グスタフ・クリムの帰郷 その2

 2

「父さんを昔道案内したっていう、その行商の人が結局は正しかった、ということね」
 廃墟での経緯を一通り聞かされたエヴァンジェリンが、しばしむすっとした顔で何事か思案していたかと思うと、最初に口を開いて出てきた言葉がそれであった。冷ややかかつ端的な所見ではあったが、それでも普段よりは、かすかではあったが動揺の色が見て取れた。
 娘二人を前に、うなだれた父グスタフが力なく問う。
「それで、どうやってリリーベルをあの城から連れ出せばよいのであろう?」
「姉さんのことは心配だけど、あの恐ろしい兵士の群れに立ち向かっていかなくちゃいけないのよね?」
 ハリエッタが若い娘らしからぬしかめっ面をつくってそのようにぼやく横で、グスタフは思いつめたような真面目くさった表情を見せる。
「わしのせいだ。あのような廃墟に、立ち寄ってみようなどと言い出さなければ……」
「父さま、やめましょう。私も反対しなかったし、今更それを言ってもどうにもならないわ」
「いざとなれば、わし一人でもあの廃墟に戻らねば」
「やめて」
 ハリエッタはぴしゃりと言い放つ。そしてしばしの思案ののちに、こう切り出した。
「このまま三人だけで、予定通り峠を越えて、クレムルフトに向かいましょう」
「なんと……!?」
「あちらの人たちに事情を話して、力を借りるしかないのではないかしら。私たち三人だけで浅はかな行動に出るよりも、頭を下げて助けを乞いましょう」
 父はううむ、と唸ったきり、それ以上何も反論しなかった。元より生活を頼って転がり込むのであるから、それ以上気にかけるような体面もそもそもあったものではない。ハリエッタの言う通りに、一行は廃墟を離れていった。
 すでに日も傾きかけていたが一家は夜通し、峠道を進んでいった。さすがに馬も休ませねばならぬし彼らも不眠不休とはいかないので、夜半過ぎに軽く野営をし、早朝薄暗いうちにまた出発し、クレムルフトにたどり着いたのは朝方だった。
 王国の最果て、山間の寒村という触れ込みからすると幾分かは拓けた印象の街並みであった。谷間の斜面に沿って小さな家屋が立ち並ぶ小ぢんまりとした街並みではあったが、雪に耐えるようにか建物はいずれも石造りの堅牢な造りで、道も目抜き通りから路地に至るまで石畳で丁寧に舗装されている。町を貫いて流れる川には立派な石積みの橋がかかっており、その橋を渡った先にある白い大きな屋敷が、領主代行を務めるコルドバ・ラガンの邸宅であるようだった。
 まだ朝も早い頃合いで、門扉に立つ番兵も気の抜けた表情で立ち尽くしており、クリム家一行の到着にもただただぽかんとするばかりだった。それでも、その若い兵士が慌てて屋敷へと駆け込んで行くと、程なくしてハリエッタ達はコルドバ・ラガンと対面することとなった。
「ようこそおいで下さいました」
 突然の来訪にも、コルドバ・ラガンは嫌そうな顔を微塵も見せずに笑顔で挨拶を述べた。歳の頃は父グスタフと同じかそれ以上、恰幅のよい腹周り、頭はすっかり禿げ上がっており、身長もグスタフより頭ひとつは高い。いかにもな悪相ではあったが物腰は柔らかかった。早朝の唐突な訪問にもかかわらず嫌な顔ひとつ見せるそぶりもない。そんな彼の前に一家揃って埃まみれのしょぼくれた風体で対面することになったハリエッタは、何だか申し訳ない気持ちになった。
 父グスタフも同じ思いだったのか、まず口をついて出てきたのはやはり謝罪というか、弁明めいた言葉だった。
「夜通し山越えをしてきたら、このような時間になってしまった。決して朝の静かな時間を邪魔立てしたかったわけではないのだ」
 許せ、と言いかけた父の言葉をコルドバは遮った。
「何をおっしゃいますやら。あるじが使用人に気をつかうようでは話があべこべでございます。……まあ、正直に申せば確かに何故このような時間に、と不思議に思いはしましたが、ご様子を拝見する限りでは皆様の身に何事かおありになったようですな。大したもてなしも出来ませんが朝のスープくらいであれば取り急ぎ用意出来ます。まずは身体を温めながら、ゆっくりとお話しをうかがましょう」
 さあ、どうぞ、と促されて、クリム家一行は食堂へと案内された。
 スープくらいはと言われたが、実際にはきちんと三人分の食事が用意されていた。考えてみれば廃墟の一件以降はほとんど食事らしい食事にありつけていなかったし、そうでなくても王都の慎ましい我が家で食べていた普段の朝食と比べても、そこに並べられていたのは控えめに言ってご馳走呼ばわりして差し支えなかった。ハリエッタもエヴァンジェリンも、貴族の子女であることを疑われそうな勢いで平らげてしまったのだった。
 それでも、父グスタフは食事も喉を通らないようで、かろうじてスープで暖を取りつつ、ヴェルナー砦に立ち寄ったこと、そこで怪異に遭遇して命からがら逃げてきたこと、その際に長女であるリリーベルをそこに置き去りにしてきてしまったことを、コルドバに語って聞かせるのだった。
 常識で考えれば、怪異に遭遇したなどとまともに取り合ってもらえる話とは到底言い難かったかもしれない。だがコルドバも、その席に居合わせた使用人達も、誰一人笑うものはいなかった。
「あの砦の怪異について言えば、この荘園でそれを作り話や見間違いだなどと疑ってかかるものは一人もいないでしょう。実際、クレムフルトまで足を運んでやってくる行商の者たちなども被害を被っておるのです。しかしファンドゥーサの王国軍にたびたび陳情してはいるのですが、どうにもまともに取り合ってもらえたためしがないのですよ……」
「そうであったのか……」
「とはいえ、クリム家のご令嬢が捕らわれの身とあっては私どもとしても看過するわけにはまいりません」
 コルドバはそういうと、先ほどから背後に付き従っていた男に合図を送った。
 年の頃は三十半ばといったところか。すらりと長身でがっしりとした体つきに、軍服のような意匠の制服を身にまとっていた。腰には剣を下げており、兵士か、ともすれば騎士と呼んでもおかしくはないいでたちだった。
「紹介いたします。これはわが息子ガレオン。かつては王国の正騎士の任に当たっていたこともあり、それを退いてからはわが荘園の守りを固める私設騎士団を任せております」
「正騎士」
 その言葉に、ハリエッタが思わず居住まいを正す。
「ということは、王都に?」
「入団試験の折に一度王都を訪れたきりで、そのあとはずっと南部のスレスチナに赴任しておりました。試験のさいにはご挨拶をとクリム家を訪れてみたものの、あいにくお留守で……」
「そういえばそんなこともあったか。あとで挨拶の書状に目を通したきりであった。このような頼もしいご子息がおられたのだな」
 感慨深げにつぶやくグスタフだった。
「ガレオンよ。そうともなればすぐにでも部隊を編成し、ヴェルナー砦へとリリーベル嬢の奪還に向かうのだ」
「承知いたしました」
 そういうと、ガレオンは軽く頭を下げると踵を返して大股にその場を後にしていこうとした。それをみやって、グスタフが慌てて席を立つ。
「わしも……わしも行くぞ」
 そういってガレオンの後を追いかけようとするが、二、三歩歩いたところでよろめいて膝をついてしまった。
 慌ててハリエッタが駆け寄って助け起こすのだったが、その時になって父の額に玉のような汗の粒が浮かんでいるのが見えた。手をやるとものすごい熱だった。
「父さま、無理をしてはだめよ」
「しかし、リリーベルが……」
 反論というよりはうわごとのような父の言葉に、ハリエッタは思わず妹と顔を見合わせる。妹が肩をすくめたのを見やって、ハリエッタは半ばため息混じりに覚悟を決めた。
「では、私が同行します」
 そういったハリエッタを、ガレオンは値踏みするような眼差しでしばし無言で見やっていた。
「女の身で足手まといに思われるかも知れませんが、馬には乗れます。……姉を助け出したいのです」
「よろしい。ご家族の身を案じるお気持ちはよく分かります。ご一緒に参りましょう」
 そんな次第で、熱を出した父にはエヴァンジェリンが付き添う事となり、ハリエッタは再び山を越えてヴェルナー砦に向かう事となった。
 ガレオン・ラガン率いる奪還部隊は、速やかに支度を済ませ、昼前には荘園を出発していったのだった。
 雄壮な騎馬の行進に、クレムルフトの人々も何事かと思いはしただろうが、沿道に集まった者達はとにかく元気に手を振って騎士団を送り出していく。
 そのまま一行は峠道を粛々と進んでいった。夕刻までもう少し、というところでガレオンは部隊をいったん止め、休憩を命じた。
「いやな雲。このまま雨にでもなる?」
「どうやらそのようですな。小休止のつもりでしたが本格的にここで野営した方がよいかも知れません」
 野営、と聞いてあからさまに表情を曇らせたハリエッタに、ガレオンがいう。
「どれだけ早駆けしたところで砦に到着するのは明日、山中のいずこかにて夜を明かす事になるでしょう。あの城門をくぐって敢えて怪異に立ち向かうとなれば少しでも英気を保っておくに越した事はない。あるいは……」
「あるいは……?」
「ハリエッタ殿。あなたには申し訳ないが私はこのまま一度荘園に引き返した方がよいように思う」
「なんですって?」
「正直、私は父があれほど律儀な忠義ものだったというのが実に意外でして。命令が下った以上は兵を出さざるを得ないゆえ、ここまで来ましたが、砦が迂闊に足を踏み入れる場所ではないことは父にしてもよく承知しているはず。手勢の者たちに、わざわざ危ない目にあえと命令を下すのもためらわれるところです」
「では、姉を見捨てろと?」
「むろん手をこまねいているばかりではない。ここから早馬を飛ばして、ファンドゥーサの駐留部隊に救援を願い出るのです。これまでは真面目に取りあってもらえませんでしたが、クリム家の令嬢が消息不明とあれば重い腰を上げてくれるでしょう」
 ガレオン・ラガンの言い分にはどうにも納得しかねたが、彼がそのように言うのも仕方がないところだった。もともとクリム家が領主であると言っても、実態は文無しになって転がりこんだ厄介者であるから、必ずしも歓迎されないであろうことはあらかじめ覚悟していたことだった。救援を願い出た時点で、そもそも突っぱねられていてもおかしくはなかったのだ。
 その上でガレオンの提案について思案を巡らせる。仮に彼の言う通り早馬を送ったとして、それがファンドゥーサに到着し、王国軍がこちらの言い分を聞き入れて出兵を即断してもらえたとしても、実際に砦に救援部隊がやってくるまで何日かかるのか分かったものではなかった。出兵の可否を決めるのにぐずぐずと日数を要することも想定できたし、ましてや出兵しないと結論が出たり、そもそも最初から門前払いを食う恐れもある。その場合はやはりこの場にいる面々で砦に乗り込んでいくしかないのではあるまいか。
 だったら、ここで二の足を踏んでいるガレオンが、王国軍の救援が出る出ないの結論が出たあとで快く手を貸してくれるかどうかも怪しかった。そうこうしている間に、姉の身に何が起きるか分かったものでもなく、何も起きなかったとしてもあの呪われた骸骨どもが虜囚にいちいち水や食料を与えてくれるとも思えなかった。
「……分かりました。そういうことでしたら、致し方ない」
「では、荘園に戻りましょう」
「いえ。ここまでの同道には感謝します。ここからは私一人で行きます」
 そう言ってハリエッタはすっくと立ちあがり、愛馬ミューゼルの元に向かった。
「おやめなさい、あなた一人で行ってどうにかなるものでもありますまい」
「ひとたびは無事逃げ出してこられたのです。あの時は老いた父も一緒でしたが、まだ私一人の方が身軽やもしれません」
「あなたの身に何事かあれば私が父コルドバに顔向け出来ません。砦行きに関してはああ申し上げたが、だからといって好きにしろとは到底言えるものではない」
 ガレオンは部下たちに、ハリエッタを引き留めるように促した。手下の兵士たちは寄ってたかって、馬上にまたがろうとするハリエッタに手を伸ばし身柄を無理やりに取り押さえようとする。
 その時だった。
 ハリエッタは向こう側の木立の奥、茂みの向こう側に、ふとこちらをじっと見ている視線があることに気づいた。
 誰……というか、何者?
 彼女の注意がそちらにとられたのにつられて、兵士たちも思わず木立の向こうの闇を見やる。一同がじっと見守る中、その場にのっそりと進み出てきたのは、一匹の狼だった。
 その場の一同が息をのんだのは何もそれが牙と爪をもった獣であったという一点だけではなかった。無論ただの狼であってもそれは十分に警戒すべきだったのだが、その場に現れたのは本当に狼かどうか目を疑うほどに、通常のそれよりもゆうに一回りは大きな体躯をしたいかにも恐ろし気な猛獣だったからだった。
 これに襲われでもしようものならばひとたまりもない、と誰しもが身の危険を覚えたことだろう。ハリエッタもそうだったし他の兵士達もそうだっただろうが、どうもガレオンだけは少し違った所見を抱いたようだった。
「そうか。やはり、そういうことなのか」
 何かを達観したかのように乾いた高笑いを響かせたかと思うと、ガレオンはおもむろに、配下の者に命じたのだった。
「その狼を殺せ。仕留めるのだ!」
 さすがに手下達もそれには面食らった。土地柄狼などまったく見た事もないとは言わないが、そのような猟師の真似事に必ずしも通じている者ばかりではなかったのだった。
 それでも命じられるままに、部下達は剣を抜いて狼を取り囲んだ。
 とは言え一斉に踊りかかればよいというものでもなく、互いに顔を見合わせて機を掴みあぐねているうちに、誰かがハリエッタに向けて語りかけてくるのだった。
「おい、そこの娘。この窮地を脱したくば、おれに掴まれ」
 そう――誰かとは、まさに目の前の狼自身だったのだ。
 その提案に従うのか拒むのかを論じる以前に、そもそも狼が何かしら人の言葉を喋って語りかけて来たという事実を冷静に受け止める必要があった。
 疲れ切って幻でも見ているのでは、とすら疑ったが周囲の兵士たちも一様に狼を不審な目で見ていたから、彼女一人の幻聴とも言えなかった。
 そもそもこれは彼女にとって窮地と言えたのだろうか。窮地に立たされているのは、殺せと命じられた狼の方では無かったか。
 だが狼はと言えば、おのが身の危険を感じて怯えている風でもなく、包囲も気にせずにゆっくりと前に進み出てくる。取り囲む兵士達も、それに合わせてじりじりと後ずさる。
 狼は果たして何をしようとしているのか……そう、それはまっすぐに、ハリエッタの方に近づいて来ているのだ。
 ハリエッタが後ずさっても気にせず距離を詰めてくる。人語を解するとは言え獣を前に急に走り出すのはまずいという思いもあった。どうしたものかと思案を巡らせているうちに、いつの間にか狼はハリエッタのすぐ傍らにあり、そんな狼を包囲する兵士達に、ハリエッタもまたすっかり一緒に取り囲まれてしまっていたのだった。
 狼のいう、窮地というような状況が、ここに来て狼のおかげで成立してしまったようであった。
 何より……狼を殺せと言ったガレオンが、狼を見る険しい眼差しで、ハリエッタの事も一緒に睨み付けていたのだ。彼女に下がれとも言わないし、兵士達に彼女の身を助けろとも言わなかった。
「ガレオン殿……?」
「仕留めるのだ」
 ガレオンが冷徹に命令を繰り返す。あくまで狼だけのことを言っているのかどうか、命ぜられた兵士達の側にも少なからず疑問符が浮かんでいるようでもあった。
 となれば、もはや迷ったり戸惑ったりという猶予も彼女にはなかったのかも知れない。
 だから、ええいと覚悟を決めて、促されるまま狼の首すじにしがみついて、その背中に揺られるままに身を預けたハリエッタだった。
 ……が、わずか三秒後にはその判断を後悔していた。
 狼は一目散に森の茂みに飛び込んでいくと、そこから先は彼女にしてみれば飛び降りるも同然の急斜面だった。狼は器用に足場を飛び伝って駆け下りていくが、ハリエッタは生きた心地がしなかった。
 狼なりに道を選んではいたのだろうが、背に揺られる身にはやみくもに駆け通していただけにしか思えなかった。
 一息ついて狼が足を止めるころにはうっすらと霧に似た細かい雨で森はけぶっていた。
 空気が恐ろしく冷たく感じられて、ハリエッタは思わず狼の背のふさふさした毛並みに身を預ける。
「それで、これからどうするんだ」
「どうする、というのは……?」
「さっきの男らとの話、立ち聞きするのもなんだが少し聞かせてもらった。お前はあのヴェルナー砦に行きたいんだな? このまま一人で砦に行くつもりか?」
「他にどうするあてがあるとでも? ……そもそもあの状況であなたに助けてもらう道理が分からない。どうして姿を見せたりしたの」
「通りすがりに困っているように見えたから助けようとしただけだが、迷惑だったか?」
「別に、引き留められていただけで無理やり捕らえられてたわけじゃない。それよりあなたが姿を見せたせいで、あのガレオンはすっかり私があなたの仲間だと思い込んじゃったみたい。おかげさまで余計に話がこじれてしまったわ」
「ふむ。だったら、あいつらはこのままこの森でお前や俺を探しに来るかな……?」
「さて、ここまでくれば、猟師でもない限りは容易に足を踏み入れられないような場所に来てしまったように思うけど。それより、彼らはいったん荘園の方に戻るんじゃないかしら。私がいないのに砦に行く理由がないし……」
 ハリエッタはそこまで思案して、そもそも一番先にしなければならない質問があるのに気づいた。
「それより、そもそもあなたはいったい何者なの? どうして狼のくせにしゃべっているのよ」
「失礼な。おれはただの狼じゃない」
 そういって、狼はハリエッタから少し距離を置く。すっく、と後ろ足で器用に立ち上がったかと思うと、その姿には少しずつ変化が。
 やがて狼は、一人の青年に姿を変えた。
「……人狼!?」
 ハリエッタは思わず息をのんだ。
 怪異はそもそもあの砦で死せる兵隊たちに遭遇していたから、今更何が出てきてもおかしくはなかったかもしれない。狼がしゃべることも、それが人狼だったことも驚くには値するだろうが、その時のハリエッタが激しく動揺していたのはそれだけのせいではなかった。
 狼が人間に姿を変えるのはまだいい。
 その狼がそもそも服を着ていたわけでないのなら、姿が人間に転じたところで一糸まとっていなくてもやむを得ないところだった。
 つまりは、目の前にいる青年はうら若きハリエッタの目の前で、まさに全裸で立ち尽くしていたのだった。
 怒りとも恥ずかしさともつかない動揺で全身がわなわなと震えるのが自分でもはっきりと分かった。何も包み隠さないその裸身に、その目が釘付けになればよいのかそれとも慌てて目を背けるべきか、それすら正しい判断が下せずにいた。
 あまつさえ、先ほどまで彼女は毛並みを撫で顔をうずめたりまでしていたのだ。
 恥ずかしくて死にたい、とはまさにこのことだった。むしろ彼女はその場で、年頃の乙女らしく悲鳴の一つでもあげていればよかったのに、それを無駄に我慢するからこそ逆に動揺とも後悔とも、何とも説明のつかない憤怒に似た情感がこみあげてくるのを止められないのだった。
 やれやれ、と短くこぼして、人狼はふたたび狼の姿に戻った。
「おれもこっちの方が楽と言えば楽だ。おまえもこの方がいいだろう」
「と、とにかく! 私はいったん荘園の方に戻る! 屋敷で待ってる父さまと妹のことが気にかかるわ」
「道はわかるか?」
「分かるわけないでしょう!」
 思わずけんか腰に叫んでしまった。狼は、それは結構、と豪快に笑ったかと思うと、また先ほどのように背に乗るように彼女を促すのだった。ハリエッタの脳裏に先ほどの裸身がよみがえったが、ぶんぶんと首を横に振って、またその背中にしがみついた。
 しとしとと雨の降る中、二人は――一人と一頭は山道を伝って、クレムルフトの荘園にまで戻っていくのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?