竜の爪あと その8

  8

 話の上で、その名前が出るに至って――。
 それまで正騎士ベオナードの話を間抜けな相槌を打ちながらじっと聞き入ってたマティソン少尉は、思わずその名前の主……この部屋の主でもある、ユディスの方を見やった。
 気がつけば、ユディスは腕組みをしたままベオナードとマティソン少尉の前に仁王立ちになり、恨みがましい眼差しでじっと二人の方を睨みつけていた。
 言い知れぬ身の危険すら感じたマティソン少尉だったが、彼女の非難の矛先はまずは語り手であった正騎士に向けられた。
「ベオナード卿」
「ん?」
「そこまで彼に話をする必要あった? 彼がここに何をしに来たのか、話し込んでいるうちにすっかり忘れてしまったようね」
「む、ちと喋り過ぎたか?」
 彼女の剣呑な態度に気が気ではないマティソンを尻目に、正騎士はなんら悪びれもせず、豪快に笑い飛ばすのだった。
「いやいや、そもそも少尉、あんたが何しに来たのかをおれは聞いていたかな……?」
「今丁度お話にあった邸宅火災のさいの異議申し立ての件で、ユディスのこのたびの爵位相続にもしかしたら手続き上問題が生じるかも、ということで、上司から指示を受けて彼女を王都に留めおくようにと言われて来たのですが」
 簡潔に事実関係を説明すればすむ事なのに、声が裏返りそうになりながらしどろもどろの口調になってしまうマティソンだった。
「ふむ……となると、少尉」
「ええ。今の話だと、ユディスには本来はアンバーソン家の相続権は無い、という事になりますよね? いや、それどころか、そもそもユディス・アンバーソンという名前ですらないわけで……あれ?」
 マティソンは頭の中で考えを組み立てながら順序立てて言葉に並べていく中で、唐突に途方に暮れてしまった。
「……それじゃ君は、結局何者なの、ユディス?」
 おそるおそる質問したマティソンだったが、当のユディスがまるで眼力だけで彼を殺そうと試みているかのごとく鋭い目で睨み据えているのをみやって、訊くべきではなかった、しまった、と後悔した。
 そんな両者のやりとりを見かねて、ベオナードが告げる。
「多少は疑わしいところもあるかも知れんが、その当時その内容で届けが受理されている以上、現在のところこの王国では彼女はアドニス・アンバーソン子爵の姪、ユディス・アンバーソンだ。それは間違いない」
「子爵家令嬢にはとても見えなくて、ごめんなさいね」
「いや、そういう意味では……」
 ユディスの機嫌を損ねてしまったと大いに慌てたマティソンだが、とにかく話を先に続ける。
「いずれにしましても……結局現在のところ先だって死去したアドニス・アンバーソン殿がその時点で子爵家を継承したということは、そこで魔導士の塔からは除籍になった、ということですね」
「うむ。そもそも辺境域に出かけたまま行方不明という扱いだったから、塔に帰還の報告をし、正式に除籍したのちに、ここにいるユディスについてヘンドリクス卿の提案どおりに書類手続きをして……ええと、それからどうしたんだっけ」
「アーヴァリーの領地の別宅に移ったの。魔導士ではなくなったけど研究は一人でも出来るからといって、本を取り寄せては書き物をしたり、時には一人だけでひそかにあの廃墟へ赴いて何かを調べ歩いたりなどして過ごしていた。私は母……じゃない、叔母の方針で十五になると王都の寄宿学校に入れられて、そのまま王立大学に進学し、卒業した後もアーヴァリーには帰らずにずっとこの下宿で一人暮らしをしていた、というわけ」
「ヘンドリクス卿からは王都を離れぬようにと言われたが、アーヴァリーであれば王都からもほど近いからな。焼け落ちた邸宅を二人住まいのために再建する気にもなれなかったのだろう」
「卒業後にアーヴァリーに戻らなかったのはどうしてです?」
「私は帰りたかった。でも、母が……叔母があまりいい顔をしなくて」
「……いずれにせよ、ユディスの身元に疑いを挟んだのはなかなか鋭いと言えるが、それ以上詮索しない方がいいかも知れないぞ。相手は爵位持ちの貴族であるし、どこからどんな横やりがあったものかわからん」
「ベオナード卿が誰かに何か口添えをされるということですか?」
「俺ではなくて、ヘンドリクス卿が存命の間に色々手回しをしてくれているからな。卿も故人とはいえ長く軍総監の任にあって、大なり小なり卿に恩義があるという御仁もあちこちに沢山おられるであろう。憲兵風情が下手に嗅ぎ回るようなことをして、ある日突然上官とやらに、そんな指示は出してないなどとはしごを外されたら、お前さんは相当な窮地に立たされるぞ」
「そ、そのように言われましても」
 あからさまに狼狽する少尉に、ユディスはうんざりした表情を見せると、ため息交じりに告げた。
「とにかく、もともと非番だったというなら少尉はもう家に帰った方がいいわね。ここから先は何が起きても、私たちは何の保証も出来ないから」
「どういう事です?」
 マティソン少尉がそう問い返した次の瞬間――。
 遠くで、悲鳴のような金切り声が響いてくるのが分かった。
「来た」
 ユディスが短く呟いた。
「来たって……何が?」
 少尉の質問にユディスもベオナードも何も答えない。少尉自身も、何も本気で分からないから質問しているわけではなかった。
「その……彼女は」
 マティソンは震える声で問う。
「ええと、彼女、という言い方であっているとして、ここに来るんですか。どうして? いったい何をしに?」
「分からない」
「僕は今からでも逃げた方がいいですか? ここの管理人さんは? 他の部屋の住人は? 隣にもう一部屋ありましたよね?」
「お隣は空き部屋だから気にしないで大丈夫。無関係な者は襲わないと思う。でも現れたその場に居合わせたら、その限りかどうかはわからない」
 ユディスがそう説明したと当時に、強い風がごうと吹いて、窓ががたがたと耳障りに強く音を立てるのが分かった。
 マティソンは無言のまますがるようにユディスを見やり、次にベオナードを見やる。
 その時だった。玄関のドアを軽くノックする事が聞こえた。
「ユディス、大丈夫ですか? 急に天気が――」
「アンナマリー! 部屋に戻って鍵をかけて! 風が収まるまで絶対に出てきてはだめ!」
 戸口から聞こえてきた声に、ユディスは乱暴に怒鳴りかけると、大股で玄関に歩み寄り、ドアをあけた向こうに立つ老婦人に向かってもう一度同じ言葉をものすごい形相でまくし立てた。
「ユディス、一体何を……」
「早くッ! 言う通りにして、絶対に朝まで部屋を出ては駄目」
 面食らったアンナマリーが黙って引き下がったのは、ユディスの常軌を外れた態度のせいか、彼女が手に握りしめていた剣のせいだっただろうか。老婦人が引き下がっていくのもそこそこにユディスは後ろ手にドアを乱暴に閉めると、マティソン少尉をちらりと見やり、そしてベオナードをじっと見やる。
「俺は何もしてやれん。しっかりとやるんだぞ」
「分かっている」
 そういうとユディスは慎重に剣を抜き放つ。ベオナードの昔語りに散々言及された、血のように真っ赤な刀身が今この場であらわになった。
「何もしてやれないって……どうしてですか。なぜユディスが」
「いいから少尉、黙って見てなさい。……魔道士アドニス・アンバーソンの、その本当の最期の時を」
 もう一度風の音がごうと吹き付ける。いや、今度はその風の音に交じって、何とも名状しがたい、悲鳴に似た金切り声がどこかから響いてくるのが聞こえた。
 それは先ほどよりもずっと近いところから聞こえてきた――ように思えた。
 もはや誰も口をきかない。風の音はいよいよ耳障りに唸るような音色に変わり、窓枠が先ほどからカタカタと苛立たしげな騒音を鳴らし続けていた。それが次第にがたん、がたんと大きな音になっていったかと思うと、ほどなくしてまるで誰かが外から叩いてでもいるかのようなバンバンというけたたましい音に替わっていく。
 いや――。
 みれば本当に、窓の向こうに薄ぼんやりと人型の影が浮かんでいるのが見えた。
 ひっ、とマティソンは情けない悲鳴をもらす。
 次の瞬間――ばん、とひときわ大きな音がして、一拍間を置いたその次には、けたたましい音を立てて窓ガラスが破られたのだった。
 風が一挙に室内になだれ込んでくる。背後で雷鳴がとどろき、窓枠を何かの影がゆっくりと乗り越えてこちらに――三人のいる室内へと侵入してくるのだった。
 マティソンは二回目の悲鳴をどうにかしてぐっと飲み込んだ。そこに立っていたのは、そこまでに聞いた話にも合致しない、見た事もない異形の者だった。
 身にまとった白い布切れは死に装束だっただろうか。破れた袖口を風にひらひらと漂わせながら、幽鬼のごとくうっそりとした足取りでこちらに一歩近づいてくる。全身を覆うのはやはりうろこなのだろうか、えも言われぬ怪しげな光沢を放つ手足の表皮は雪のように真っ白だった。
 蛇のような細長い光彩の眼差しで、異形の怪物はこちらをじっと見つめていた。息をつめて見守るマティソンたちをまるで威嚇するように、目の前でこの世の終わりのような悲しげで、そしてけたたましい金切り声を上げる。それは長く長く響き渡って、目の前に立つ人々の心胆を奥底から震え上がらせるのだった。
 いや、恐れおののいて震えていたのはマディソン少尉ただ一人だったかも知れない。後ろに立つベオナードは悠然と構えていたし、先頭に立つユディスは血のように赤い剣をまっすぐに構えたまま、怯みもせずに怪物に真正面から相対するのだった。
 そんなユディスを威嚇するように、怪物はもう一回だけ金切り声をあげる。ユディスは固唾を呑み、おのれを奮い立たせてどうにかその場に踏みとどまる。
 傍目で見ていれば、彼女だって平然としているわけではなく、やはり内心では恐れを抱いていたのかも知れない。それでも彼女は泣きごとも言わず、剣を手に悪鬼に向かってじりじりと間合いを詰めていくのだった。
 そうやって両者はしばしにらみ合う。先ほどまでの話を聞いていなければ……いや、聞いていたとしても、それが元々は化け物などではない、普通の人間の成れの果てなのだとまるで想像だに出来なかっただろう。次の瞬間、怪物は爪をふるって、一挙に間合いを詰めてくる。
 ユディスはさっと横に身をひるがえし、一歩脇に引いた。狙った獲物が視界からそれたかと思うと、怪物が次に見定めたのはとっさのことに泡を食い、立ちすくんだままのマティソン少尉だった。あっという間に間合いを詰められると、少尉はものすごい膂力で思い切り横殴りに殴りかかられ、床に投げ出されてしまうのだった。
 その爪が、床に倒れ伏したマティソンにさらなる一撃を繰り出そうと振り上げられたとき、ユディスが間に割って入り、化け物の眼前に剣をかざした。
 化け物はユディスとの間合いを詰めようとするが、やはり剣に怯えているのか、どう接近したものか考えあぐねている様子であった。
 だが、ただ黙って手をこまねているだけではなかった。ユディスもすぐには気付かなかったが、いつの間にか白い悪鬼は、その口を動かして、しゃりしゃりと金属片をこすり合わせるような不快な声で低くうなるように何事かをつぶやいていたのだった。
 悪鬼の両手が、青白くぼんやりとした光を放ち始める。
「まさか、呪文を詠唱した――!?」
 ユディスが慌てて引き下がろうとするが、化け物が一歩踏み出してくる方が早かった。化け物は青白く光る手でひとおもいにユディスの剣に掴みかかり、脇へ押しやったかと思うと、空いたもう一方の手を、手刀のようにしてユディスの右腕に振り下ろしてきたのだった。
 固い棒切れで殴られたかのような重い鈍痛が走って、ユディスは思わず剣を取り落としてしまう。彼女が身を守る武器を手放してしまったとみるや、悪鬼は両腕でユディスの首に掴みかかって来たのだった。
 掴まれた勢いのままユディスは後ずさったかと思うと、部屋の柱に背中から押し付けられた。そのままものすごい膂力で締め上げられると、彼女はそれを振り払うべく、無駄を承知で悪鬼の両腕を掴んだ。そもそもが冷たいうろこに覆われた表皮を無造作に素手で掴んでよいものか抵抗はあったが、そのまま首を絞められるに任せておくいわれもない。ユディスにはどうにかして悪鬼の腕をこじ開ける必要があった。
 無論、彼女とて鍛え上げた屈強な戦士ではないから、必至に力を込めたところで限界はあった。それでも表情を苦悶にゆがめながら懸命にあらがおうとする中、いつの間にか今度はユディスの手がほのかに輝きを放ち始めるのだった。
 ユディスが両手にそっと力を込めて悪鬼の腕をおのれの首から引き剥がす。それまで相当な膂力で締め上げられていたのに、ひどくあっさりと脇に押しやることが出来た。
 ユディス自身も半信半疑だったが、悪鬼は押しやられた腕をだらりと下げたまま、悪鬼は無防備に直立した状態となった。
 やすやすと拘束を解いたその次には、ユディスは右手をまっすぐ前方に伸ばし、相手の胸部をとらえる。かろうじて人間の乳房を想起させるようななだらかな隆起の、その少し上の辺りの表皮のうろこをそっと指先で押すと、彼女の指先が胸部にめり込んでいく。
 それはまるで泥細工の中に腕を突き入れるような――いや、それよりもなお抵抗なく、すっと指先は差し入れられていくのだった。それはまるで水の中から何かを掬い上げるように、ユディスは指先に触れたかたまりをそっと掴んで、自分の側に手繰り寄せた。
 彼女が悪鬼の身体からひきあげたもの……それは、心臓であっただろうか。
 そこに至ってユディスの腕はいよいよ赤く輝いて、手にしたかたまりもまた次の瞬間真っ赤な炎に包まれる。傍目で見ている分にはそれは溶けた硝子細工のようにどろりとしており、肉のかたまりのような生々しさは微塵もなかった。やがてそれが彼女の指の間からとろりとこぼれ出したかと思うと、しずくになって床に落ちるより前に、さらさらとした砂のようなものになって崩れていく。
 ユディスが手にしたかたまりのみならず、悪鬼自身も、彼女ににえぐられた胸部の穴から順に、徐々に灰になってぼろぼろと崩れ落ちていくのだった。
 やがて、その全身がさらさらと崩れ落ちていくまでにどれほどの時間もかからなかった。すっかり形を失った頃、ようやくユディスは、気が抜けたようにその場にへたり込んだ。
 悪鬼の姿はもうどこにもなかった。一連の成り行きの中で、ベオナードは自身が言った通り結局傍観を決め込んでいたばかりで、何の手出しをすることなく終わってしまった。彼はただ、静かに泣き崩れるユディスの背中を黙って見守るだけだった。
 マティソン少尉はと言えば、悪鬼に突き飛ばされた瞬間こそ生きた心地がしなかったが、最終的には目立った怪我もなく無事だった。一時はどうなる事かと思ったが、あの化け物相手に毅然と立ち向かったユディスが今は泣いているのを見て、ただただ呆然とする。
「あの、ユディス……?」
 声をかけようとしたマティソンだが、ベオナードがゆっくりと首を横に振って、それを遮った。
「そっとしておけ」
「でも」
「察してやれ。書類の上では叔母と姪、本来は血のつながりもないが、唯一無二の育ての親には違いないのだからな」
 ベオナードはそういうが、そのうち嗚咽を漏らし始める彼女にやはり何か声をかけるべきではとマティソンが恐る恐るユディスの背に歩み寄る。そっと肩にかけようとした手を乱暴に振り払われると、それ以上何も手出しできなかった。
 いつの間にか風は収まっていた。割れた窓ガラスの破片が散乱する部屋を、マディソンはまじまじと眺め回した。
 その時、マティソンは暗がりに何者か人影ががあるのに気づいた。
 今度は悪鬼や幽鬼のたぐいではない。確実に人間だとみて分かった。
「あなたは……もしかして、魔導士アドニス? アドニス・アンバーソン?」
 彼女が身にまとっているのが魔導士の塔の魔導士の制服であるのは見て取れた。年の頃はマティソンよりもいくばくか上に見て取れた。どことなく面影がユディスに似ている気がしてとっさにそう呼び掛けてしまったのだが、考えてみれば両者にはそもそも血縁関係は無いはずで、どうしてそのように思ってしまったのかマティソンは一人首を傾げた。
 ともあれ、魔導士の装束を身にまとったその女性は、マティソンの問いに何も答えずただ微笑んだだけだった。追い払われた彼に代わって、泣いてうずくまるユディスの背にそっと手を置く。
 ユディスがはっとして顔を上げる。女性は何も告げず、そのまま部屋の戸口へと離れていく。付き従うのは正騎士ベオナードで、傍らにもう一人いるように見えたその背中……近衛騎士の軍装を着ているように見えたそれは、ここまで話ばかりに聞いていたもう一人の竜退治の英傑であっただろうか。
 去り行く正騎士に、マティソン少尉が呼びかける。
「待ってください、ベオナード卿! ……いずれ時が来れば、あなたの身にもこういった事が起きるのですか?」
「少尉、言い忘れてたが、俺の番はとっくに終わっているんだ」
「え?」
 ベオナードの隣でアドニスが苦笑いを浮かべる。そう……考えてみればあの悪鬼が悪鬼として滅した今、ここに立っているアドニスは一体何者だというのか。彼女や近衛騎士が在りし日の姿でここに立っていられるのであれば、そこに肩を並べるベオナードもまた同じではないと、誰が断言出来たか。
「僕が、生きていたんですね、と質問した時……」
「生きていたんですよ、とは誰も一言も言っていないだろう?」
「それじゃ、あなたは……あなたたちは、一体――」
 僕の目の前に立っているあなたがたは一体何者だっていうんですか――マティソン少尉の口からさも当然の疑問が投げかけられるよりも前に、いつの間にかベオナードの姿はそこにはなく、すでに戸口の向こう側に去り行く背中がちらりと見えただけだった。えっ、と思った次の瞬間には、まるでそれまで誰もその部屋にはいなかったかのように、しんとした静寂だけが取り残されていた。
 あとに残されたのは、いかにも間の抜けた表情で唖然としたまま立ち尽くすマティソンと、ひとしきり泣いてようやく落ち着きを取り戻したユディスの二人だけだった。
「少尉、あなたは今日見た事を誰かに話す?」
「……誰に、なんて話せばいいと思う? こんな話、誰も信じてくれそうにないと思うけど」
「では、上官とやらには足止めには失敗したと報告して。ユディス・アンバーソンは王都を出て行ってしまった、と」
「えっ」
「これから荷造りをして、夜明けまでには出ていくから」
 そういいつつ、ユディスは床に放り投げられた緋色の剣を拾い上げる。同じく彼女自身が無造作に投げ捨てた鞘も拾い、そっと切っ先を収める。
「結局、この剣は無くても何とかなったわね」
「君自身が、この剣と同じ存在だった、ということ?」
「この剣は竜の流した血だまりから引き抜かれた。そして私も、竜の血だまりの中で見つけられた。私自身が竜なのか。それとも竜を滅する剣なのか、いずれにせよ私は、私が何者なのかを知る必要がある。……忌まわしき名に連なるものなのかどうかを。母がありったけの文献を調べ、幾度もあの廃墟をおとずれても、それでも得られなかった答えを」
「黒き竜……」
 マティソンがその名を口にしたその一瞬、ユディスの目が赤く光った気がした。
 彼女のアンバーソン家の跡取りとしての真贋など、そんな事はもはやどうでもいい話だったのかも知れない。彼女がその晩、真に受け継ごうとしていたのは、一介の子爵家などにとどまらない、あの忌まわしき竜の名なのではなかったか。
「ユディス・アンバーソン……黒竜バルバザード」
 マティソンが、呆然とつぶやく。
「君の本当の名前は……ユディス・バルバザード……?」
「ちょ、ちょっと。やめてよ。そんな大げさな」
「大げさかな。少なくとも、そう名乗るだけの資格は君にはあるんじゃないのかな」
「資格、ねえ……」
「そもそも、元々はユディスじゃない名前があるんだよね?」
「名前は、なかったの」
「……?」
「竜が授けたかも知れない命に、自分が名前をつけてよいのかどうか、母には迷いがあった。村の長老に相談したら、どのような名前を付けたところで黒竜に連なるのであればそれは忌み名になる、と言われて、私にはずっと名前が無かったの。ユディスの名であればそもそもは他人からの借り物であるから、それがすなわち忌むべき名にはならないだろう、って……でも結果的に、それが母が私にくれた唯一の名前だった」
 ユディスは苦笑いすると、こう答えた。
「ともあれ、あなたのいう竜の名を、名乗るにふさわしいかどうか、それは今度会う時までに確かめておくわ」
「……じゃあ、また会える?」
「さて、それはどうだか。それに次に会う時に、私がこの王国の敵ではない保証は、どこにもないわけだし」
「となると、僕は君を笑顔で送り出してもいいのかな」
 マティソン少尉の言葉に、ユディスはもう一度肩をすくめながら笑みをこぼした。それは今までマティソンが知っているユディスとは、また違うユディスであるように思えたのだった。


 彼女の下宿の部屋に憲兵隊がやってきたのは翌朝のことだった。
 何者かが窓を破って侵入したという、大家である老婦人アンナマリーからの通報によるものだった。
 窓ガラスが割れ、部屋中に物が散乱する様子は、誰かが物取りと組み合った痕跡なのだと言われば取り敢えずは誰しもが納得したに違いない。そんな部屋に、唯一人残されていたのがマティソン少尉であった。
 上官から指示を受けてこの部屋に住むユディス・アンバーソンを訪問したのであるから彼がそこにいたのは良いとして、肝心のユディスはどこへ行ってしまったのか。上官は当然ながら部下であるマティソンに状況を説明せよと迫ったが、マティソンはとにかくしどろもどろで何を言っているのか分からない。何か隠しているのでは、と彼自身が尋問のため収監される運びとなったが、その日のうちに軍務省からやってきた係官の指示で、マティソンは即日釈放されることとなった。
 一体どういうことかと少尉は不思議に思ったが、彼がそれ以上ユディスの事を誰かに訊かれたことは一度もなく、また釈放に至った理由も誰も説明はしてくれなかった。あくる日にいつも通り職場に出勤したが、上司などはむしろその話題を積極的に避けるような感じすらあった。まるで何事もなかったかのように、彼は書類仕事に追われる日常へと戻っていったのだった。
 そのうちに噂話として伝わってきたところによれば、王宮の宝物庫に保管されていた竜の爪がいつの間にか忽然と消えてしまったのだという。何者かが無理に押し入った形跡もなく他の財物はすべてそのままで、ただ爪だけが消え失せてしまっていたとの事だった。担当の警備官が責任を問われ職を追われた他、関係各所は天地をひっくり返した騒ぎとなり、それで端々の噂話が漏れ聞こえてきた次第だが、この件に関して王宮から正式な表明がなされる事はなかった。
 そんな噂を聞いてからさらに数日がたったのち、かつてアドニスたちが赴いた開拓地の荒野にて、竜をみた、という報告が寄せられた。爪の紛失の件もあったため、念のため王国軍による探索隊が差し向けられ、例の廃墟もくまなく捜索されたが、結局は何も発見されることはなかった。それ以降は竜をみたという者も現れず、最終的には何かの見間違いだったのだろうと結論付けるより他になかった。
 ユディス・アンバーソンの行方に関しては、軍務省の介入もあり王都では大っぴらに捜索はされず、それは郊外のアーヴァリーでも同じだった。アーヴァリーの役場の方に後日確認すると、アドニス・アンバーソンの埋葬の届けとアンバーソン家の相続に関する手続きは、相続人により正しく行われた旨、後日記録によって確認がとれた。法的には、ユディスがアンバーソン家を正式に相続した上で、王国のどこかに居住している事にはなっているが、その詳細な行方を知る者は誰もいなかった。
 あの晩のあの騒動を知るマティソン少尉としては、砂漠で目撃されたのはおそらく本当に黒き竜だったのだろう、とは思う。そんな彼の身に起きたささやかな事件というか、異変としては……彼がある日独り暮らしの官舎に戻ると、差出人の名前のない一抱えほどの小包が届けられていたのだった。黙って送りつけてくるにはそれなりに迷惑な大きさであり重さではあったが、中身を見れば誰がそれを送ってよこしたのかは、何となく察しはついた。
 箱の中から出てきたのは――そう、竜の爪だったのだ。
 驚きはしたが、それをどうするわけにも行かず、彼はそれを箱ごと自室のクローゼットの奥深くにどうにかして押し込んだのだった。しかるべき筋に届け出るべきなのは分かってはいたのだが……そうしてしまえばまたユディスを取り逃がした時以上にややこしい尋問攻めにあうのは目に見えていたので、時が来るまでは大事に取っておく事にしたのだった。
 時が来るまで。……一体、どのような?
 いつかだれか、この爪を取りに来ることはあるのだろうか?
「一体、この僕にどうしろと……」
 マティソン少尉は一人苦笑いを浮かべると、そっとクローゼットの扉を閉じるのだった。

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