魔人バラクロア その6

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 さて……。
 火の山を後にしたルッソとリテルの二人でしたが、魔王の軍勢に闇雲に立ち向かっていくというわけにもいきません。賢者ルッソは軍勢を追跡しつつ、王国軍の対応にも道中目を配らせておりました。王国軍はやはりホーヴェン王子が人質になっていることから、迂闊に手出しをするわけにもいかず、もっぱら敵軍の進路上にある村々の住人達の避難を指示して回る程度で、あとは遠巻きに敵の動きを見ているより他になかったのでした。
 魔王の軍勢は粛々と前進を続け、やがて王都の城門を臨む、クアルダル河の対岸にまで迫ってきていたのでした。
 そのクアルダル河にかかる大橋は、その昔はいくさになるとすぐに流せるようになっていたそうですが、今では交通の要所として堅牢な石造りの橋が架けられており、ちょっとやそっとのことではびくともしませんでした。魔物どもは対岸にずらりと居並んだまま反対側の人間の都をにらみ据え、今にも隊列を組んで大橋を渡ろうとしていたのです。河のこちら側からみれば、不気味な影が川岸を埋め尽さんとでもいうかのように延々と連なっており、その数すら容易にははかり知れませんでした。
 そもそもクアルダル河は川幅も広く、季節によっては増水し渡河するにも難儀な場所でしたが、魔物どもはどれもこれもが屈強で大柄な体躯のものばかりでしたので、仮に橋などなくとも、勢いに任せて渡ってきたところで、そう簡単に流されたり溺れたりするようには見えませんでした。河が決して天然の要害とはなり得ないのであれば、迎え撃つ人間の側も決して心中穏やかではいられるはずもありません。魔物どもがいつこちらへと殺到してくるのかと、気が気ではいられないのでした。
 そのうちに、数体の魔物が、まるで彼らの代表であるかのように静かに大橋の中程までゆっくりと進み出てきました。彼らは大きな丸太を荒縄で組み合わせた、十字架のようなものをそのがっしりとした肩に担いでおり、その十字架の先に、あのホーヴェン王子がまるで徒刑場に引かれていく大昔の殉教者のように、磔にされていたのでした。
 一体何事か、と人間達が落ち着かぬ様子で成り行きを見守っておりますと、橋の上のその集団の方から不意に盛大な炎が吹き上がったのでした。
 ホーヴェン王子が火勢に呑まれたのか、と一瞬錯覚してしまいましたが、そうではありませんでした。吹き上がった炎はそのまま巨大な火の玉となって上空へとのぼっていき、やがてまるで巨大な猛禽が誇らしげにつばさを広げ哀れな獲物を威嚇するかのように、暗い空いっぱいに炎の幕が広がっていくのでした。人々が何事かと見ていると、その炎はすぐにかき消える事もなく、やがて夜空に巨大な人の顔となって浮かび上がるのでした。
(王国の愚か者どもよ! そなたらの大事な王子の身柄はここにあるぞ! 腕に覚えのある者は奪い返してみるがいい!)
 その顔がしゃべったとでもいうかのように、大きな声が上空から人々の上に降り注いできたのでした。けたたましい哄笑を散々に響かせたかとおもうと、その炎の顔はすぐに大きな炎の塊に戻って、人々を挑発するかのように王都の上空をぐるり、ぐるりとゆっくりと旋回して見せたのです。まるで眼下の人間どもの街など、簡単に焼き尽くせるのだぞ、とでも言いたげです。人々が狙いどおりに恐れおののいていると、炎は再び先ほどの顔に戻って、人々に不遜な言葉を投げかけます。
(このようなちっぽけな都、灰にするのもべつだん難しいことではないが、それではあまりに事が簡単すぎる。お前達人間にも少しくらいは抵抗してもらわねば、面白くもなんともないというものだ)
 炎の顔はそのように告げたかと思うと、今度は顔の形をしたまま、おのれの力を誇示するかのように二度、三度と人々の頭上を旋回して見せたのでした。やがて、もやもやと人の顔のような形をかたどっていたのが、そこからさらにおおきく羽根を広げるように左右に炎の紗幕を広げていったかと思うと……それが各々上下にも分かれて、左右それぞれの下側がゆっくりと位置を下げていくのでした。上側はそれぞれ羽根のようにめいっぱい広げられていましたが、下側のそれは丸太のような太い棒のような形状になっていき……それはそのうちに人間でいうと腕のような形状となり、人々の頭上でぶんぶんと振り回されるのでした。
 気がつけば、顔だけだった炎の怪異はいつの間にか巨大な上の半身をかたどっていたのです。
(そなたらは我の名を知っているはずだ! 知らぬとは言わせぬ、我が名はバラクロア! そなたらがかつてあの忌まわしき火の山に封じ込めたはずの、暗き闇の国を統べる王だ! その名を聞いて存分に恐れおののくがよいわ!)
 声はまるで雷鳴のように、けたたましく夜空に響き渡ったのでした。人々はその恐ろしげな大音声に、ただただ首をすくめて震えていることしか出来ませんでした。魔王は……空に浮かぶのが当の魔王自身の本体であるのか、人々にその姿を晒すためのあくまでも虚像なのかは分かりませんでしたが、その炎の腕を軽く振り回すだけで、なるほど何物をも簡単に焼き尽くせるのではなかろうか、と思わせるものがあるのでした。
 それを見上げながら人々が不安に打ち震える中、リテルは賢者ルッソに連れられ、人波をかき分けて、王国軍の本陣を訪れたのでした。無論そこかしこで見張りの兵に呼び止められはするものの、皆ルッソの姿を見るなり、誰何も検分も皆省略してそのまま先へと通してくれるのでした。
 天幕を奥へと進んでいくごとに、すれ違う兵士が一般の兵卒から、立派な甲冑を着た騎士になり、さらにはその上官となっていくにつれてリテルなどは自分が場違いなところに紛れ込んでしまったような気持ちになって恐縮するしかなかったのですが、あれよあれよという間に、いつの間にか一番奥へとたどり着いてしまったのでした。
 そこで初めて、これまですれ違ってきた兵士や騎士たちに会釈を返していただけだったルッソが、自分から膝を折ったのでした。
「フレデリック殿下。ルッソ、ただいま戻りました」
 流れるような一連のルッソの所作を呆然と後ろから見ていたリテルですが、賢者が誰を前にしているのかにすぐに気付いて、慌てて見よう見まねで片膝をついたのでしたが、何か作法を間違えてはいないかと、気が気ではありませんでした。そこにいたのはホーヴェン王子の兄、一番上の長兄にあたる王太子フレデリックその人だったのです。
 王太子、とは言いますがあのホーヴェン王子ですら三十代も半ば、その一番上の兄に当たるこの御仁は齢すでに五十に差し掛かろうといった所で、威厳に満ちたその佇まいはそれこそ一国の王たる者のそれであり、高齢の父王の無二の右腕として、また名代として、国政のかけがえのない要たる名君主その人でありました。
 そんなわけで、リテルごときが本来目通りの適う相手ではないというのに、事前に何も告げられずそんな場に引き出されてしまったのですから、彼女が目を白黒させるのも無理はなかったかも知れません。
「ルッソ。その娘は?」
「は。例の火の山の洞穴に住み着いた妖躯に、生贄として身柄を押さえられていた者です。洞穴に留め置くわけにもいかず、ふもとの村の者どももあの軍勢から避難した後とあって、村に一人置き去りにするのも忍びなく思い、伴ってまいりました」
 そのままルッソはかいつまんで、火の山で起きた一連の出来事について報告の弁を述べました。話を聞き終えた王太子は、やれやれと、溜息を深々とついたのでした。
「ホーヴェンも仕方のないやつだな。功を焦ってとんでもない事をしでかしてくれたものよ。……あやつが魔物討伐とやらに向かった先が火の山だったとあらかじめ分かっておれば、最初からあの粗忽者ではなく、万全の備えをした上でそなたを送り出したというに」
「私めが山に到着した時には、すでにバラクロアは封印を破ったあとでした。……とは言えこの私がその場であやつを倒し、あらためて封印が叶えばそれに越したことはなかったのですが……」
「それはやむを得ぬ。今になって言っても詮無きことであろう。いかな賢者とはいえまだ若いそなたに、役目以上の過分な働きを期待するわけにもいかぬからな。……とは申せど」
「……いかにも。何をもっても、バラクロアを封じぬわけにはまいりますまい」
「正直、おぬしに何かうまい手だてはあるのか」
「王都を灰燼に帰す事だけはせめて避けねば。それにホーヴェン王子殿下の身柄も」
「あれのことは、もうこの際よいのではなかろうかの?」
 王太子までもが困惑顔で、ぞんざいにそのように言い放つ始末ですから、ホーヴェン王子の人望の無さが窺い知れるというものでした。
 そこまでの話の流れには一切参加せずに、その場に黙って佇んでいただけのリテルでしたが、ルッソが意図的に魔人に関する話を避けているのは分かりました。封印云々もあくまでもホーヴェン王子が火の山にちょっかいをかけたのが原因で、その彼が討伐に熱を上げていた「魔物」が何者であったかなど、たくみに話題にならぬようにうまく話を誘導してさえいるかのようでした。リテルの知らない間に、道中どこかでこちらと連絡を取り合っていたのか、火の山での経緯はすでに王太子も把握しているようでしたが……。
 ともあれ、結局ルッソと王太子の面談の中で、今後の具体的な方策について満足に話がまとまるでもなく、二人はその天幕を後にして引き下がるのでした。
「賢者さま、王太子さまに魔人さまの事を言わなかったのはどうしてですか?」
「結局魔人めに協力は拒まれてしまったわけであるしな。あの場で話題に挙げたところで、詮無きことだ」
 それに、魔人について詳しい事が話題に上ったとして、そこでリテルが魔人と共謀して何事か企んでいたのだ、というような話が明るみに出てはリテルの立場が悪くなるので、ルッソがその辺りに配慮した、ということなのかも知れません。
「でも、誰かがあの魔王バラクロアとたたかうのだとして、やはり魔人さまの力は必要なんじゃないの?」
「私とて、無論それは考えたとも。個人的には非常に気に喰わぬやつだが、力ある魔人であるのは確かだからな。だが今はともかく、先々に至ってもずっと人間の味方をしてくれるとは限らぬ。そのような者を迂闊に王都に近づけるわけにもいかぬしな。……それに、そなたが頼んで駄目だったというに、だれがどのようにあの魔人を説得するというのかね」
「それは……まぁ確かに、そうだけど。でもそうなると結局、ルッソさまがあのバラクロアと対決して、勝つしかないって事なのよね……?」
「うむ……そうなるな」
「もし負けちゃったら、どうなるの……?」
 リテルがおそるおそる質問しました。それはひとたびあの魔王に敗北しているルッソにしてみれば屈辱的な問いかけでしょうが、彼女は何もそんな賢者の顔色を窺って遠慮がちに問いかけたのではないのです。その勝敗の行方に王国の未来がかかっているからこそ、むしろそれは問わなければいけない質問だったのかも知れません。仮に、苛立たしげに怒鳴り返してくるような者には任せられぬ大事な局面であるとさえ言えるでしょう。
「……たしかに、そなたがそのように不安に思うのも無理は無かろう。本当に賢い者はこのような無謀な勝負は挑まぬし、挑んだとして負けたときの事もしかと計算にいれておくものだ。……だが相手は魔王だ。誰にでも簡単に倒せるものではないし、過去の偉大な先人の力をもってしても封じ込めるのが精一杯だった、そんな相手だ。もし私以外に、そのようなものを相手にするにふさわしいものがいるというのなら、そのものに任せるべきであろう。だがこの私以外に他に適当な者がいないというのであれば、やむを得ぬ話だ」
 勝つより他にないのだ、と悲痛な決意を、彼はリテルに示すばかりでした。
 今のところ、バラクロアはすぐに王都を灰にしてしまおうというのではなく、あくまでも魔物の軍勢どもに攻め滅ぼさせようという腹づもりのようでした。となれば、ここでルッソがバラクロア自身に勝負を挑んで、これを打ち破る事が出来れば、たしかに人間達の側にも一縷の望みはあるという事なのかも知れませんでした。
 けどそれは、決して簡単な事ではないのでした。


 そうやって、どのくらい両軍が川を挟んでにらみ合っていたでしょうか。
 動きがあったのは人間の側でした。一人の男が、両軍が差し向かい合う川の岸辺に、一人ゆっくりと進み出てきたのでした。
 言うまでもなく、それは賢者ルッソでした。
「魔王よ! 聞いているか! 我が名はルッソ、そなたをかつてあの火の山に封じ込めた、かつての賢者の末裔たる者だ! 祖先の偉業を、今ここでこの私がもう一度成し遂げてみせようぞ! いざ、この私と勝負しろ!」
 ルッソがそのように口上を述べると、夜闇に包まれた空のずっと上の方に、星明かりさえもさえぎる黒いもくもくとした雲のようなものが湧き起こってきて……それが次の瞬間一斉に炎を吹き上げたかとおもうと、夜空にあっという間に先ほどの炎の魔人像を浮かび上がらせたのでした。
(えらそうに口上など述べるから何者かと思えば、火の山でこのわしの前からおめおめと逃げ出した、あのときの若造ではないか。ひとたび遅れを取っただけではまだ懲りぬか!)
「そうやって侮っているがいい! 次は負けぬ!」
 ルッソはそう叫んだかと思うと、果敢にも炎の魔人像に挑みかかるべく、ふわりと宙に浮き上がったのでした。空を一直線に上昇していくその姿は、勇敢であると同時に、はっきりと言ってしまえば無謀そのものでした。
 人々の期待を一身に集め……それでも、誰もがしかとその勝利を確信できぬ、悪い方の結末がどうしても人々の脳裏を過ぎってしまうという中で、ついにその戦いが始まろうかという、まさにそんな時でした。
 不意に――今にも激突しようかという両者の間に無粋にも割って入るかのごとく、一筋の光線がさっと横切っていくのが見えました。
 それはまるで夜空をかける流れ星のようでいて、それでもそのような遙かな高みというわけでもなく、幾分空の低いところを走ったものであることが、下で見ている人々にも窺い知れたのでした。
 その光跡は、さっと魔王の前を横切っていったかと思うと、目にも止まらないものすごい速さで魔王の軍勢のまっただ中へと、最後には螺旋の弧を描くようにして墜落していきました。
 いや……それを墜落と言っていいのかどうか。光はいったん地面に落下したように見えて、すぐさま取って返したように唐突にもう一度宙に舞い上がって、次には対岸でそれを見守っていった人間たちの陣地をめがけて飛んでくるのでした。
「こっちに来るぞ!」
「逃げろ!」
 あやしい光跡がこちらに向けてまっすぐに飛んでくるのを見て、兵士達は見るからに浮き足立たずにはおれないのでした。魔王がついに攻撃を開始したのだ、という風に捉えた者も多かったに違いありません。
 ですが、中にはめざとい者もいて、そうではなさそうだという事に気付いて声を上げたのでした。
「何か飛んでいる……落ちてくるぞ!」
 何かといって、光がこちらにやってくるのは確かでしたが、よくよく目を凝らせば、そこには何かしら物体のようなものが実際に虚空を飛来してきているのが見えました。その物体が、光の尾をたなびきながら、実際に風を切る音をたてながらこちらにやって来るのです。
 それは群衆の頭上ではなく、その手前の河川敷をめがけてゆっくりと高度を下げ、弧を描いて減速してくるのでした。丁度、弓矢でもって精一杯届くばかりの遠い場所へと矢を放つがごとく、ゆっくりとした放物線を描いて、落ちてくるのです。
 そしてそれは事実、矢のように細長い物体には違いありませんでした。……ただしそれは一抱えほどもある、太い丸太棒のような長大な物体でしたが。
 恐らくそれを目の当たりにした全員が全員、目を疑い、耳を疑ったでしょう。数人がかりで担ぎ上げなければ運べないような丸太が軽やかに空を飛び、落ちてくるだけでも奇妙な光景でしたが……野太い男の叫び声とともにまっすぐに飛来してきたのは、あの魔物の軍勢のもとで丸太棒を組んだ十字架に磔にされていたはずの、あのホーヴェン王子その人だったのです。横木がくるくると回転しながら、丸太棒は神々が天から投げて寄越した巨大な槍のように、まっすぐに地面を目指してくるのでした。
 そうやってその地に飛来してきたのは……神聖なお告げのために遣わされた天の御使い、というようなものと比べるのも憐れなほどに実に見苦しい御仁でした。王子は、まるで地の底まで響け、とばかりにあらん限りの声量をふりしぼるような悲鳴、ないし罵声とともに空から人間達のもとに帰還を果たしたのでした。
 力強い衝撃とともに、空から降ってきた丸太棒はやや斜めに傾いだ角度でもって、大地に深々と突き刺さりました。
 その衝撃で、くるくるときりもみのように回っていた横棒はようやく回転をやめ、王子は髪を振り乱し、口元からはだらしなく泡を吹いて……それこそ聖人などではなく薄汚い咎人そのものとでもいうかのような無惨な姿を人々の前に見せたのでした。
 そして、人々は見たのでした。その王子の背中、肩のあたりに、しがみつくように乗りかかっている、小さな人影のあることを。
「魔人さま!」
 その正体を知るごくわずかな人物のひとりであるところのリテルが、思わず叫び声をあげました。
 そう、それはまさしく、火の山のあの洞穴を住処としていた、火の魔人に他なりませんでした。王子が磔られた十字架の横木の上にすっくと立ち上がったかと思うと、よいせと小さく声を上げて地面に降り立ち、事の成り行きを遠巻きに見ている者達を、逆にしげしげと眺めるようにぐるりと周囲を見回すのでした。
「おい貴様! こんな乱暴なやり方があるか! この俺を何だと思っているのだ!」
「何だよ。せっかく助けてやったのに、文句の多いやつだ」
 ホーヴェン王子の遠慮のない罵声に、魔人は独り言のようにぼやいたかと思うと、指をぱちんと弾くような素振りを見せました。するとホーヴェン王子の足首を戒めていた荒縄に、不意に火がついたのでした。それと同時に深々と地面に突き立てられた丸太が王子の足のすぐ下の所でぼきりと折れ、不意にぐらりと傾いていったのです。慌てた王子が身をよじると、燃えた荒縄が千切れて足が自由になり、彼はどうにか地面に両足で踏ん張る事が出来ました。そのまま横木の組み合わさっていた部分が外れ、倒れてのしかかる丸太棒を王子はどうにか払いのけ、ようやく二本の足で自由に大地を歩けるようになったのでした。……もっとも、腕が戒められている横木はそのままだったので、外見がまるっきり罪人にしか見えなかったのは致し方のない事でしたが。
 王子はありったけの罵声を魔人に浴びせかけましたが、王国軍の兵士達が迎えに駆けつけるに至って、渋々彼らに連れられるままにその場をあとにしたのでした。
 入れ違いに、兵士らの制止を振り切るようにしてこの場に駆け寄ってくる小さな影がありました。息を切らして近づいてくるのはもちろんリテルです。賢者ルッソも、魔人と相対すべくいったん空から降りて来たのでした。
「魔人さま! やはり来て下さったのね!」
「そなたは来ぬものと思っていたがな」
「どうも、ああいう気にくわないやつがでかいつらをしているってのが、やっぱり我慢ならなくてな」
「まあいいだろう。これで戦力は二対一だ。どう戦う?」
「は? 一体何を言い出すんだ。あんなやつ、俺ひとりだけで充分だろ」
 さも当然、といった口調で魔人はそのようにいってのけたのでした。ルッソはおのれの力が軽んじられたようで面白くはありませんでしたが、ここはぐっと堪えました。
「ではあのバラクロアはお前に任せるとして、私はどうすれば良いのかな?」
「そうだなぁ……俺が負けるなんてことはないと思うけど、あいつがどんな悪あがきをするか分かったもんじゃないからな。まぁ余計な火の粉を被らずにすむように、守りだけでも固めておいたらどうなんだ」
 いかにもな減らず口を叩いた魔人でしたが、さすがにリテルの前では少しは神妙な態度を見せるのでした。
「そういう事だから、お前もこの賢者さまの後ろにくっついて、絶対に離れるなよ。まかり間違っても、一人で前に出てくるんじゃないぞ」
 普段通りの態度のように見えて、いつものぼやきや悪態とは違った、少し照れたような表情の魔人でした。
 かと思いきや、魔人はおもむろに宙に浮かび上がったかと思うと、上方で禍々しく渦巻いている炎の雲に向かって、真っ直ぐに上昇していくのでした。
(こわっぱめ!わしの右腕にしてやろうとわざわざ声をかけてやったのに、それを無下に断ったこと、後悔するがいいわ!)
「やかましいや。てめえこそ、洞穴の奥で大人しくぬくぬくと眠り続けてりゃよかったと、あとになってべそをかいても知らねえからな」
 魔人のそんな挑発に、バラクロアはもはや返事をしませんでした。問答無用で巨大な炎の腕を振り回して、魔人に殴りかかって来たのです。
 魔人は少しも慌てる事なく、身を翻してこれを避けました。そのまま急上昇してバラクロアの腕をすり抜けるようにして、背後に回り込んだのでした。
 とは言っても元々炎のかたまりですから、前も後ろもありはしないのでした。夜空に浮かび上がる炎の像は瞬く間に前と後ろが入れ替わり、バラクロアは即座に魔人に掴みかかってくるのでした。
 魔人も魔人で、実在の肉体などあってないようなものです。バラクロアの魔手に捕まるあわや寸でのところと思いきや、その炎の像の前から後ろまで通り抜ける程度のごく短い距離を、瞬間移動ですり抜けたのでした。
 それはまさに、人知を越えたあやかし同士ならではの激戦でした。果たしていかようにして決着が付くというのか、地上で見ている人々にはまるで見当も付きませんでした。
 丁度そんな折でした。上空を呆気に取られて見上げている人々をよそに、対岸の方でおもむろに動きがありました。大河の流れを挟んで睨み合っていた魔物の軍勢が、ゆっくりとこちらの岸に向かって進軍を開始したのです。強固な石づくりの橋梁の上を、魔物達は粛々と進軍を開始するのでした。のみならず、こちらの岸をじっと睨んでいた魔物達の多くが、そのまま強引に押し渡ろうかというように、川の流れに足を踏み出すのが見て取れました。
 もちろん、対岸の人間の軍隊もぼんやりと見ているばかりではありませんでした。
「撃てッ!」
 鋭い号令がかかったかと思うと、軍勢の後方に配置されていた投擲部隊が、巨大な投擲機から繰り出される重い砲弾を魔物どもに向けて一斉に浴びせかけたのでした。
 戦いの火蓋は切って落とされました。無数の投擲を受けて、魔物どもはあっという間にばたばたと倒れていきましたが、全体から言えばごくわずかな被害でしかありませんでした。まだまだ健在な魔物の群れが、仲間が倒れてもまったく怯むことなく、不気味な雄叫びを上げて橋を渡り、あるいは渡河を続け、前進をやめようとしません。人間の側も、勇気を奮い立たせ、勝ちどきの声をあげて魔物どもを迎え討つのでした。対岸に群がる軍勢に対しての投擲は止むことはなく、橋を渡ってやってくる一群に対しては待ち伏せた弓兵による一斉射を浴びせかけ、その上で騎兵による突撃で蹴散らしてみせるのでした。魔物は一体一体は身体も大きく屈強でしたが、数で取り囲めば必ずしも絶対的な脅威ではありませんでした。
 ですが敵は人外の化物です。矢が脳天を貫いていたとしてもまるで気付いてもいないかのように平然としているような輩どもでした。まともに相手をしていてはきりがありませんから、騎兵達も数合打ち合ったところで、敵わないと思えばすぐさま馬首を翻すのがむしろ上策と言えたでしょう。やがて連中がこちらの岸に辿り着いてしまえば、逆に投擲機も近過ぎて使えません。じりじりと引き下がっていかざるをえないのが歯がゆいところでした。
 そんな折でした。つい今しがた上空であのバラクロアと激しくぶつかり合っていたはずの魔人が、攻撃をひらりとかわしたついでに、その高度をぐっと下げて、魔物の軍勢の方へと降りていったのです。
 魔人は彼らの頭上すれすれの低い高度を保ったまま、両手を左右に広げました。すると、まるで鳥が羽根を大きく広げるかのように炎の幕がぱっと広がったのでした。
 まるで、身体に合わない長いマントをずるずると引きずるかのごとく、魔人は炎の幕をひきずったまま魔物どもの頭上をゆっくりと通過していったのでした。
 それはまさに地獄の業火と言えたかも知れません。炎に巻き込まれた魔物どもはあっという間にその身を劫火に包まれ、熱さにのたうち回る事となるのでした。大勢がひとところにひしめき合っているものですから、一匹が火に巻かれればあとは次々と燃え移っていきます。互いに助け合って火を消す、という知恵もろくに回らないのか、闇雲にのたうち回るばかりで隣で誰かが燃えていたとしても魔物どもは気にも留めないものですから、やがてはそんな炎が群れを伝っておのれの身を焼くまで、ただ漠然と行進を続けるのみでした。
 むろん、多少の火などものともせず……身体が炎に巻かれるに任せて黙々と進軍を続ける者も多くいました。そうやって燃えさかったままの軍勢が、川辺や橋にたむろっているさまは、一種異様なものがありました。
 バラクロアもそれを黙って見ているだけのはずもなく、魔人を阻止すべく低い高度まで降りて来ますが、魔人はといえばまるでそれをあざ笑うかのように、逆にひらりと上空へ逃れて行きます。
 誰の目にも、バラクロアが次第に苛立ちを募らせていくのが分かりました。上空に浮かぶ炎の魔像が、怒りに全身をわなわなと震わせ……いきり立って突然火柱を噴き上げたかと思うと、魔人に向かってそのまま力任せに二本の腕を振り下ろしたのです。その腕が自軍の魔物どもをなぎ倒すのもお構いなしでした。魔人はと言えば、そんなバラクロアの炎の腕を、きわどいところでひらり、ひらりとすり抜けては、折を見て魔物の軍勢の頭上に、大きな炎のかたまりをぼとり、ぼとりと落としていくのでした。
 魔人が散々に火をつけて回ったのと、バラクロア自身が怒りに任せて薙ぎ倒したのも合わせて、今や魔物どもの軍勢は総崩れに近いありさまでした。整然と行進していた軍隊は、いまや炎に巻かれ滑稽な素振りでのたうち回る憐れな亡者どもの群れとなって、ただ右往左往するだけに成り下がっていたのです。
 それでも彼らは、河をどうにか渡って人間たちの都に肉迫しようという当初の目的に、健気にも忠実に従おうと懸命になっていました。橋には多くの群れが殺到し、まるで石造りの橋そのものが燃え盛っているようでした。橋までたどり着けないものは、河の流れに足を踏み入れたかと思うと、そのまま流れに足を取られて流されていくか、沈んでいくかというありさまだったのです。
 敵はもはや総崩れでした。それでも、炎に包まれながらも人間の版図を少しでも脅かそうと、懸命にこちらににじり寄ってくるさまは、哀れでもあり、またまるでこの世界の終末のその時のような薄らさみしい光景のようでもありました。
 人間たちがそんな事を考えていると、上空にただ一人残されてしまっていた魔王バラクロアが、地の底から響くような野太い咆哮を、怒りに任せて虚空にまき散らすのでした。
 人々はいよいよ恐れおののきました。ついに魔王自らが、哀れな民衆を炎で焼き付くさんと動き始めたのです。魔王は恐ろしげな形相のまま、ゆっくりと人間達の頭上にやってきたかと思うと、人の半身を模したその形状を崩し、巨大な火の玉へと変化していくのでした。
 その火の玉が、巨大な災厄となって今まさに人々の頭上に降ってこようかという、まさにその時――。
 その一瞬をまさに狙いすましたかのように、炎の魔人は低い位置から一気に急上昇し、まっすぐに魔王の火の玉へと向かっていくのでした。これぞまさに乾坤一擲、魔人の一撃がその火の玉を一瞬にして貫通したかと思うと……火の玉は次の瞬間ぎゅっと収縮し、そしてその次にはまばゆいまでの閃光とともに、勢いよく四散してしまったのです。
 その炎の破片は、衝撃波とともに人々の頭上から雨滴のごとく降りそそいでくるのでした。破裂する前の巨大な火の玉よりはましと言えたかも知れませんが、それでもこのままではあの哀れな怪物たちと同じ末路を、今度は人間たちの方が辿る羽目になろうというものです。
 人々はうろたえ、我先にとその場から逃げ出そうとするのでした。そんな中、賢者ルッソは彼方の空をしかと見据えたまま、必死に何か呪文のようなものを唱えていたのです。
「賢者さま! はやく逃げないと!」
「今更逃げた所で間に合いはせぬ! リテルよ、私の背中に回って、身を屈めているのだ。決して私よりも前に出るのではないぞ!」
 ルッソはそう叫んだかと思うと空に向かって両手をかざしました。炎の固まりが今まさに降り注いでくる中、えいや、とばかりにまるで押し返すように手を上に伸ばすと、炎はまるで見えない壁にぶつかったかのように跳ね返っていくのでした。
 リテルはその場にしゃがみ込んで――へたり込んで、といった方が正確だったかも知れませんが――いつの間にかルッソの左足に夢中でしがみついていました。そのまま上空を見上げますと、ルッソが空に巡らせた見えない壁が、落ちてくる炎を全て食い止めていたのでした。その壁は見れば平原に集う人々の頭上をすっぽりと覆いつくすほどの広範囲に及んでいるのが見て取れました。それまで右往左往していた人々も、下手に逃げまどうよりはその障壁の下方に留まっていた方が安全だと気付いたようで、その庇護の傘からあぶれ出る事のないようにとひとところに小さく固まって、嵐が……そう、まさに炎の嵐が通り過ぎるのを固唾を呑んで見守っていたのです。
 果たして、一体どれほどの間そうしていたでしょうか。
 時間にしてみればそれはほんのわずかひとときの事だったかも知れません。ですが縮こまって災厄の通過を待つ身にしてみれば、それはまさにいつまでも続いたまま、終わりなどやっては来ないかのように思えたのでした。見えない壁の向こう側は激しい雨滴のように炎が降り注いでいたのから、次第に荒れ狂う炎が果てしなく渦巻き続けるような有様に変わっていき、しかもそれがいつまでも晴れる気配を見せないのでした。間近で見ているリテルにはとくによく分かりましたが、いかな賢者ルッソとはいえこれほど広範囲にわたる防護壁ともなればそういつまでも張り巡らせ続けられるというわけでもなく、時間が経つにつれて次第に疲労の色が浮かんでくるのでした。
「……賢者さま!?」
「分かっている。分かっているとも――!」
 彼が力尽きるのと、この炎が晴れるのと、果たしてどちらが先になるというのでしょうか。賢者は仁王立ちのまま、次第に言葉にならないようなうめきとも唸りともつかない苦悶の叫び声を洩らし始めたかと思うと、やがてついには空に手を伸ばしたままその場に膝を折ってしまいました。
 まるで支えていた重みに耐えかねるように崩れ落ちそうになるルッソでした。足にしがみついていたリテルが、今度は倒れそうになる彼の背中を必死に支える役に回ったのでした。
 それと同時に、人々を守っていたあの壁もぐっと高度を下げたと見えて、渦巻く炎がぐんと近い位置まで降りてくるのに、人々は肝を冷やさずにはおれませんでした。やがてルッソがついに倒れたかと思うと、人々を守っていた壁もすっかり消え去ってしまいました。ですがほとんど同時に炎の渦も勢いを弱めていて、壁が消えたと同時にゆっくりと下ってきたかと思うと、人々のいる地上まで落ちてくる前に雲散霧消してしまったのでした。ただそよ風のように暖かい熱気が人々の上から吹き込んできただけで、賢者は立派に人々を守り切ってみせたのです。
 寄り集まって不安に打ち震えていた人々も、大難を無事にやり過ごすことが出来たと知るや、誰彼となく歓喜の声をあげ始めるのでした。彼方の空が少しずつ白んでこようという中、上空にはもはや禍々しい妖魔の影も何一つ無く、地上には焼け出された魔物どもの死骸がそこかしこに転がっているばかりで、それ以上人間に危害を及ぼそうというものがうごめいている事はありませんでした。人間の版図を脅かしていた外敵は、すっかりと退けられたのでした。
 それを果たして勝利と捉えるべきか、何かしら大きな天災のたぐいをやり過ごしたのだと捉えるべきか……ひとつその名残と言えるのは、あの炎のせいでしょうか、立派だった石造りの大橋が煤で汚れてすっかり真っ黒になってしまっていた事でしょうか。対岸でもまだ煙がくすぶっているそんな光景に、人々は自分たちを見舞った災禍の大きさを知って、あらためて恐れおののいたのでした。
「賢者さま。……ルッソさま、しっかり」
「ああ、リテル。すまないな」
 賢者は、小さなリテルの肩を借りてようやっとというありさまでよろよろと立ち上がりました。二人は黙りこくったまま、やがて朝日が昇ろうかという彼方の空をじっと見やるのでした。
「ルッソさま。バラクロア……じゃなかった、あの魔人さまは一体どこへ行ってしまったんでしょう?」
「さて。魔王バラクロアの方も、気配をまったく感じ取れなくなってしまった。消え失せてしまったか、ここではないどこかへと行方をくらませたか、私ごときには感じることが出来ぬほどに、弱り切ってしまったのか……」
「それは魔王のこと?」
「魔人の方もだ。少なくとも、ここからは去った。私に言えるのはそれだけだ」
 ルッソはいささかぶっきらぼうな口調でそのように語りました。人々を守ったのは彼自身であるにしても、肝心の魔王を退けたのが結局自分ではなかったというのが、彼にしてみれば複雑な思いなのでしょう。言葉少なくなるのもやむを得ないのかも知れませんでした。
 リテルは辺りを見回してみました。遠くでは、人々が互いの無事を確かめ合いながら、災厄が去ったことで大きな歓声をあげているのが見えました。
 けれど、どこにもあの魔人の姿はありませんでした。
 またいつものように急にリテルの隣に現れるかも知れない、とも思いましたが、結局いつまでたっても魔人がリテルの前に姿を現すことはなかったのでした。

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