魔人バラクロア その1

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 これは火の山に住むという魔人バラクロアのお話です。
 まあ、火の山と言ってもそこは休火山でしかありませんし、実際にそこに住んでいるそのものにしてみれば、自分のことを魔人だと思った事もなければ、自ら何かしら名前のようなものを名乗ったことすらなかったのですけど。
 ともかくも、それはいつの頃からか、山の洞穴の中に住んでいました。程良い地熱と漆黒の暗闇がなかなかに居心地の良い場所でしたが、いつから、またどのくらい昔からそこにいるのか、それ自身も全く知りません。そんなことを気にとめたことすらありませんでした。
 ただ、山を下りればそこには人間というものが住んでいる事は知っていましたし、彼らが時折何を思ったのか、何もないこの山に登ってきては、この洞穴に迷い込んでくることもごくまれにないわけではありませんでした。山のすぐふもとには、近年になってそんな人間たちの住む集落が出来たことも、一応知らないことではなかったのです。
 ……いや、その認識は事実とは少し違っていたかも知れません。人間の村は何もごく最近出来たのではなく、実は一応のところけっこうな昔からその地にあって、細々と人々の営みは続いていたのでした。それがごく最近になって、入植者が増えにわかに活気づいていたのです。
 その理由は、王国が開墾のため開拓民をこの地に送って寄越したからなのですが、これがあとから思えばひどい手違いでした。
 その土地は昔から火山の地熱のせいもあってか、井戸や川の水が涸れることが多く、元々雨の少ないこともあって、作物を育てるには全く不適な土地だったのです。
 しかし、王命でその土地にやってきた入植者たちは、何も成果がないからといって今更どこに帰るわけにもいきません。そのうちに昔からの土地の者が、バラクロアの呪いだ、と騒ぎ出したのをきっかけに、迷信だとは思いながらも、古いしきたりを復活させて火の山へと生け贄を捧げてはどうか、という論調に次第に傾いていったのでした。
 無論、いけにえになるような年若い娘のいる一家にしてみればたまったものではありません。運悪くしてくじを引き当ててしまったリテルの一家は、それはもう悲嘆に暮れたものでした。
 いっそ一家で夜逃げでも、という話まで出ましたが、それで路頭に迷っては幼い弟が可哀想だから、と十三歳のリテルはけなげにも、一人火の山へと向かったのです。
 ……とは言え、肝心の洞穴の住人にしてみれば実に迷惑な話でした。どうやらそこにいた前の住人がそのようなことをしていたらしいのですが、それも本当に大層昔の話でしたし、彼自身はいけにえなどもらっても嬉しくも何ともありませんでした。年端も行かぬ少女が、灌木のまばらに立ち並ぶ岩場の斜面をとぼとぼと歩きながら次第に洞穴へと近づいてくるのを見て、「バラクロア退治」などと称してわざわざ火の山へとやってくる馬鹿者どもを追い返すのと同じように、この少女の事も追い返してしまおうとしたのです。
 しかし、これが逆効果でした。洞穴から突然噴き上がる炎を見て、リテルはその洞穴こそがバラクロアのすみかに違いないと――そして本当にそこにバラクロアが実在するのだと確信して、炎が途切れるのを見計らって洞穴の奥へと足を踏み入れてきたのでした。
 さすがに彼女を丸焼きにしてしまうわけにもいきませんので、黙って通してあげるしかありませんでした。
 一歩足を踏み入れると、洞穴は入り口からすぐゆるい下りの斜面になっていて、リテルは足を滑らさないように、恐る恐る暗闇の奥深くへと下っていくのでした。そんな彼女を怖じ気づかせようと、威嚇のための炎が途中で何度も吹き上がったりもしたのですが、リテルも散々肝を冷やしつつ、逆にその炎のあかりでもって足元を確かめながら着実に奥へ奥へと進んでいくのでした。
 洞穴は下り傾斜が終わったかと思うと、緩やかに左へと曲がっているのが分かりました。岩壁を手でつたってそのまま奥へと進んでいくと、リテルはやがて、ひらけた広間のような空間にたどり着きました。
「バラクロア……様?」
 おそるおそる暗闇に問いかけてみますが、返事はありません。
 自分の声の響き具合から、幾分広い空間であることは何となく窺い知れましたが、実際にどのくらいの大きさがあるのか、真っ暗闇なのでまったく見当もつきません。むしろ何もないところに唐突に放り出されてしまったような気がして、リテルとしては逆に不安になってきたりもするのでした。
 と、その時。
 突然、彼女の周りをぐるりと取り囲むようにして、巨大な火柱が地面から噴き上がったのです。
 急に目の前がまぶしくなって、ごうごうとものすごい音もして、リテルは怯まないわけにはいきませんでした。彼女はその場にへたりこんで、今にも泣きそうな顔になったかと思うと、まるでそれに気をよくしたかのように炎はなおさら盛大に吹き荒れるのでした。
(帰るがいい! ここはお前のような者が来るようなところではないぞ!)
 まるで地の底から響くような……いいえ、それはまさにある意味では地響きそのものだったのかも知れません。腹の底から震わせられるような大音声に、リテルは怯えきったままでいるより他にありませんでした。
 しかし、せっかくバラクロアが直々に彼女に声をかけてきているのです。ここできちんと用件を告げなければ、ここまで来た意味がありません。彼女は意を決してその場にすっくと立ち上がると、ほとんどわめき散らすような勢いで、思い切りよくまくし立てたのでした。
「私はこの山のふもとにある村の者です! バラクロアさまの生け贄になるためにここまでやってきたのです! 今更帰るわけにはいきません!」
 まるで宣言するかのようにそう言い切ると――ふいに、あれだけ荒れ狂っていた炎が、ぴたりと止んでしまいました。必死でわめき散らしていたリテルでしたが、自分がものを言った途端にそんな風になってしまったので、一体何事なのかとしばし呆然と立ち尽くしてしまいました。
 やがて……炎が止まって再び真っ暗闇の静寂に立ち戻ってしまったその広間の丁度真ん中あたりに、ふいに小さな、とても小さな灯火がぽつりと浮かび上がるのが見えたのです。
 その灯火にしても、何もない空中にふわりふわりと浮かぶようにして燃えているのですから、リテルは不思議さに目を見張りました。真下の岩場には水たまりというには少々たっぷりとした水場があって、その水面に灯火の照り返しがゆらゆらと揺れているのです。まるで夢の中にでもいるかのような、そんな不思議な感じがしました。
 そこでまた、先ほどの声がどこからか響きわたってきたのです。――今度は幾分かは、穏やかな口調で。
(いけにえ、と言ったか?)
「は、はい!」
(では問うが、お前は生け贄として、ここで何をこの俺にしてくれるというんだ?)
「そ、それは……バラクロア様は、生け贄をとって食らうのではないのですか? 少なくとも私は、そのように聞き及んできましたけど」
(では、とって食われたいのか、お前は?)
「いえ、それは……」
(そうだろう。俺も、別にお前をとって食いたいとは思わない)
「……食べないんですか?」
(そもそも、けものもろくにいないようなこんな丸坊主の岩山に住んでて、どんな食い物にありつけるっていうんだよ。おれがそういう肉食の生き物でも、こんなところに住み着きたいとは思わないだろうな。どうしてもお前のような人間を食らいたいのであれば、俺もこんな何もない洞穴じゃなくて、お前達人間が沢山住んでいるとかいう、街、とかいうところに居を構えるべきじゃあないのか)
「それじゃ、生け贄なんかとって何をするんですか……?」
 そのリテルの問いに、答えはありませんでした。
 いや――。
 不意に灯火が揺らめいたかと思うと、急に大きくふわっと吹き上がって……そのまま炎は小さく渦を巻き始めたのでした。
 一体何が起きるのか、とリテルが見守っていると、やがてその炎は、人の形をとり始めました。
 気が付くと、リテルの前に一人の少年が立っていたのです。
 唖然としているリテルに向かって、その少年が言いました。
「それは逆に俺がききたいな。生け贄なんかよこして一体どうしたいんだ、お前ら人間は」
 ぶっきらぼうに言い放った言葉に、リテルは何も言い返せませんでした。もちろん、問われた質問に対する答えが見つからなかった、というのもありましたが、むしろ何もないところにこうやって人間が現れたという、その不思議な現象の方に、思わず目を奪われてしまっていたのでした。
 喋った言葉の内容から察するに、この少年こそが、先ほどから彼女が言葉を交わしていた魔人バラクロアに相違ないのでしょう。
 リテルにしてみれば、急に実体を現した魔人を前にどのような言葉をかけたものか戸惑うばかりでしたが、そんな彼女の沈黙を、魔人は別の意味に取ったようで、少しばかり苛立たしげな口調でこう言いました。
「……俺はな、元々身体が無いから、こうやって人間の姿をするのも、意外に面倒なんだぞ。この格好が一番楽だから、そうしているだけなんだからな」
 急に拗ねたような事を言いだした理由に、リテルは程あってようやく気付きました。考えてみれば目の前にいるのは恐ろしい火の魔人だというのに、見上げるような巨躯というわけでも、禍々しい形相というわけでもなく、リテルと大して変わりがないくらい小柄で痩せっぽっちだったのです。先ほど吹き荒れていた炎から思えば、おそろしく醜い怪物のような姿をわざとして、リテルを驚かせてもよかったわけですから、彼女や村の人たちが元々考えていたような、恐ろしげな魔人などではないのかもしれないと思い、リテルは思わずほっとして、笑みをこぼしてしまったのでした。
「こら。笑うんじゃない」
 魔人も、少しへそを曲げてそう不平をいっただけで、リテルの態度をそれ以上たしなめたりはしませんでした。
 気が付くと、周囲の壁面にぐるりとたいまつのような灯火がともっていて、洞穴の中が見渡せるようになっていました。天然の洞穴とは思えないほど、そっくり綺麗にくりぬかれたように整った丸い形状の大広間でした。中央部分が少し低いくぼみのようになっていて、どこからか地下水が流れ込んでいるのか、広間の真ん中になみなみと水がたたえられているのが分かりました。
 その灯りも、暗闇ではまったく目の利かないリテルのためのものだったのでしょう。意外に親切な魔人の配慮にリテルはほっとして、ここにやってくる事になったこれまでの経緯を語りはじめたのでした。
 幼い頃に家族でこの地に入植してきたこと。作物が思うように育たず両親が苦労していること。今年の水不足はまさに干ばつと言ってもよさそうなほどで、いよいよ村もおしまいかもしれないこと……それもこれも火の山に住むというバラクロアの呪いなのだ、という話が大人達の間でまことしやかに囁かれていたこと――。
「その、バラクロア、というのが、俺のことなのか?」
「火の魔人は火の山の洞穴を住処にしている、と聞き及んでいます。ここがあなたの住処だというのなら、やはりあなたがバラクロア様なのでは?」
 魔人は、ちがう、とひとたびは否定しましたが……そもそも自分で自分の名前すら、これだ、と考え抜いて決めたことさえありませんでしたから、外の人間達が自分をどのような呼び名で呼んでいたところで、彼の預かり知るところではないのもまた事実でした。火の山に魔人が住んでいて、その魔人に用があってこの少女はここまでやってきたのですから、名前のことでこのリテルに文句を言っても仕方のないことだ、と魔人は思い直すことにしたのでした。
「だが、さすがに呪いというのは違うぞ。俺は別に何もしていない」
「……本当ですか?」
「疑ってどうする。大体この山が火山なのも、雨が少ないのも、別に俺のせいじゃないからな。それにおれはここで静かに暮らしていたいだけだ。人間などと関わりを持ったところで、面倒ごとが増えるだけじゃあないか」
 そういうと、魔人は足元の水面に――その時に初めて気付きましたが、魔人は先ほどからずっと広間中央の水場の真上に浮かんでいたのです――さっと手をかざしました。
 促されるままにリテルが覗き込んでみると、最初は彼女自身の顔が、広間の灯火に照り返ってぼんやりと映っているだけでしたが、やがてそうではないものが、そこには見えてきました。
 初めのうちは何が何だか分かりませんでしたが……やがてそれが、自分の住んでいる麓の村であることにリテルは気付きました。山裾の荒れ地に何軒かの小さな家が身を寄せ合うようにして立ち並んでいるのを、ずっと空の遠いところから見おろしている光景だったのです。当たり前のことながらリテルは空を飛んだことなど一度もないので、そのような高さと角度から、自分の村を見おろしたことなど一度たりともなかったので、すぐには気付かなかったのです。
 そもそもそのような光景が水面に写り込んでいることからして不思議としかいいようがありませんでした。ただただ驚くばかりのリテルをよそに、水面の像は村の建ち並ぶ家屋が視界いっぱいになるまで徐々に高度を下げていくのでした。
「お前の家はどれだ?」
 魔人に不意にそのように問われて、リテルは慌てて指し示しました。目抜き通りを指でなぞって、一軒、二軒と確かめるように数えて……思わず指先が像に触れれば、それは確かに水たまりで、波紋がやんわりと広がっていくのでした。
 けれど、それを不思議な手妻だと驚いていられたのはそこまでで、リテルが自分の家を指さすと、今度は別の意味で驚かされることになるのでした。魔人が次にそこに映し出したのは、その家の中にいる、両親の姿だったのです。
「お父さん! お母さん……!」
 それはもう、見てはいられない有様でした。さすがに夜も更けて弟はベッドに入って眠っていたのでしょうが、両親はと言えばおのが娘を生け贄として送り出したことを悔やみに悔やみ抜いて、さめざめと泣き崩れるばかりでした。母親はとにかく悲嘆にくれるままに泣き叫び、それをどうにかなだめようという父親の方も悔しさにわなわなと身を震わせていたのでした。そのうち、やはり娘を連れ戻しにいくべきだ、などと父親が言い出しはじめるのを聞いて、リテルは困惑するしかありませんでした。
「ほうら、どうせ迎えに来ると言っているんだ。お前もいい加減、ここを出ていくんだな」
 魔人はそう言いますが、リテルの態度は歯切れの悪いものでした。せっかく議論を重ねてようやく決めた生け贄が、すごすごと引き返してきたりしようものなら、村の人たちがたいそう気を悪くするのでは、などと案じていたのです。そういう心配をする余裕があったのは、今ここで目の前にいる魔人が思ったほど恐ろしげでもなく、酷い目に遭わされることもなさそうだ、と安心しきっていたからに他ならないのですが。今や自分の身など案じるまでもなく、水面にこうやって映しだされている両親だとか、村の様子の方が彼女にはよっぽど気がかりだったのです。
 やはり、魔人の言うとおりにした方がいいのだろうか……などと思案していると、急に魔人は目の前の水面の像を消してしまいました。
 見れば、もはや魔人はあの少年の格好をやめ、形のない炎の姿に戻ってしまっていました。
(どれ、出ていく気がないなら、俺が送り届けてやるよ)
「え? ちょ、ちょっと……!」
 魔人はリテルの返事を待ったりなどしませんでした。燃えさかる炎となった魔人は、そのままリテルにゆっくりと近づいてきて……何をするのかと思えば、不意にその炎がリテルの全身をあっという間に包み込んでしまったのです。
「……!」
 リテルは大いにびっくりしました。真っ白な炎が全身に唐突にまとわりついてくるのにまずびっくりしましたが、その炎は不思議なことに熱くも冷たくも、まったく何でもないのです。ただやはり火が燃えているのに視界を覆い尽くされて、とてもまぶしくはありました。一体何が何だか訳が分からず、困惑するままに、リテルはまぶしさのあまりにぎゅっと目をつむってしまいました。
 そして――。
 次に目を開けたとき、彼女はもうあの洞穴にはいませんでした。
 ついでにいうと、あの魔人の姿もいつの間にかどこにも見えなくなってしまっていました。気が付くと彼女は、先ほど魔人の術で中を覗き込んでいたはずの、自分の家の戸口の前にぽつんと立ち尽くしていたのです。
 結局のところ火の山の魔人は、彼女を生け贄にはとらず、無事に返してくれたばかりか、家の前まで律儀に送り届けてくれたことになるわけですが、今のリテルはそれを喜んだりほっとしたりするよりも前に、ただただ成り行きについていけずに、ただ呆然とすることしか出来ませんでした。
「……えーっと」
 何せ戸口の向こうからは、先ほどまで魔人に見せてもらっていた両親の泣き喚く声の、その続きがそのまま漏れ聞こえていたのです。このような局面に一体どのような顔をして、ただいま、と告げるべきなのか、さすがに困惑するしかありませんでした。
 そうこうしているうちに、戸口の向こうに人がいる気配にあちらの方で先に気付いたのでしょう。勢いよく開かれた扉の向こうから現れたのは、リテルの父親でした。
「リテル、お前……」
 はっとする父親を前に、リテルは最初びっくりした顔をして、その次にばつが悪そうに苦笑いを浮かべるより他にありませんでした。どうにかこうにか、ただいま、とだけ告げると、父親の方でも何か彼女に言おうとして……言いかけたその言葉を結局ぐっと飲み込んだのでした。
 そして彼は、何も言わずに、おのが娘をぎゅっと抱き寄せたのでした。
 もしかしたら父は、リテルの困惑した表情を見て、彼女が生け贄としてのつとめを投げ出して途中で逃げ帰ってきたのでは、という風に思ったのかもしれません。最初に言葉を飲み込んだのは、それを追及しようとして結局止めたということなのかもしれませんでした。それを問いただすより、彼女が無事に戻ってきた、ということの方が彼にはとても意味のあることのはずでした。父のみならず、母もリテルの無事な姿を見て、今度は歓喜にむせび泣いて、彼女の帰還を喜んでくれたのでした。
 火の山での出来事をどう話したものか、とリテルは考えあぐねていました。そうやって何か言いたげなさまは、もしかしたら途中で恐れをなして引き返してきたことのいいわけを今まさに考えているかのように見えたのかもしれません。そんなリテルに両親はただただ、何も言わなくてよい、ずっとここにいてよいのだ、とばかり何度も何度も繰り返すのでした。
 誤解をどうにかしてとくべきでは、と思ったリテルでしたが、とりあえず両親はリテルの帰りを大変に喜んでくれていますので、当面そういうことにしておいてもいいかな、と思い直したりもしたのでした。
 ですがリテルや両親はそれでいいとして、さすがに他の村人たちまで、それでよい、というわけにはいかないのでした。
 リテルの家が騒々しいのに、まずは隣家の人が気付きました。何事かと戸口を覗き込んでみると、火の山に向かったはずのリテルの姿がそこにあるではありませんか。それからあれよあれよという間に、リテルが山から帰ってきたという話は村中に広まってしまい、人々はその話の真偽を確かめるべく、殺気だった様子でリテルの家に詰めかけてきたのでした。
「おい、生け贄の娘がここにいるというのは、どういうことなんだ?」
「まさか娘かわいさに、連れ戻しちまったのか?」
「おそれをなして、逃げ帰ってきたんじゃあるまいな?」
 最後のが一番真相に近いと言えば近いのですが……ともあれ、そんな調子で村人達はリテルや両親を責め立てたのでした。まさか、生け贄などいらないから帰れ、とそのバラクロアに断られてしまったのだ、などとこの場で言い張っても、到底聞き入れられる雰囲気ではありませんでした。父親は父親で、生け贄を決めるくじを不幸にも見事引き当ててしまい、おのが娘を黙って行かせてしまったことはやはり間違いだったと思い直したのでしょう。のらりくらりと下手ないいわけなどせずに、毅然とした態度で、娘が無事に戻ってきたからには二度と生け贄などには行かせない、ときっぱりと言い放ったのです。
 これにはもちろん、公平に決めたくじに今更文句などつけるな、と野次が飛びます。年頃の娘がいて、そのくじに一緒に参加した家族にしてみれば、皆そのように思ったことでしょう。
 いずれにせよ、話し合いで解決するような雰囲気では到底ありませんでした。普段は決して悪い人たちではないですし、生け贄などという迷信を簡単に信じるような人々でも無いはずでしたが、やはりそれだけ干ばつのせいで切羽詰まったところまで追いつめられていたのでした。リテルを生け贄に送ったところで本当に状況が良くなる保証など何もなかったのですが、そんなものにでもすがりつかなければやっていけないほど、村は困窮していたのです。
 何としてでも、それこそ力づくでもリテルを生け贄として再び送り出そうと、村人達はリテル一家ににじり寄るのでした。中には棒きれなどを手にしている者もいたりして、リテル本人はともかく父親あたりが娘をどうしてもかばい立てするということになれば、どうなるのか分かったものではありませんでした。
 やれやれ……と、ここまでの成り行きを見てため息をついた者が、一人だけおりました。
 そう、それはリテルを親切にも村に送り届けたその当人である、例の火の山の魔人でした。
 一度自分の洞穴に戻った魔人は、リテルに見せていたのと同じ例の水鏡の術を使って、村の様子をそれとなく見守っていたのでした。今にも群衆がリテル一家に襲いかからんというその局面で、魔人は意を決して、村へとひとっとびに向かったのでした。
 それを地上で見ていた者の目には……それはいかにも恐ろしげなものに見えたに違いありません。今度は魔人はこっそりとではなく、堂々とその姿を露わにして、火の山の方から麓へ向かって飛来してきたのでした。まるで巨大な翼を広げるかのように、炎の幕をめいっぱいに夜空に広げ、一直線に村を目指してやってくるのです。それを見やって、人々はただひたすらに恐れおののくより他にありませんでした。
 そして例の、リテルだけは耳にしたことのある、地の底を震わせるような不気味な声でもって、上空から人々に向かって言葉を投げかけてきたのです。
(愚か者の人間どもめ! お前達はそんなに、命を粗末にしたいのか!)
 声と共に、炎のかたまりはゆっくりと村に向かって下りてきます。それが一瞬、手足のある人の形のように見えて――それがまるで巨大な腕を振り上げて襲いかかってくるかのように見えたので、人々はその炎のかたまりこそが、火の山に住むという魔人バラクロアその人であることを、まざまざと思い知らされたのです。
(くれるというのならば、その娘の命、この俺がもらい受けてやろうぞ!)
 魔人はそういうと、炎の腕をリテルに向かって伸ばしました。巨大な炎のかたまりが眼前に迫って、人々はそれこそ火の粉を散らすように散り散りに逃げまどいます。リテルだけは、あの炎が熱くも冷たくもなんともないことを知っていたので――無論多少の不安はありましたが、ここは魔人を信じることにして――その場にただ毅然と立ち尽くすのでした。
 立派だったのはリテルの父親で、娘が足がすくんで動けないと知ると――まあ普通に考えればそのように見るのが妥当でしょう――娘を庇うべく、しかと抱きかかえたままおのが背を炎の方に向けたのでした。
 次の瞬間、二人は炎に包まれますが、リテルの見立て通りそれはやはり熱くも冷たくもなんともないのでした。きょとんとする父親をよそに、リテルの身体だけが、ふわりと浮かび上がってその場を離れていきます。
 残された村人達が見たのは、夜空に大きく弧を描いて、そのまままっすぐに火の山へと引き返していく、巨大な火の玉の光跡でした。結局その場に残されたのは、火傷も何もないままの、無傷の父親だけでした。
 時間にしてみればごく一瞬の、短い間の出来事でした。集まってきていた群衆の、誰かがぽつりと呟きました。
「バラクロアだ……」
 それはあまりに分かり切った事でしたが、実際に誰かが声に出してみて初めて、人々は事の重大さにようやく気が付いたのでした。
「バラクロアだ!」
「本当にいたぞ!」
「大変だ! これは本当に、大変な事だぞ!」
 リテルを生け贄に送っておきながら、今更のように人々は右往左往を始めたのでした。そんな中、リテルの父親は呆然とその場に座り込んだまま、動けずにいました。魔人の炎には彼もひとたび身を包まれたはずなのに、何ともありません。その事を気に留めて、彼を省みるものは今のところその場には誰もいませんでした。彼自身、娘がその場から居なくなったことで慌てふためき始めるのはもう少しあとになってからの話で、今は自分が何故無事だったのかと、ただただ首を傾げるばかりだったのでした。

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