魔人バラクロア その5

 5
 果たして、そこに飛来した謎の光の正体は何なのか――魔人もリテルも、水鏡の向こうの景色をただじっと息を詰めたまま見守るより他にありませんでした。
 老人はというと、ふんと鼻で笑うと――笑った声が聞こえたわけではありませんが水鏡の像で見る限りはそうしたように見えました――ひとつ大きくかけ声を上げて、ひらりと跳躍したのでした。その場でぴょんと飛び上がったかと思うと、ふわりと空に舞い上がって……そのまま、風に吹かれる綿帽子のような淀みない軌道を描いて、ものすごい速度でもって、飛来してくる何かに向かってまっすぐに飛び上がっていったのでした。
 魔人は水鏡の像でその軌道を追いかけようとしますが、両者ともにかなりの速度で夜闇を切り裂くように飛来しているため、追尾するのに少々手こずっているようでした。やむを得ず遠景で像を捉え直してみると、夜闇に両者の光跡が、くっきりと浮かび上がっているのが分かりました。お互いそれぞれにものすごい速さで距離を縮めたかと思うと、次の瞬間、とうとう真正面からぶつかりあったのでした。
「……!」
 リテルははっと息を呑みました。火の玉同士が衝突したみたいに盛大な火花を散らしながら、両者は一瞬すれ違い、そのままものすごい速度で離れていき、そしてお互いゆっくりと弧を描いて……また再び、お互いまっすぐにぶつかり合う軌道に復帰していくのでした。
 そのまま二人の光は、幾度か同じ事を繰り返しました。そのたびに激しい火花が散って、それこそ花火のようなまばゆい火の粉が夜の空にぱっと咲き開くのでした。
 とは言え、それは決して楽しげなものではなく、お互い死力を尽くして激しくせめぎ合っているのに違いありませんでした。その力づくのぶつかり合いは、最初のうちは両者ともに互角のように見えましたが、徐々に片方がその勢いを失っていって、少しずつ速度を緩めていきます。逆にもう片方はその輝きをより増していって、そのうち互角のぶつかり合いから、一方的に攻め立てるように、やたらめったら激しく衝突を重ねていったのです。
 その光の攻防にしばし見とれていたリテルですが、ふと地上に残されたホーヴェン王子と王国軍の方をみやると、今しがた雷に打たれて薙ぎ倒されたはずの兵士達が、何とか立ち上がって体勢を立て直し、王子を奪回すべく例の牛頭の怪人に相対しているところでした。
「……増えてる」
 リテルは唖然として息を飲みました。震える声で思わずそう呟いてしまったように、いつの間にか牛頭怪人はあの二体ではなく、数が増えて全部で五体になっていたのです。仮に王国軍の兵士達の方が数で勝っていたとしても、彼らは稲妻の攻撃を受けてやっとのことで立っていたのに対し、牛頭怪人達はそもそもの体格が大きく兵士達を上回っており、ただ両者向かい合っているだけでも、見るからに王国軍の方が劣勢に見えたものでした。弱々しく剣を構えてどうにかこうにか、王子を連行する曲者どもを包囲してはみましたが、牛頭の怪人達はその場でいかにも恐ろしげな咆吼をあげたかと思うと、それこそ猛り狂った逞しい雄牛の群れのように、兵士達に突進していったのでした。
 優劣は見るからに明らかでした。ホーヴェン王子はいつの間にか手足を荒縄でぐるぐる巻きにされ、芋虫のように身をくねらせるくらいしか身動きのとりようが無くなっていましたが、そうやって往生際悪くもがく王子を、一頭の牛頭怪人が太い腕でがっちりと押さえこんだまま、まるで王国軍の兵士達に見せびらかすかのように高々と掲げるのでした。あきらかに、奪い返してみろ、と言わんばかりでしたが、王国軍の兵士達は果敢に立ち向かっていくどころか、猛牛の突進にただ蹴散らされるばかりでした。剣などあってもまるで刃が立たないとはこの事です。牛頭の巨人達は皆素手でしたが、その腕を少しばかり振り回しただけで、まるで巨大な丸太棒を軽々と振り回しているかのような具合でした。剣など簡単にはたき落とされてしまえば、兵士達は平手で払いのけられるか、つまみ上げられてそのままぽいとどこかへ放り投げられるか……巨人にしてみればちょっとした所作に過ぎないのでしょうが、人間達は散々振り回され叩きのめされて、這々の体で逃げまどうことしか出来なかったのです。
 そして、気がついてみれば人間達はもはや逃げることも適わなくなってしまったのでした。最初は多勢で無勢の巨人達を取り囲んでいるつもりだったのに、気がついてみると地面に這いつくばる彼ら兵士達のまわりを、一体どこから現れたのかそれまでに数倍する頭数の牛頭どもがすっかりと取り囲んでいたのです。
 その後兵士達がどうなったのかは、むしろあまり見たくなかったかも知れません。怪人達は一斉に兵士達に掴みかかり、軽々と持ち上げたかと思うと、手や足の先をそれぞれ別の怪人同士で掴んで、互い違いの方向に向かって力任せに引っ張るのでした。あわれな兵士が苦悶の叫びを上げたところで、リテルが水鏡の像から目を背けてしまったので、魔人もそれ以上その光景を映し出すのをやめてしまったのでした。
 代わって映し出された夜空には、禍々しい炎の帯が、暗闇にまざまざと浮かび上がっておりました。かすかに光跡を描いて飛び回っていたうちの一方が、今や巨大な火の玉になって夜空に我が物顔で悠然と浮かび上がっていたのです。
 ……それは丁度、先だってリテルを連れ戻すために敢えて村人達に姿を晒してみせた時の魔人の姿にそっくりでした。恐らくふもとの村人や兵士達がそれを見れば、ついに魔人が火の山を下りて、下界の民どもに今まさに襲いかかろうとしているのだ、という風に思ったことでしょう。
 それに対して、激しいぶつかり合いを繰り広げていたはずのもう一方は、変わらぬ小さな光跡のまま勢いを増すそぶりも見せず、それが互いに激突したところで、とても勝負になるとは思えませんでした。
 案の定、二度三度と衝突を繰り返すうちに、小さい方はついにはじき飛ばされ、山の斜面にかなりの勢いで突き刺さるようにして墜落してしまったのでした。
 空に残った巨大な炎の塊は、もやもやと人の顔のような形をかたどったかと思うと、まるで勝ち誇ったような笑い声を、下界に向かって遠慮なしにとどろかせたのでした。
 そんな炎の明かりに照らされた地上を見やると……一体いつの間に、どこから現れたというのか、異形の者達の大軍勢が、山裾の平地をわさわさと埋め尽くしていたのです。牛頭の屈強な巨人ばかりではありません。雄鳥のような立派なとさかを誇らしげに揺らすものや、巨大で鋭い牙や角を禍々しく輝かせるものなど、実に様々でした。首から下が人間と同じとは限らないものもいて、腰から下が馬や獅子の首から下の部分と似た形をしていたり、中には腕とも足ともつかない高々とのびた六本の節くれを地面に突き立てて、軽やかに地面をかけていく巨大な蜘蛛のような生きものもいれば、逆に蛇や長虫のように太く長いにゅるりとした身体をうねうねとくねらせて地を這うもの、背中にコウモリのような黒い翼をもってばさばさと忙しなく夜闇を飛来してくるものまで、その姿は実にさまざまで、それが次から次と現れてくるのでした。
「魔人様、どうしよう……」
 リテルは水鏡の像を見つめながら、震える声でそのように呟いたのでした。隣にいる魔人も、困惑したような表情で成り行きを見守るしかありませんでした。魔人が王子を引き渡したおかげでこういう事態になってしまったことを思えば、リテルがうろたえている理由も分かりますし、何となく責任めいたものを感じないわけにもいかなかったのですが、さりとてあの場で老人の申し出を断っていたら、その時はあの軍勢がこの洞穴に押し寄せて無理矢理にでもホーヴェン王子を奪っていくような成り行きになっていたかも知れません。そうなれば魔人はともかくリテルなどひとたまりもなかったでしょうから、必ずしも王子を引き渡したという魔人の判断が間違っていたわけでもないとは思いたかったのですが……。
 そもそもが、王子を引き渡したのはあの場でのリテルの身を案じてのことだった、というのはリテルにしてもよくよく承知していたことなので、魔人をむげに責めたてるわけにもいかず、彼女自身も引け目を感じずにはおれないのでした。それでも、異形の怪物の軍勢が向かう先には、リテル達開拓民のあの村があるのです。それが今まさに軍勢に踏みにじられようという、とても見ていられない光景でしたが……いざとなれば魔人もそこに赴いて、軍勢を食い止めなくてはならないことになるやも知れませんでした。なので、リテルが心配のあまり目を背けた後も、魔人は水鏡の前に張り付いて、事の成り行きを見守っていたのでした。
 これら一連の出来事に対して、フォンテ大尉の判断はある意味非常に素早く、かつ的確であったと言えるかも知れません。大尉自身は奪還部隊が不可思議な雷撃にあった時点で早々に村に逃げ戻っていたのですが、夜空にあの炎が浮かび上がったのちに異形の怪物どもの軍勢が村へと下ってくるのを見て、村を死守するでも山に残された友軍を救援するでもなく、早々にその場からの退却を決め込んだのでした。
「し、しかし大尉! あれを見て下さい。やつらはおそれおおくも王子殿下の身柄を拘束し、これ見よがしに高々と磔にしているではありませんか。我らは敢えて斬り込んでいって、何とあっても王子を奪回し申し上げるべきではないのですか?」
「お前の言い分は分かるが、我らでそれを成功させることが出来ると思うか……?」
「は……いや、それは……」
「確かに、我ら王国軍には屈辱的な光景であろうさ。だがあれを見る限りでは王子が無事なのだけは確かなようだし、それが確認出来ただけでも、今は良しとしておくより他になかろう」
 フォンテ大尉の言葉は実に薄情かつ臆病な物言いでしたが、結局それ以上強硬に反撃や奪還を主張する者は現れませんでした。そのまま天幕もたたまず、糧食などの荷物もそのままに、彼らは慌てて村を出て行ってしまったのです。
 これに唖然とさせられたのは村人達でした。軍隊が自分たちを守ってくれるどころか、我先にと真っ先に逃げ出してしまったのです。どうせ貧しい村ゆえ運び出す家財道具もなし、とばかりに兵士達に続いて村を飛び出していく者もあるにはありましたが、それでも村人の多くは逃げおおせるあてもなく、村に残ったまま成り行きを見守るものが大半でした。リテルの一家もそういう人々のうちでした。
 残された村人達はとにかく戸口を固く閉ざし、息を潜めているより他にありませんでした。隣人同士なるべく一つの建物に集まり、身を寄せ合って、一言も喋らず物音も立てず、灯火をともすこともなくじっと嵐が通り過ぎていくのを待っていたのです。
 嵐――そう、それは嵐にも似ていたかも知れません。異形の者達は整然と隊列を組むでもなく、さりとて暴徒のように押し合いへし合いして殺到してくるでもなく、不思議と歩調をあわせつつ、黙々と進軍してくるのでした。
 果たして言葉を解する者達なのかどうか分かりませんが、私語をするでもなく、何かを喚き散らすのでもなく……雄叫びやいななきのたぐいもなく、ただ不揃いな足音ばかりが、夜闇に高々と響きわたるのでした。
 やがて集団は村にさしかかりましたが……意外にも彼らの行状は大人しいものでした。立ち並ぶ家屋をさり気なく避けるようにして、村の目抜き通りを黙々と通過していくばかりでした。哀れな人間達を狩り立てたり追いつめたりして、一人残らず皆殺しにしてしまおうという惨劇は、実際には何も繰り広げられる事はなかったのでした。
 それでも、家屋の中にじっと息を潜めている人々は、そんな外の様子もろくに知ることもできないままに、ただ打ち震えていることしか出来ずにいました。リテルの幼い弟も、何が起こっているのかわけも分からないままに母親にすがりついていましたが、それが恐ろしい事態だと理解していないからなのか、あるいはあまりの不安がそうさせたのか、落ち着きのない様子でそろそろと戸口に近づいたかと思うと、ひょいと背伸びして戸板の隙間から外の様子を見やったのでした。
 見れば、村の見慣れた往来を闊歩するのはあきらかに見慣れぬ異形の怪物ばかりで、幼い弟は思わず悲鳴をあげそうになりました。ひっ、と短く喉が鳴ったところで、母親が慌てて背後から口を塞いで、そのまま戸口からさっさと幼子を引き離したのでした。そんなごく一瞬の事ではありますが、怪物どもに担ぎ上げられたまま運ばれていくホーヴェン王子と、思わず目が合ってしまった弟ではありましたが、まあそれはそれ。
 遠い山の洞穴から村の様子を見守っていた魔人は、いざとなれば素早く村にまで飛んで、せめてリテルの家族だけでもどこかへ……例えばこの洞穴にでも避難させるつもりでしたが、どうやら異形の軍勢は村で狼藉を働いたりはせずにただ静かに通り過ぎていくだけのようでした。もちろん、この村が無事だからと言って、この先々の他の村々や町もやはり無事である保証はどこにもありませんでしたが、それでもこの時ばかりはリテルもほっとして胸を撫で下ろしたのでした。張り詰めていたものが一気に緩んでしまったのか、その場にへなへなとへたり込んで、泣いているような笑っているような、えも言われぬ表情をみせたのでした。
 そうやってリテルが一息ついたところで……魔人がふと思い出したのは、先だって老人の行く手を阻もうとした、例の光る飛来物の事でした。
 あれは果たしてどこに墜落したものかと、水鏡の像で光跡が墜落した山の麓の辺りを映し出して探しているうちに、リテルも多少は気を取り直したようで、魔人と一緒に映し出された像を覗き込んだのでした。
 やがて像に映し出されたのは……山裾の斜面に立ち尽くす、一人の青年の姿でした。
 どうにもここまでの間に、火の魔人を除けば、暑苦しいだけの中年の王子やら、得体の知れぬしわしわの老人やら、半獣半人の異形の者どもやら……そういった諸々としか関わりが無かったというのもあるでしょうが、そこに立っているのがいかにも端正な顔立ちの涼やかな美丈夫である、ということにリテルも魔人も揃って不思議な違和感を覚えたものでした。
 彼は口元をややへの字に曲げて、若干途方に暮れた風ではあったものの、物静かな佇まいを崩さぬままに、山の斜面をゆっくりと下っていこうとしているところでした。
 その青年が、ふと何かに気付いたように、こちらの方を見やったのです。
「……!?」
 リテルは思わず魔人と顔を見合わせてしまいました。たまたま、本当に偶然だとは思うのですが、像に映し出されている人物と、水鏡ごしに視線が合ってしまったのです。
 まさか、とは思いますが、まるで見ているこちら側に気付いているかのように、彼はじっとこちらを注視しているのでした。
 いや……それは本当に気のせいだったのでしょうか。青年は本当に、まるでこちらの様子が実際に見て取れているとでもいうかのように、まっすぐにリテル達の方を見つめているのです。涼しげな眼差しにひたと見据えられて、何だかどきどきせずにはいられないリテルなのでした。
 と、その時――。
 その青年はしばしこちらをじっと見ていたかと思うと、手にした杖を不意にこちらに向かってかざしたのでした。
 何をするつもりなのだろう、と見ていたリテルの隣で……魔人が「まずい」と舌打ちするのが聞こえました。次の瞬間、青年が足を一歩、二歩と動かすと、まるでそこに見えない階段でもあるかのように、そのまま彼の身体は何もない空中へと浮かび上がったのでした。
 リテルがその光景にぎょっとしてただただ身を竦めている間にも、宙を駆け上がってくるその人物は一足飛びに見ているこちら側との距離を詰めて――こちらに向かって身を乗り出すかのような姿勢になったかと思うと、次の瞬間には目の前の水鏡のその水面自体にゆらり波紋が浮かんで、さらにその次には水面が不自然な形状に盛り上がったのでした。
「……!」
 リテルはびっくりして、思わず水たまりから後ずさりました。不自然にうねる水面は水しぶきが跳ねるでもなく、自然の法則を無視した形状にもこもこと盛り上がっていったかと思うと……そこから一人の人間の影が、ぬっとこちら側に現れたのでした。
 そこに立っていたのは、今しがたまで水鏡の向こうにいたはずの青年でした。水面から現れたにも関わらず、身にまとった長いローブの裾に水はねの一つも受けぬまま、いつの間にか彼は水たまりのすぐ側に、静かな佇まいでじっと立ち尽くしていたのです。
「……やれやれ」
 洞穴のあるじたる魔人は、またしても現れた招かれざる来客に、忌々しげに舌打ちをしたのでした。こうも次から次に、断りもなく誰かしらが足を踏み入れてきて、しかもその侵入をことごとく許してしまったとあれば、魔人としては面白くない気分になるのも致し方ないところだったでしょうか。
 しかもこの男、魔人の水鏡の術をそのまま通り道にしてここまでやってきたのですから、相応の術者として侮れない存在であることは疑いのないところでしょう。
 その青年はと言えば、手にした杖を握りしめたまま、洞穴の広間をぐるりと見渡して……リテルの傍らに彼女を庇うように寄り添う魔人の姿を見出して、おもむろにこのように言い放ったのでした。
「……知らない間に、お前のような者が住み着いていたとはな」
 物腰は柔らかく、口調も穏やかで、その佇まいは実に静かなものでしたが、何とも険を含んだ物言いでした。
 先だっての老人のように異形の手下を引き連れるでもなし、それと比べればずっとまともな来客ではあったのかも知れませんが……決して友好的とは言い難いその物言いから察するに、決して魔人と仲良くなりにここまでやってきたわけではないのは明らかでした。
 あからさまに敵愾心に満ちたこの来客に、魔人が何か言おうとしましたが……それよりも先に、リテルが口を開いたのでした。
「次から次に、何なのよ、もう!」
 半ばやけになってそう叫んだ言葉に、魔人は新たな侵入者をいざ迎え撃とうという気勢を、すっかり削がれてしまいました。やってきた青年の方も、年端も行かぬ少女にいきなりそのように言われて、少しは面食らった様子でしたが……多少眉の端を釣り上げた程度で、そのまま涼しい表情を崩さないのでした。
「そのように言うが、娘よ、そなたはどうしてこのようなところに居るのだ? 一体どこからどのように迷い込んできたかは知らぬが、ここは見ての通りあやかしの住処、そなたのような普通の人間がいるような場所ではないというのに」
 その言葉には、リテルではなく魔人が反駁しました。
「そういうからには、少なくともここのあるじが誰だか分かっていて、それでここに踏み込んできたんだな?」
 魔人の言葉に、青年はすぐには何も答えずに、しばし魔人をまじまじと見やっていました。
「……そのような物言いをするからには、貴様がここのあるじであると、そう言いたいのだな?」
「そうだ」
 魔人は短く答えます。いかにも非友好的な態度が気にくわないとは言え、相手の素性も目的も分からず、しかも先ほどの老人との経緯もあります。魔人はあくまでも慎重に、まずは相手の狙いを探ろうとしました。
 ですが、そんな局面でどうにも冷静でいられないのが、リテルでした。一度は魔人に遮られながらも、どうにも収まりがつかずについまくし立ててしまったのでした。
「あのね、私は迷い込んできたんじゃなくて、自分でここで来たのよ! そういうあなたは一体何者なの。一体、ここにどんな用があって来たのよ!?」
「私の名は、ルッソ」
 青年が、ぽつりと答えました。
 彼が口にしたのはその名前だけでしたが、リテルは何か思い当たる事があったのか、はっとした表情になりました。
「ルッソ? まさか、賢者ルッソ……さま?」
「お前、こいつを知っているのか?」
 魔人にそのように問われて、リテルは思わず返答に詰まってしまいました。
 火の山に住むという魔人バラクロア……その古い伝承は一応は王国全土に流布したものでしたが、リテル自身が幼い頃からよく聞かされていたというわけでは決してありませんでした。開拓民としてこの地方に移住してきたさいに、土地に伝わる昔語りとして多少小耳に挟んだ程度で、生け贄としてこの洞穴に遣わされるにあたって、土地の老人からあらためて聞かされはしましたが、おのれの行く末を案じるのに手一杯でそれも右から左に聞き流していたという次第です。彼女が覚えていたのは、かつて王国で悪さの限りを尽くした魔人バラクロアをこの火の山に封印したというのが、賢者ルッソなる人物である、と言うことぐらいでした。
 ここにいる当の魔人本人は、その時の話のように決して悪逆非道という風には見えなかったのですが、おのれを封印したのが誰それであるとか、そういう話をするのはやはり気に障るのではなかろうか、とついつい余計な気を回してしまうのでした。とは言え、恐る恐るといった体の彼女からそのような話を聞かされても、魔人はいかにも他人事といった風情で、ふうんと生返事をしただけでした。
 あまりに昔過ぎてもはや覚えてはいない、という事でしょうか。身に覚えのない事柄だからか、それこそまるで他人事のように、気に留めた風でもありませんでした。
 それでも、ルッソと名乗ったその青年に対して、警戒を解く風でもありませんでした。ルッソの方も魔人を用心深く睨み据えたまま、静かな口調で語ったのでした。
「もちろん、伝承の賢人といったところで不死身でもなければ不老不死というわけにも行かぬもの。私は魔王バラクロアを封じた初代のルッソから数えて、十六代目に当たる者だ」
「へえ……そうなんだ」
 ルッソの説明に、思わず相槌を打ったのは魔人ではなくリテルの方でした。
 そんな彼女を横目に、青年は話を先に進めます。
「そこな娘の話にあった通り、かつて賢者ルッソはこの火の山に、悪逆の魔王バラクロアを封印した。とは言え、いかな者であっても、人の身で魔王の息の根を止め、完全に滅ぼしてしまう事などとても容易に出来る事ではなかったのだ。それで彼は、おのれの後継者を育て、火の山の封印を守る役目を代々に渡って引き継がせ、世の平穏を後世に託した、という次第だ。……残念なことに、その封印は私の代で破られ、バラクロアは世に放たれてしまったのだがな」
 ルッソはそういうと……それまでの冷静な佇まいからすれば意外なほどに、わなわなと怒りで身を震わせたのでした。端正な顔立ちにさっと怒りの色が浮かび上がるのをみて、リテルは思わず魔人の背中に隠れてしまうのでした。
 そこまでの話にただ黙って耳を傾けていた魔人は、なるほど、と呑気な相槌を打ちました。
「つまるところお前は、おれを封印するなり討ち滅ぼすなりするために、わざわざこの洞穴にやってきたという事なんだな?」
 直接問うてよいものかどうか、という質問を、魔人はいかにも直接的に、ルッソに向かってぶつけたのでした。
 いかにもその通りだ、という返答が返ってくるものとリテルは思いましたが……実際の回答は、意外なものでした。
「お前が人々に害悪を為しているというのであれば、私の責務からすれば場合によってはそれも必要となろう。だが今のところ、お前のようなものにかかずらわっているような暇は、この私にはないのだ」
 そのルッソの言葉が意味するところを、リテルは一瞬理解しかねました。一体どういう事なのか、と釈然としない表情のリテルを後目に、魔人は大いに納得した、という様子で勝手にうんうんと頷いたのでした。
「……つまり、お前がいうところのその悪逆非道の大魔王バラクロアってのと、リテルがいうところのバラクロアっていうのは、別人、と言うことになるんだな?」
 魔人のその言葉に、リテルは思わずええっと声を上げてしまいました。
 ルッソはそんなリテルを見て……そして魔人を見やって、静かに呟くように言いました。
「……もしかして君は、この洞穴にいるこの魔人を見て、バラクロアだと思いこんでいた、ということか?」
「だ、だって! バラクロアというのは炎の魔人なんでしょう? この魔人さんだって、火の魔人じゃないの」
「それはそうだろう。ここは火の山だからな。妖躯のたぐいが何かしら住み着くとあれば、〈火の物〉以外のものが住み着くとは考えにくい」
「じゃあ……あなたのいう、本物のバラクロアというのは……」
 恐る恐る問うたリテルに、魔人が横から声を挟みました。
「それは別に、あらためて聞かなくても分かるだろ。さっきこの賢者さんは、そいつと一戦交えてきたんだからな」
 そう言われて、リテルはつい先ほど火の山の上空でぶつかり合っていた、二つの火の玉の事を思い出しました。そのうちの片方は例のあやかしの老人で、もう片方が今ここにいるルッソなのだとすれば――。
「あのお爺さんが、本物のバラクロア……?」
「その通りだ、娘よ」
 恐る恐る答えたリテルの言葉に、ルッソは苛立ちを隠しきれない声で肯定したのでした。
 ……考えてみれば、このルッソは封じるべき相手に立ち向かっていって、つい今しがた敗れ去ってしまったばかりなのです。彼が相当苛立っていて、魔人やリテルに対して決して気安くない態度を取るのもやむを得ない事のように思われました。彼としては毅然とした態度を崩さずにいるつもりでも、リテルや魔人の見ている前で敗北を晒してしまっているわけですから、忸怩たる思いを隠しきれずにいるのも無理はないのかも知れません。
 リテルはリテルで、これまでこの洞穴の魔人のあやかしの技をさんざん目の当たりにしてきて、これが仲間とあれば相当に心強いものだというのは重々承知していたので、それがそっくりそのまま敵となってそれに立ち向かって行かねばならぬとすれば、相当に大変なことのように思われました。まして、相手は異形の軍勢を引き連れた本物の魔物の王なのですから、その力がどこまでのものなのか、リテルごときにはまるで見当もつきませんでした。これまでに昔話として聞かされてきたような悪逆の数々が現実のものになるのだ、と言われても、途方に暮れるばかりでリテルには何も言えませんでした。
 そうこうしているうちに、ルッソはついと背を向けて、どこかに立ち去っていこうという素振りを見せました。
「ちょ、ちょっと! どこへ行くの……?」
「こんなところに長居をしている暇はないのだ。私はやつを追い、今度こそ討ち果たさねば」
「やめた方がいいと思うけどなぁ」
 魔人のいちいち気に障るような合いの手に、ルッソは静かに魔人を睨み付けるのでした。
「貴様はべつだん害はないと判断して放置するつもりだったが、やはりまずは貴様から片付けるべきなのかな?」
「おれは一度おまえの戦いを見ている。あれがお前さんの実力の全てってわけでも無いんだろうが……仮に全力を出してあの程度だったとしても、手抜きをしてしくじったんだとしても、どっちにしても結局そこまでの奴ってことだろう? てめぇなんざ敵じゃねぇ、とまで大きい事を言うつもりはないけどな。仮におれとお前がここで戦って、お前が勝ったとしても、お前にはそのあとにもう一回、大事な戦いが待っているんだろう? それだけの余力をちゃんと残せるのか?」
 そこのところをよく考えるんだな、と魔人は言い放ったのでした。
 魔人にしてみれば、べつだんルッソを挑発しているつもりはなくて、自分の住処に土足で踏み込んでくる者があるのに多少腹立たしい思いをしているに過ぎませんでしたが、傍目で見ているリテルにしてみれば、その発言がルッソの感情を逆撫でにしているのではないかと、気が気ではありませんでした。
 実際、ルッソはしばし怖いまでの形相で魔人を睨み据えていましたが……やがて苦笑いするかのように、表情をかすかに崩したのでした。
「確かに。いかにもその通り、おまえの言い分が正しい。ひとたび敗北を喫したのは紛れもない事実であるし、それが私の実力を端的に示しているのは否定できない。貴様の言うとおり、私は本来の敵のために、その力を充分に温存しておくべきであろうな。となれば私はまっすぐに、バラクロアを追うことにするよ。……ところで、娘よ、そなたはどうする?」
「……私?」
「いつまでもここにいても仕方なかろう。麓の村を異形の軍勢はただ通過しただけで何事もなかったようではあるが、様子が気にかからないわけではあるまい」
 確かに、それはリテルにも気がかりな事ではありました。水鏡の術でここから見ていたとは言え、やはり直接皆の無事を確かめるまでは不安でしたし、それに多分、王国軍も今に至ってこれ以上この洞穴を攻略しようという事もないでしょうから、村に帰るとすれば確かに今がいい機会と言えました。
 考え込むリテルに、魔人が言いました。
「帰りたかったらそうしろよ。おれの事は別に気にかけてもらわなくても、何ともないからな」
 そんな風に言うのですが、それはさすがに少し強がりというか、すねた言葉のように思われて、ここを離れてよいものかどうか、リテルは考えあぐねてしまうのでした。
「ね、ルッソ様。魔王の方のバラクロアは、どうして今になって封印を破ったりしたのかしら?」
「確かに、そういった事には何かしらもう少しはっきりとした前触れのようなものが、本来はあってしかるべきなのだろうがな。今回はホーヴェン王子殿下が魔人討伐の部隊をこの山に差し向けたという話を小耳に挟んで、私自身事の成り行きには充分に気を配っていたつもりなのだ。……しかしそもそも、はっきりと封印が破られたという兆しもないのに、どうして火の山に魔人が出た、という騒ぎになっているのか、そこが不思議と言えば不思議だった」
 結局のところそれは封印の魔王ではなく、ここにいる魔人の事だったのであり、半ば魔人騒ぎを焚き付ける首謀者となってしまったリテルとしては少々ばつの悪い話題ではあったのですが、ルッソはその点には深くは突っ込まずに話を続けたのでした。
「魔王とはいうが、決して万能の神々のごとき存在ではない。ここなる魔人のごとき妖躯のたぐいが、たまさか強大な力を手にして人の世に介入してきているという次第だ。……そういう意味では、ここな魔人も確かにそれなりに強い力を持っていると見える。そんな魔人が、わざわざ封印の地の直上で王国軍相手に力を使って暴れているとあって、何かしら力同士が共鳴するような作用が働き、それが急な封印解除に繋がったのかも知れない」
「えっと、それはつまり……」
「封印されていると言うことは、いくばくかの力を持ったまま縛られ臥しているという事であり、それを跳ね返すだけの力があれば、魔王の側が自ら封印を打ち破るというのも、無い話ではないのだ。元々魔王が封印されているという事そのものが、妖躯を引き寄せる作用もないわけではなし……バラクロアの力に引かれてこの魔人のようなものがこの洞穴に居を構え、この魔人の力に引かれて、バラクロアが自らの力で封印を打ち破った。いざ自由の身になれば、あとは息を潜めて静かに手勢を揃え、攻め上る好機をじっと窺っていた、という事なのだろう。……奴の息吹を観測するのに、山での今回の騒動がうまく隠れ蓑になってしまった、というのもあるだろうしな」
「それってつまり……ある意味では、魔人さまのせいでバラクロアが復活した、ということ?」
「直接的に何もかもそのせいだとは言わぬ。元々そのような事がないように、バラクロアに引かれてやってくる妖躯を細々と片付けるのも、代々のルッソの役割でもあったことだし……この魔人も、昨日今日からここにいるわけでもあるまい。私はルッソの名を引き継いでまだ年月が浅いが、たまたまこの魔人もまた眠っているか何かで息を潜めていたせいで、私にせよ先代にせよ、ここまでの力を持ったものを見落としていたのも、悪いと言えば悪いのだ」
「じゃあやっぱり俺のせいだって言っているんじゃないかよ。……それでどうする。俺をやっぱり倒すか?」
「バラクロアが甦った今となってはもう今さら意味がない。……ときに、バラクロアがホーヴェン王子の身柄を押さえていたが、あれはどういう事なのだ? もしかして、御身をみすみす引き渡してしまったのはそなたらの仕業ではあるまいな? かの御仁の身柄が敵の手にあっては、王国軍も無闇な反撃が出来ぬではないか」
「そ、それは……」
 リテルは助けを求めるように魔人を伺いましたが……魔人はむしろそこに責を問われる事自体大いに不本意だ、と言いたげに、不満げな表情を示すばかりでした。
 それを見て、リテルが不意に、こんな事を言い出すのでした。
「そうだわ! いっそのこと、魔人さまも一緒に山を下りて、バラクロア退治に力を貸してくれれば……」
「やだよ。どうしておれがそんな事をしなくちゃいけないんだよ」
「だって、今の話じゃ、やっぱり魔人さまや私に、色々責任のある話なんじゃないのかな……」
「お断りだ。おれは今まで、兵隊どもがおれのねぐらにむやみに近づいてくるから、仕方なく相手をしてやってたんだ。山を下りた先の話にまで、いちいち構っていられないよ」
「魔人よ。この私を実力不足となじるのであれば、むしろ手を貸して恩を売るくらいの事はしてくれてもよいのではないかな?」
「お前がいよいよ駄目だっていうときになったら考え直してやるよ。でも元々はおまえの役目じゃねえかよ」
「そんな!」
 リテルのそんな抗議の声にも、魔人はそれ以上聞く耳を持つでもなし、彼女はここに至っていよいよ困り果ててしまいました。決定的に彼女と魔人が仲違いしたわけではないにせよ、ルッソはもうここを発つと言いますし、それ以上魔人の説得に費やす時間はありませんでした。
 かといって、ルッソが去ったあとになって魔人に対してあれこれ言ってみたところで、繰り言としか聞こえなかったでしょうし、仮に王国がいよいよ駄目だという局面に至ればさすがの魔人も思い直してくれるかも知れませんでしたけども、ともあれ今このままではリテルにしてみれば去るも残るも、いずれにせよ気まずくならざるをえないのでありました。
「魔人さま、お願いです。もう一度考え直して、私たちに力を貸して下さい」
「……お前の頼みでも、それは聞けないな」
 魔人の声色は、きっぱりと断言するというには幾分迷いを含んだ調子でしたが、いずれにせよ拒絶の意志を示したのは事実でした。
「ではリテル。我々は行くとしよう」
 そのようにルッソが促す声に、リテルはまともに返事も出来ませんでした。ルッソはルッソでそんなリテルの様子を敢えて気にかける事なく、魔人に背を向けてすたすたと洞穴を出ていこうとするので、リテルは後ろ髪を引かれる思いで、やむなく後に続くより他になかったのでした。
 来たときは魔術で無理矢理に押し入ってきたルッソでしたが、帰りはリテルを同道するからか、徒歩で洞穴をあとにしていきます。そのリテルも魔人の力を借りて出入りする以外に、自分の足で洞穴を出て行くのはこれがここに来て以来初めての事でした。真っ暗な洞窟を、ルッソの後に続いてとぼとぼと抜けてそこから見下ろした光景は、景色も見えないような真っ暗闇が広がっているばかりでした。
「では、君を村まで送っていくとしよう。村の様子を少しみてから、私はそのままバラクロアを追う。……せめて王子殿下の御身だけでもお救い申し上げなければ」
「賢者さま、私に何かお手伝い出来ることはありますか?」
 唐突にリテルがそのように言い出すと、ルッソは意外そうな目で彼女を見返しました。
「どうしてだね。気持ちは嬉しいが、おそらく危険な戦いになるだろう」
「足手まといなのは分かっています。……でも、魔人さまが王子様を引き渡したのは、あのバラクロアの手下が洞穴であばれ出したら、私の身があぶなくなるから仕方なしにそうしたんです。……けっして、考えなしに決めたことじゃないんです。私のせいで王子さまの身があぶなくなって、王国が危機を迎えているんです。……そもそもあの魔人さまだって、私がかかわらなければ、だれにも知られることなくこの洞窟でひっそりとすごしていたわけだし……」
 切羽詰まった様子で訴えかけるリテルに、ルッソはやれやれと溜息をつきました。
「なるほど。そういうことならば分かった。お前に何かを手伝わせるわけにはいかぬが、せめて事の成り行きを見守ることの出来る場所までは連れて行ってやろう。……一度村に立ち寄って、父母に会っていくかね?」
「……ううん、たぶん皆そんなにひどい目には会っていないと思うし……」
 それに、はっきりとここで言葉にするのは避けましたが、きっとここで両親の顔を見てしまえば、遠くバラクロアを追いかけていく気持ちがくじけてしまうに違いない、という風にリテルは思ったのでした。

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