいい。事情はよくわからんが、荒っぽい事はとかく避けるに越したことはない」
「ベオナード卿? あなたは、本当に、本物のベオナード卿……なのですか?」
 彼の来訪に助けられた格好のマティソン少尉が、恐る恐る問うた。
「いかにも。そういうお前さんは?」
 問われて、マティソンは自分の名前と肩書を答えた。憲兵と正騎士では組織系統が異なるとはいえ同じ軍人同士のはずだが、伝説的な人物を目の当たりにして自分も軍人であるということは失念してしまったようだった。
「あなたは、生きていたんですね」
「はてさて、生きているものか死んでいるものか。とりあえず今日のところはここにいる。お前さんの眼の前にな」
 そう言って何が面白いのかにやにやと笑みを浮かべる大男は、背丈だけではなく肩幅もがっちりとした巨躯の主だった。頰から顎にかけて髭で覆われたその風貌からは年齢ははっきりと伺えはしなかったが、生きていれば五十歳に届くかという年齢のはずだった。体格や歩き方から年齢相応の衰えを感じることは無かったが、その佇まいは不思議と落ち着き払っていて、貫禄を漂わせていた。
 マティソン少尉の目には、まさに生ける伝説であるように見えたが、ユディスは顔なじみなのか口調がずけずけと遠慮が無かった。
「もう来ちゃったの? 少し早すぎるんではなくて?」
「早すぎるということはない。刻限までもうどれほども間がない」
 話に割って入って、マティソンが問う。
「……もしかして、お二人でアーヴァリーに行かれるおつもりでしたかね? 僕は一応、彼女を王都にとどめ置くようにと、上から指示を受けているんですが……」
「それなら心配はない。今から王都を出てもおそらく間に合わない」
 ベオナード卿の言葉に、ユディスが真剣な表情で念を押す。
「それじゃ……ここで?」
「ここで。それしかあるまい」
 そういうと、ベオナード卿は断りもなしにソファの上にあった旅行鞄を無造作に脇に押しやって、空いた場所にどかっと座り込む。状況が飲み込めないマティソンはその場に立ち尽くしたまま、いたたまれなくなってそろそろと壁際に引き下がっていく。
 お茶でも入れてくる、と言ってユディスは奥にあるキッチンへと下がっていく。
「本当に、ベオナード卿なんですね?」
「お前さんも疑り深いな」
「いや、疑っているというわけでもないのですが……。つい昨日まで、ユディスがあなたやアドニス卿のような英傑に近しい人だなんて知りもしなかった。なのに今日になってみるとその当人まで現れてしまうなんて」
「君が思っているほど、大したものじゃない」
「そうはおっしゃいますが、何せ竜退治ですよ」
「うん、確かに竜を殺すとなるとおおごとではあるだろうがなあ。……我ながら大それたことをしでかしたとは思うが、まあ言ってみれば結果的にそうなったというだけで、べつだん難しいことは何もないのだよ」
「そこですよ。アドニス殿もそうですが、どうしてあなた達は、竜殺しなどという偉業を成し遂げたのに、その後身を隠すようにしているんですか? もっと、こう……例えば将軍のような要職についていたり、魔導士の塔でも高い学位についていたりするものではないのですかね?」
 マティソン少尉の言い分は、何も知らぬ人々からすれば当然の疑問と言えたかも知れない。それだけに答えようと思えば確かに面倒な質問ではあった。
 果たして過日、竜が現れたあの荒野で何があったというのか……ベオナードはただ、遠い目をするばかりだった。

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