竜の爪あと その7

  7

 村に残っていた探索隊の残る一行は、やがて王都への帰途に着いた。
 アドニスと赤子については、彼女の申し出通りにその地に残ることとなった。彼女らの件については兵士達と現地の村人たちには、竜の亡骸を調査するためにベオナードとともに廃墟へ赴き、そのまま彼女だけ戻って来なかった事にしておくように、と固く言い含めるしかなかった。
 村人にはアドニスと赤子の面倒も任せて来た形になるが、兵士達が竜と対峙し、そして悪鬼の襲撃を受け満身創痍であったのを目の当たりにしていた事もあって、村の者たちからは強く拒む意見も出なかった。一足先に帰途についた兵士達にしても、糧食はすでに尽きかけ、部隊はただただ疲弊していたがために、そういったベオナードらの判断に表立って異論を申し立てる者もいなかった。
 無事に黒竜を退治したのに、誰の心も沸き立つことはなかった。失意のまま王都に戻り、ベオナードはアドニスが現地に残ることになった経緯も含めて、ヘンドリクス卿には全てをありのままに報告した。
「なんとも、後味の悪い話だな」
 そう言って老いた貴族はただただ深くため息をついた。
「私は出来うる事なら黒竜など見つからず、先の調査団は単に道に迷って迷子になっていただけで、オルガノフも含め一同が皆無事戻ってきてくれるのが一番だと勝手に期待していた。そんな風に笑い話で済めばそれで越したことはないと思っていたのだが……実際は全く逆だな。結局、オルガノフを煙たがる連中の願った通りの結末だったかも知れん」
「申し訳有りません」
「よい、ベオナードよ。そなたが謝罪することでもあるまい。オルガノフが王太子殿下の信任厚かったその理由の一つは、あやつの予言の的中率の高さゆえだった。正式に予言者として認定されていたわけでは無いにもかかわらず、年齢も若いのにそのように重用されて、魔道士の塔では相当に目の敵にされていたという話だった。……最初に調査団に抜擢された折にいったんは固辞したのも、こうなると自分でも分かっていたのかも知れん」
「……我々は、黒竜を討つべきではなかったのでしょうか?」
「魔道士の塔の連中にしてみれば、竜を見つけてこいと厄介払いをして、手ぶらで帰って来れば来たで左遷の口実にしたかったのであろう。それが実際に竜を見つけたとあれば……しかも竜と接触して力を得たとあれば、ますます厄介者であるし、逆に竜に取り込まれて王国の敵となれば、送り出した者の責任は強く問われかねない。……見つけたら逃げて帰れというわたしの命令には背いた格好になってしまったが、結果として竜が力をつけるのを未然に防いだ形にはなったという事ではなかろうか」
「……」
「ともあれ……こちらの諸々の思惑に合わぬからと言って黒竜が暴れるに任せておくなど、そういうわけにも行かなかったであろう。竜を倒したのも半ば成り行きに近い事でもあるし、幸運も重なったとはいえいずれにせよそなたらは最大限に善処してくれた」
 よくやった、と労いの言葉をかけられはしたものの、ベオナードの気は晴れなかった。
 そのヘンドリクス卿から念押しされたのは……マーカスたち犠牲者が辿った末路について、詳細を他言しないように、というものだった。
「竜と精一杯に戦って命を落としたのだ。仲間を傷つけたなど、そんな話など知りたくもないという者の方が多かろう」
 無論、アドニスと赤子の件についても、兵士達に口止めしたのと同様に砂漠で行方不明になったことにしておくようにとヘンドリクス卿からも重ねて念押しされたのであった。そういった気が滅入るような諸々は、ひたすらに無かった事にされてしまったのだった。
 一方で、彼ら探索隊が、竜の爪やうろこといった、竜がいたという証左を持ち帰ったのもまた事実だった。廃城に残された竜の亡骸を調べるための新たな調査団が王命により魔導士の塔の魔導士らによってすぐさま現地に送られたのだったが、彼らがたどり着いたころには亡骸はかき消えてしまっていたという。ただそこに血だまりがあったどす黒い跡だけが残されていたという話であったし、先に持ち帰った爪やうろこをことさら作り物だと疑っても仕方がない。ただただ竜が存在した、それを退治したという勝利の知らせのみに、人々は沸き立った。
 まったく意外な事ではあったが、それを一番よしとしなかったのが近衛騎士ルーファスであった。
 思えば事の最初から竜退治に固執し、おのが名を上げようという名誉欲のかたまりのように見えたその人柄も、いざもたらされた栄冠がたまさかの幸運の上に成り立ってるという事実に納得しかねたのだろうか、彼はほどなくして近衛の職を辞し、次第にその名を耳にする機会も無くなってしまった。
 それとも、竜の呪いがいずれ自分にも及ぶかも知れないという事実に耐えかねたのであろうか。
 ヘンドリクス卿に対してはマーカスらが悪鬼となって蘇った事実のみを告げ、その呪いが他の者にも及ぶかも知れぬ、というその場での推察に関してはベオナードからは努めて言及はしなかった。とはいえヘンドリクス卿もそのことには当然察しはついていただろう。
 ともあれ、竜退治で人々からちやほやとされるのは、近衛騎士でなくてもいささか窮屈に思えた事もあったので、ベオナードは北部の森林地帯の砦へと転任願いを出し、辺境勤務を経験したが、任期を終えると四年ほどで王都に呼び戻されることとなった。
 そんな田舎暮らしのさなかにも、彼の胸中からあの辺境の荒れ地での日々が離れることは無かった。アドニスとあの赤子は結局どうなったのか? あのあと無事に帰還した者たちも、その後つつがなく暮らしているのであろうか?
 そんなベオナードが王都に戻ってくると、まずもたらされたのは騎士ルーファスが病に臥せっているという噂話だった。ベオナードは取り敢えずも、王都に帰還したその足でただちに近衛騎士の見舞いに訪れたのだった。
 聞けば、ルーファスは近衛師団を辞したのち、独り身のままに郊外の屋敷で隠遁といってよい日々を送っているという。
「ルーファス様はどなたともお会いにはなりません。当家の主は療養中の身なれば、目通りはご勘弁を」
「病というのであれば仕方がないな。では、旧知のベオナードが会いに来たとだけ、取り敢えず伝言をよろしく頼む」
 そう言って立ち去ろうとしたが、ベオナードの名を出せば話はやはり別であった。特別に、と屋敷に通された彼は、病床に伏せるルーファスに対面して、おのが目を疑った。
 他言無用でお願いします、と使用人は言う。
「驚いたか。……そう、あのマーカスと同じ運命を、やはり私も辿ろうとしているみたいだ」
 床に伏せったルーファスがそう言って弱々しく差し出した右手が、とかげのような鱗に覆われているのがわかった。病床からよろよろと半身を起こした近衛騎士を見ると、肌の露出している両のてのひらがすっかりそのようなうろこ状に変容しているのが分かった。そして寝間着からちらりと見える首筋にも、同じようにうろこのようなものが見て取れた。相対しているその顔はまだ人間のそれであったが、そのような調子で身体のあちこちに変容が起きているようだった。
「どうしてだ? お前はまだ生きているではないか」
「使用人どもは私を医者に見せようとしたがな。こんな無様な姿、衆目に晒したくはない」
「人それぞれに、呪いを受ける強さが違うのであろうか。……あれから四年が経っているから、竜が死んですぐとはまた状況が違うのかも知れぬ」
「そのような細かい話、どうでもよい。私を見ろ。呪いから逃れられなかったこの醜態を」
「なぜだ。竜の爪を切り落としたぐらいで、そんな……」
「竜は、そうだな。だがオルガノフは別だ」
「オルガノフだと……?」
「まさか忘れてしまったわけではあるまい。竜が激昂したのは我々がオルガノフを殺したからだ。そのオルガノフを、実際に刃にかけ弑したのは誰と、誰であったか」
「……このおれと、おぬしか」
「そうだ。少し身体の調子を崩したかと思えばこのざまだ。正騎士よ、逆に問うが貴様は何ともないのか……?」
 それ以上両者首を突き合わせていたところで、何かしらうまい解決策が見えてくるわけではなかった。久々の来客でしばし話し込んで疲れが出たのか、ルーファスが激しく咳き込み出したので、そこでベオナードは屋敷を辞去した。
 他人事のように気の毒がってばかりもいられない。彼の話を聞く限りでは明日は我が身だ。ベオナードは王都での転任の挨拶もそこそこに、旅の支度をしてすぐにまた王都を出立した。果たしてどこを訪ね歩くべきか確たる思いがあるわけではなかったが、脳裏にすぐ思い浮かんだのはやはりその場所だった。
 かつて竜退治のために意気揚々と進んだ街道筋を、今度は一人で駆けていく。辺境域までずっと馬で駆け通し、やがてその村は見えてきた。
「やはり、まだここにいたのか」
 そこでベオナードが出会ったのは……開拓民の村で、畑仕事に精を出していたのは、かつてその地で共に竜を退治した、あの魔導士アドニスであった。
 そしてその畑のすみに座り込んでいる、幼子の姿。
「……あのときの赤子か?」
「ええ。見ての通り普通の人間の子供よ。あなた達が疑っていたような、化け物とは今の所違っているようね」
「その、化け物とやらについてだが……」
 ベオナードは自身が王都で対面した、近衛騎士ルーファスの現状について彼女に語って聞かせた。彼がひとしきり話し終えたところで、アドニスは渋い表情を見せた。
「……出来れば、今更そういう話をこんな僻地まで誰も持ってこなければいいのに、と思っていた」
「そりゃ、すまなかった」
「私が戻ったところでどうにかなるわけでもないでしょう」
「だが放っておくわけにもいかない。今から戻っても間に合わないかも知れないが、旧知の仲間の顔を見てやるぐらいの事は、してもいいだろう?」
 そう言われて、アドニスはしばし思案顔になったかと思うと、ややあって鍬を置いた。
 村人に事情を説明すると、アドニスは荷造りもそこそこに、幼子をともなってベオナードとともにその日のうちに村を出立した。わずかばかりの荷物と、例の緋色の剣を携えて。
 久方ぶりの、それはひっそりとした凱旋行であった。
 ベオナードからすれば往路は一人であったので馬を早掛けして五日ほどの道のりであったが、復路は幼子も一緒であり、おおよそ十日ほどの旅程であった。おおよそ二週間の間に果たしてルーファスがどうなったか心配ではあったが、アドニスを伴って屋敷を再訪してみると、近衛騎士は未だ存命であった。名のある騎士の邸宅を訪れるには、アドニスは砂ぼこりまみれのあまりにつつましい身なりだったが、その名を聞けば通してもらえぬ道理はなかった。
 かくして騎士ルーファスは、かつて自身が殺せと主張した幼子に、病床にあって再び相見えることとなったのだった。
 そこでベオナードは絶句した。
 前はまだ無事だった、近衛騎士の端正だった顔立ちが、今はすっかりうろこに覆われている。顔かたちはかろうじて近衛騎士の面影をとどめていたが、あいさつに軽く上げた手が、以前とは違い指の数が人間のそれとは違っているのが分かった。
「お前でも驚く事があるか、正騎士よ。……わざわざ魔導士を迎えに行っていたのか」
「お久しぶりね、ルーファス」
「驚いたであろう。ベオナードもお前も、いずれこうなるのかも知れぬから、よく見ておくのだな」
 蛇のような眼差しが、アドニスの傍らに立つ小さな人影を捉えた。
「やあ、可愛らしいお嬢さんだ。……あの時の赤子か? 大きくなったな。いくつになった」
「あれから四年たった」
「四年か。……ざまあない。今となってはこの私とどちらかが化け物であるか、分かったものではないな」
 ルーファスはそう言って、力なく笑った。笑ったまま激しく咳き込んで、苦しそうにしながら寝台に身を横たえる。
「念のために訊く。魔導士よ、私を元に戻せるか。呪いから解き放ち、この身を元通りによみがえらせられるか」
「……残念ながら、私にはその方法は分からない」
「そうか」
 そう返事をしたかと思うと、ルーファスは伏せったままもう一度激しく咳き込み、そのまま眠りについたのかそれ以上何も言わなかった。
 一同が生きたルーファスに会ったのはそれが最後だった。
 そのまま屋敷を辞去しようとした一行だったが、使用人に強く勧められて、その晩はルーファス邸の客人として逗留する事になった。旅の砂ぼこりを落とし一息ついたところで、気が晴れるわけでもない。夕食の席で弾む話題があるわけでもなく、用意された来客用の寝室にそれぞれ引き下がろうとした折に、あるじがすでに息をしていない旨使用人に告げられたのだった。
 数刻前に生きて顔を見たはずの病床にふたたび通されてみれば、屋敷のあるじは確かに物言わぬ様子になり果てていた。
「だれか、血縁のある者はいるのかな?」
 ベオナードの問いに、使用人……執事だという初老の男性が答える。
「ご両親はすでに亡くなって久しく、ご本人は独り身でございました。親類もおられることはおられますがここしばらくはあるじ自ら、そういった皆さまとのやり取りを遠ざけておられました」
 曰く、近衛騎士ルーファスは元々裕福な商家の生まれであったという。騎士となったルーファスに代わり生家の事業は父親の兄弟が引き継いだが、彼自身も独り身では持て余すような立派な邸宅とひとかどの財産を相続しており、屋敷には執事以外にも料理人や庭師など複数の使用人を抱えていた。おそらく竜退治の一件がなければ、ゆくゆくは伴侶を迎え順風満帆な人生を送っていたに違いない。
 そのような身の上であるから全く葬儀も何もしないわけにもいかず、何人かは連絡をせねば、という執事の言葉をベオナードが遮った。
「あのような状態ゆえ、しばし様子を見たい。待ってもらえるか?」
「しばし、とは」
「二日ほど」
 執事は一瞬黙り込んだが、ルーファスの最期の姿を見れば否も応もない。
 ベオナードらはあらためて近衛騎士の遺体と向き直る。
「アドニス、お前さんはどう思う?」
「すでにここまで容姿の変容が進んでいるから、四年前と同じ状況とは言えないわね。マーカスたちと同じ成り行きになるかどうかは分からない」
「待ってみよう。そのまま何事も無ければ、それに越したことはないのだが」
 そんな次第で、一同は前の晩に引き続き屋敷に逗留する事となった。
 ベオナードは、いつなんどき何があってもいいように、と、ルーファスの亡骸と同じ部屋でつきっきりで不寝番を買って出た。あまり愉快な役目とは言えなかったが、マーカス達のように蘇って人を襲うようなことになるおそれは充分にあった。
 アドニスもそうするべきと思ったが、幼子を付き合せるわけにもいかず、元と同じ客室を使わせてもらう事となった。
 落ち着かない夜だった。半ば隠遁生活を送り来客もほとんど無かっただろうに客間は掃除も行き届いていて、ここ数年辺境の農村で暮らしていたアドニスには身に余るほどに快適だったが、これから待ち受けている事を思えば気が気ではいられない。
 それでも、幼子を寝かしつけ、自身も添い寝しているうちにアドニスはいつの間にかうつらうつらと眠りに落ちてしまったようだった。
 真夜中、不意に響いた金切り声で、彼女は目を覚ました。
 飛び起きた瞬間に血の気が引く思いをしたのは、その金切り声が恐ろしげだったせいばかりではない。同じ寝台で寝入っていたはずの幼子の姿がどこにも無かったせいだった。
 慌てて振り向けば、例の緋色の剣は入口の扉のそばに立てかけてあった。慌てて剣をつかみ、金切り声の聞こえてきた方――つまりはルーファスの居室に向かう。
 部屋に足を踏み入れてみると、そこで寝ずの番をしていたはずのベオナードが剣を手にして、悪鬼と化したルーファスと相対していた。
 そう……ルーファスはやはり蘇ったのだった。うろこに覆われた姿にもはや在りし日の近衛騎士の面影はなく、ただただ巨大なとかげのような異形が二足で直立し彼らの前に立ちはだかるばかりだった。
「アドニス……!」
 化け物とにらみ合うベオナードが、苦境を訴えるようにアドニスにちらりと目配せを送ってくる。何を訴えようとしているのかは状況を見ればすぐに分かった。
 ベオナードと悪鬼の間に割って入るように、そこに娘の姿があったのだ。
 血の気が引く思いがして大慌てで駆け寄ろうとしたアドニスだったが、迂闊に悪鬼の前に出てよいものか、一寸の戸惑いがあった。それを冷静に考え直すだけの余裕があったのは、悪鬼がすぐにでも幼子に襲い掛かろうとせず、何故か両者黙って不思議そうに互いを見ているさまが見て取れたからだったが。
 とはいえ、いつまでも彼女を危険な怪物の前に晒しておくわけにはいかない。アドニスは剣を手に、意を決して一歩前に踏み出した。
 次の瞬間、悪鬼はアドニスの方に向き直り、強く威嚇するように金切り声を上げる。そして今度は明確に敵意をむき出しにして彼女に躍りかかってくるのだった。
 慌てて剣を抜こうとするが、向こうの方が早かった。剣を半身だけ抜いたところで、悪鬼の爪が切っ先を掴みかかり、力任せに彼女の手から鞘ごとむしり取って、あさっての方に放り投げたのだった。
 これについてはアドニスは剣士ではなかったから、扱いがたどたどしいからといって責められる筋合いではなかったかも知れない。だがマーカスらを灰に変えた肝心かなめの武器があっさりと奪われてしまった事は、アドニスを動揺させるに充分だった。
 その悪鬼の側にも一瞬の怯みがあった。力任せに剣をもぎり取ったその手のひらから白い煙が上がっていた。切っ先を掴んだ手指の表皮が、表面を軽く焦がしたようにじゅうじゅうと薄く煙をあげたかと思うと、次の瞬間には指先がぼろぼろと崩れ落ちてくる。
 その隙をつくように、慌ててベオナードが両者の間に割って入る。悪鬼は怒りに任せて正騎士に掴みかかろうとするが、うろこに覆われたその腕はすでに手首から先が消炭のようになってぼろぼろと崩れ落ちていくのだった。
 今のうちに、とアドニスは身をかがめて両者から一歩二歩引いて距離をとった。そうしながら彼女は部屋の中を見回し、投げ捨てられた剣の行方とおのが娘が今どこにいるのかを目で追おうとした。
 そしてその両方はすぐさま、同時に見つかった。小さな女の子が、あの紅い剣の柄をつかんでずるずると引きずりながらこちらによたよたと歩み寄ってきているのが見えたのだ。
 確かに、緋色の剣は普通の鋼鉄製の剣に比べれば幾分軽く、アドニスでも軽々と振り回す事が出来たが、子供の手に余るのは確かだった。
 その頼りない手つきに、あぶない、と思わず声を上げたアドニスだったが、意に介す様子もなく、幼子はおのれの身長ほどもある長剣を勢いに任せて思いっきり振り上げた。
 それが視界の隅に入ったのが、ベオナードと取っ組み合いをしていたはずの悪鬼が、異様におびえた様子で金切り声を繰り返しはじめるのだった。
 そのまま、切っ先は細腕では支えきれずに前方へ――それを手にしている幼子から見れば前方へ、そして悪鬼ルーファスの方へとゆっくりと傾いていく。
 ルーファスは今度はあからさまにその切っ先を目の当たりにして怯えていた。毅然とはねのけることも出来ずに、両腕を上げておのが身をかばおうとしたが、切っ先の平たい方の面がルーファスにこつんと当たったかと思うと、触れたところから順番に、ゆっくりと灰になっていくのだった。
 内側からゆっくりと燃焼して炭になっていくように、炎すら上げずにただただ灰になって崩れていく。
 アドニスとベオナードは、その一部始終を息を飲んで見守っていた。
 やがて、幼子は重い剣を支えきれずに床の上にごとりと取り落す。その物音で、傍観していた者たちは我に帰ったようだった。
 後に残ったのは、灰とも塵ともつかぬさらさらとした砂のような何かと、何が起きたか分からない様子でぽかんとした様子の幼い娘の姿がそこにあるだけだった。
 騒ぎを聞きつけて使用人たちが部屋に駆けつける。変わり果てたあるじがさらに変わり果てた姿を目の当たりにして、彼らは唖然とした表情を見せるばかりだった。
「申し訳ない。結局こうなるのを避ける事は出来なかった」
「……いいえ、きっとルーファス様もあのような姿を最期に残すのはよしとはなさらなかったでしょう。病魔に倒れたのは無念ですが、きっと皆様には感謝されているはず」
 そういって、執事は他の使用人たちに命じ、床に残された灰をひとかけらも残さず丁寧にかき集めさせたのだった。
 後日、その執事からルーファスの親類に話が回り、内々に葬儀が執り行われた。ベオナードとアドニスは執事から是非にと列席を求められたが、彼の親類にどのような顔を合わせたものかまるで見当もつかなかったので、これをやんわりと辞退した。
 やがてどこから話が伝わったものか、元近衛騎士ルーファスの死は竜を退治した英雄の死として王都で大々的に報じられ、国庫から費用を出してあらためて盛大な葬儀が行われたが、見送るアドニスらの心中は複雑であった。
 一連の騒動が片付き、アドニスは娘を連れて村に帰ろうとするが、それをベオナードが止めた。
「ヘンドリクス卿がお会いになるそうだ。その子と一緒に、軍務省に出頭してくれ」
 ベオナードに伴われ、アドニスは数年ぶりにヘンドリクス卿の執務室に足を踏み入れた。ベオナードやルーファスらと、竜の探索隊として顔合わせを行った部屋は何も変わり映えは無かったが、心なしかヘンドリクス卿はぐっと老け込んだように見受けられた。
「委細はベオナードより聞いた。なかなかに苦労をかけたな、魔導士アドニスよ」
「……恐れ入ります。彼の地にとどまってあるいは竜の事が何か分かるかと思いましたが、この子の世話で日々を追われてしまっております。魔導士などいう名は返上せねばならないようです」
「子爵家のお嬢さんが、魔導士になるだのと、一時はどうなるかと思ったものだがな。見事竜を倒し、今はすっかり母親の顔になっている」
「それはどうも」
「いずれにせよ、ルーファスの件はそなたの尽力で解決した」
「解決といってよいかどうか。ルーファスを消滅させたのは私ではなく、あの剣ですから」
「これからどうするね?」
「村に戻るつもりでいましたが……」
「近衛騎士ルーファスがあのような最期を遂げた。彼の部下である近衛の兵士たち、ベオナードが当時ともなっていた部隊の者たち、そしてベオナードとそなた自身……ルーファスと同じ命運を迎えるおそれがあるとなれば、そなたたち母子が遠く僻地にいるというのは少し困るのではないか」
「王都に居を構えろと?」
「そうしてはもらえぬか。……その子にしたところで、そなたらが最後にああなってしまうのであれば、きちんとした氏素性があった方がよいのではないか。とくに、そなたが死んでしまったあとはこの娘一人で生きていかなくてはならないわけでもあるし」
「ですが」
「その子の身の上については、わしが何とかしよう」
「では、お言葉に甘えさせていただきます。……この子と一緒に王都で暮らすとなれば、妹夫婦にもきちんとした説明をしないと」
 何気なしにつぶやいたアドニスの言葉に、ヘンドリクス卿は眉をひそめた。
「……誰からも聞いておらぬのか?」
「え……?」
 何を、と問い返したアドニスに対し、老貴族から告げられたのは本当に思いもよらない事実だった。
 アドニスが妹夫婦であるアンバーソン子爵家の屋敷を訪れたのは、その翌日の事であった。……いや、すでにそこに家屋敷は跡形なく、火事で焼け落ちたきり更地のまま放置されたままであるという、聞いた話の通りであった。
「この立地なら買い手はすぐにつきそうだけど。……まさか私が戻ってくるのを待っていたわけでもないでしょうに」
「いやいや、実際に待っていたんだろうよ。仮にも子爵家の所有地なわけだし、相続人に無断で勝手に売り払ったりするわけにもいかぬであろう」
 案内のため同行してきたベオナードにそのように言われても、アドニスにはまだ実感がわかない。
「相続人……つまり、私か」
「そうだな」
 二年前の話だという。かつてここに建っていたアンバーソン子爵家の邸宅は不慮の火災で焼け落ちてしまい、妹夫婦一家は炎にまかれ命を落としてしまったということだった。
 元をただせば彼女の生家でもあったわけだが、魔導士になるにあたって子爵位の相続権を放棄したさい、仮に魔導士として大成出来なかったとしてもこの家を頼ることはもうあるまいと、彼女の居室や私物もすべて引き払ってはいたのだった。
 彼女の父は、アドニスが魔導士の塔に入って一年目に死去した。母はそれ以前に姉妹がまだ幼いころにすでに病没して久しかった。妹が子爵家を相続するに至っていよいよ自分の帰る家ではないという実感を強く持ったが、こうやって何もかもが失われてしまったのを目の当たりにすると、そういった過去の出来事やその当時の決意までもが何もかも無かった事にされたような寂しさを覚えるのであった。
「子爵家の相続権を妹に譲って、父の葬儀にも妹の結婚式にも、子爵家の身内ではなく一介の魔導士として末席に参列した。縁を切ったわけでは無いからいつでも戻ってきてよいのだと、妹はそう言ってくれてはいたけれど……」
「そうと分かっていれば、火事があってすぐにでもお前を呼び戻しに辺境へ行くべきであった」
「あなただってその時は北部に赴任していたんでしょう? 塔では子爵家の出自はつとめて隠していたし、軍でもヘンドリクス卿ぐらいしか、私が子爵家の出身だとは知らなかったんじゃないかしら」
「一応、管財人とは連絡がついて、明日にでもお前さんに会いたいそうだ。……行方知れずでも一応はどこかで生きているものとして、いつか生還する日のために子爵家の財産はすべて保全されたままになっているとのことだ。……あと、アンバーソン家の子爵位についても確認したが、相続放棄はあくまでも爵位の継承権者であったお前さんと妹君との間の取り決めであって、子爵家の血筋に連なる者が存命であるなら、これから手続きして爵位を継ぐことは問題ないそうだ」
「わざわざ調べてくれたのね」
「おれではなく、管財人から聞いた話だ。……むしろ、問題は魔導士の塔の方かな? たしか貴族階級の者は本来は魔導士にはなれないと聞いているが」
「王家、貴族、武人、いずれか王国内で公的な地位のある者は魔導士にはなれない。……私は子爵家の相続を放棄するむね誓約書をかかされて、それで入塔が認められた。でも今更戻る気にもなれないから、そちらを除籍する事になるわね」
「それと……肝心なのがお前の娘についてだが」
「どうするの?」
「話を蒸し返すようで悪いが、火災で無くなったアンバーソン子爵一家の中には、当時まだ二歳のお前さんの姪もいた。……ヘンドリクス卿の提案だが、この子を、実は死んでいないことにしてはどうかと」
「なんですって?」
「アンバーソン家は郊外のアーヴァリーに領地があり、そこに別宅がある。そちらで病気療養していたという事にして、元々死んでなかったしずっとそこに住んでいたが、記録の方が間違っていた、という風に話をもっていくつもりだそうな。今回お前さんが辺境から帰ってきて、爵位相続の申請を出せば、そこで相続順位の確認のために妹夫妻側の血縁者について手続き上確認が入るはずで、その際に、事実と違う、と異議申し立てをすればよいという事だった。その場合、相続順位で言えば姪御さんが一位ということに本来はなるが、まあ未成年であるし、そもそも放棄していなければ本来の継承権者はお前さんだったわけだから、そこは問題にはならないであろう、という話だった」
「年齢で言えば確かに合致はする、か……」
「ただ、その場合亡くなった姪御さんの名を名乗る必要はある」
「姪の名前」
「覚えているか」
「えっと……」
 アドニスが困った顔で苦笑いを浮かべたのを見かねて、ベオナードは告げる。
「ユディス。ユディス・アンバーソンだ」

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