魔人バラクロア その4

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 さて、兵士達がそうやって退却していくさまは、もちろん洞穴にいる魔人とリテルも、例の水鏡で見て把握していることでした。洞穴の外では炎が盛大に燃えさかっておりましたが、近づく者がそれ以上いなくなったという意味では静かになったといえるわけで、リテルと魔人は恐る恐る、洞穴にやってきた――転げ落ちてきた椿入者の様子を見に行くことにしました。
 入り口の斜面を、てっぺんから底まで一気に転げ落ちた格好になるわけですから、実際にはそこまで険しい傾斜ではないにしても、もしやということも有り得るわけで、とくにリテルなどは心配で気が気ではありませんでした。これという物音も声もせずに妙に静かだとなればなおさらです。
 無論、魔人にしてみれば相手の身を案じる由縁などまったくありませんでしたが、これまでリテル以外に許してこなかったこの洞穴への予期せぬ来訪者の存在は、彼にしてみればやはり迷惑なものでした。
 そんな次第で……洞穴の入口の斜面の一番下を、魔人とリテルが二人して恐る恐る覗き込んでみますと、そこに鎧かぶと姿の中年男が倒れ伏したまま、小さなうめきをあげていたのでした。
「ううむ……」
 気を失っているのかと思いきや、そうではありませんでした。倒れ伏したままの姿勢で、ぼんやりとした視線で周囲を見回して、おのれの前に立つ二つの人影――魔人とリテルの姿を見出したかと思うと、不意に形相を険しくして、二人を睨み付けてきたのでした。
「貴様が火の山の魔人、バラクロアか」
 いかにも忌々しげに口にしたその言葉に、当の魔人はその通りだとも、いや違うとも、何も言い返さぬままにいかにも迷惑げな表情でホーヴェン王子を見おろすばかりでした。
「おい、こいつをどうしたものかな……?」
 まるでぼやくような口調でリテルに問いかけましたが、彼女だってこれには返答に窮するばかりで、どう答えてよいのかうまい答えがすぐには見つかりませんでした。
 が、そんな二人の短いやりとりは、王子の目を魔人ではなくリテルの側に向けさせるに充分でした。魔人を睨み付けたとき以上の険しい表情でリテルをくわっと睨み付けると、歯噛みするように口元をゆがめたまま、リテルを詰問するのでした。
「小娘よ、お前は一体何者だ? 何故このような場所にいるのだ。……それともお前の方が、火の山の魔人だとでもいうのか」
「いえ、あの、えっと……それは」
 困惑したリテルが思わず後ずさった次の瞬間、ホーヴェン王子の口から突然罵りの言葉が飛び出してきて、リテルは怖くなって魔人の小さな背中に隠れてしまいました。
「畜生めが! そういうことだったのか! ……お前だな、魔人に焼き殺されたという村の娘というのは。それがどうして、当の魔人と連れだってこのような場所に隠れ潜んでいるというのだ!」
 どうして、という言葉が、実際に理由を問うているので無いことは明白で、いかに呑気者で考え無しのホーヴェン王子でも、事の次第は充分に察しがついたようでした。王子はその場でまるで地団駄を踏むように、岩場の上を転げ回り始めたのです。……まあ無理もなかったかも知れません。いたいけな少女が魔人の犠牲になったと聞いてわざわざ兵を動かしたというのに、その少女が何食わぬ顔で当の魔人の隣に立っているのですから。
 王子は悔しそうに一通りわめき散らしたかと思うと、急に痛々しい苦悶の呻きを上げて、そのままうずくまるような姿勢で固まってしまいました。
 リテルが恐る恐る、様子を窺いました。
「ど、どうしたの……?」
「足が……あ、足が」
 何とか言葉になったのはそこまでで、あとは声にならぬうめき声を、まるで猟師の罠にかかった鈍重な獣のごとくに繰り返すばかりでした。次第にその声も、まるで諦めがついたかのように不意に止んで、そのままぐったりと動かなくなってしまったのでした。
 一体どうなったのかと心配になってきたリテルでしたが、まさか王子様ともあろう御仁を、爪先で小突いてみるわけにもいきません。どうすればよいかと逡巡していると、魔人がすたすたと王子の側に歩み寄って、うずくまったままの王子の身体を、よいせとばかりに無造作にひっくり返したのでした。見れば、ホーヴェン王子は見るも無様に、白目をむいて気を失ってしまっておりました。
「よし、今のうちに外に放り出しちまおうか」
 魔人の言葉に、そうするのが一番だ、と思わず頷きかけたリテルでしたが、急に思い直して、強くかぶりをふるのでした。
「それは駄目」
「どうしてだ?」
「……だ、だって、この人は私が生きてここにいることを知ってしまったのよ? 私達が兵隊さんたちをずっと騙していたこともばれちゃったわけだから、このまま帰してしまったら私たちだけじゃなく、村の人まで罰をうけることになったりするかも知れないわ」
 思い詰めた表情でリテルはそのように語るのでした。魔人にしてみれば、そういう諸々はリテルの企みであって自分はあまり関係ないし、どうせ企みが露見しようがしまいが、魔人として討たれることになるのは変わりがなかったのですが、まあそれはそれ。
「魔人様、このまま奥に運び入れてしまいましょう。ささ、早く」
「……へいへい」
 人使いの荒いことだ、と魔人はため息を付くと、渋々リテルの言葉通り、気絶したホーヴェン王子を担ぎ上げるのでした。


 リテルが心配したのはまず王子の怪我の具合でしたが、これは全然大した事はありませんでした。骨折でもしていようものなら魔人やリテルには手が負えませんでしたから、ふもとに運び出す必要があったでしょうが……本人がやたら大げさに痛がっていた割には、実際にはほんの少しばかり足首を捻った程度で、布で縛って固めておけば大丈夫そうでした。それでも一応、リテルは魔人にこっそり村に連れていってもらって救急箱やら湿布薬やらを持ち帰って、手当を施したのでした。
 ホーヴェン王子も、魔人が少年の姿をしていることもあってか、所詮子供の二人連れとあなどって制止を振り切って下山しようと試みたことも二度三度ありましたが、そのたびに魔人が恐ろしい炎の姿になって行く手を遮ったのでした。さすがにそれには肝を冷やしたのか、それ以上脱走しようという試みはあきらめてしまったようでした。その本性は恐ろしい化け物なのだと知って、普段の少年の姿を目の当たりにしても、どこか落ち着かない素振りを見せる王子なのでした。
 ……ちなみにリテルにしてみたら、おそろしい姿の方こそ人をおどかすためにわざとつくった姿だと認識していたので、もはや欠片たりとも怖いとは思わなかったのですが、それはそれ。
 ともあれリテルの方も、まさか自分が誰かを閉じこめて帰さないような役回りになる日が来ようとは夢にも思ってはいなかったわけで、しかも相手は何番目かずっと後ろの方とは言え王位継承権を持つやんごとなき御仁なのです。どう扱い、どう接してよいのやら、ひたすら戸惑うばかりでした。足首はじっと安静にしていればそのうち治るでしょうが、問題は食事です。リテル自身の分すらままなっていないというのに、こんな洞穴にまともな厨房や一流の料理人がいるわけでもなく、王族に相応しい贅をこらした美食など、到底望むべくもなかったのでした。
 ホーヴェン王子自身は、美食家でもなければ浪費癖もなく、今回のように王国軍の小さな部隊の細かい任務に同道しては、一般の兵卒と同じ飯をくって野宿するような状況をとくに何とも思ってはいませんでしたし、敵の虜囚ともなれば満足な食事も与えられないこともあろう、という覚悟もあらかじめ無かったわけではありませんでした。何が不満と言って、囚われの身になったというその事実そのものが、王子にとっては屈辱以外の何物でもなかったのでした。
 しかも魔人を名乗る怪しい氏素性の少年と、ふもとの貧しい村の小娘と、自身を捕らえているのはこの両名なのです。屈強な軍勢の頑強な兵士達に取り押さえられでもしたならともかく、どうしてこういう境遇に陥ったものか、その経緯が彼にしてみれば大いに納得しかねるものがあったのでしょう。
 それでも出された食事は丁寧に平らげ、食器を下げにやってきたリテルに向かって、ぼそりと告げたのでした。
「おい、娘」
「は、はいっ……!?」
「あの少年が魔人だとして、食事はどうしているのだ。やっぱり人間の生け贄をとって食らうのか?」
 その質問にリテルは、とんでもない、と首を横に振ったのでした。
「バラクロアさまは、人間のような食事はしないんですよ」
「そして俺が見た限りではここにいるのはあの魔人の他にお前だけだ。ならば、この洞穴に食糧の備蓄などあるはずもないよな。……お前の食い扶持を、魔人はどうしているのだ」
「そ、それは……」
「俺の食事はどうだ? どこから持ってきているのだ?」
「えーと、それは、そのう……」
「我が軍の糧食をかすめ取っているのだろうが! ええい!」
 王子は急に声を荒げると、空っぽの木皿を思いっきりあさっての方角に向かって投げ飛ばしたのでした。かっとなって物に当たるというのも育ちのよい貴人の振る舞いとは到底言えませんが、ふがいないこの現状を鑑みれば、そういう腹の立て方をするのも無理はなかったかも知れません。
「何という悪辣なガキどもだ!」
 そんな調子で、憤るままに悪態の言葉を片っ端から並び連ねる王子のありさまは、魔人の炎などよりもよっぽどリテルを怯えさせるのに充分でした。年端も行かぬ子供が怯えているのを目の当たりにして、王子も自分の身分を思い出したのかふと我に返って、咳払いなどして誤魔化すのでしたが、かといってそれ以上悪びれるでもないのがこのホーヴェン王子という御仁なのでした。
「大体、お前は虜囚でもないのに、どうして山を下りないのだ。両親も心配しているのではないか?」
「まぁ、それはそうなんですけど……」
 確かに、リテルにしてみればそれは耳の痛い指摘でした。部隊が駐留を続ける限り村人が飢えることがない以上、自分がここにとどまっているのは村の皆のためなのだ、と自分に言い聞かせ、使命感に燃えていた彼女ではありましたが、こうやってあらためて諭されてみると、やはり色々と思うところが何もないというわけにはいかないのでした。自分の無事をはっきりと両親に伝えてもいない、というのもありましたし、何よりこのまま王子の身柄をこの洞穴に留めおけば、残された王国軍によってそのうち死にものぐるいの奪還作戦が実行に移されるのは必至と言えたかも知れません。その時になってしまえばもはや事を冗談で済ませるのは大変に難しいでしょう。
 もっとも、村にいる兵士達の様子は魔人の水鏡の術を使えば容易に把握出来るので、彼らが実際に動きを見せるまでは一応の猶予はあるということもあって、リテルは一人思い悩みながらも結局ぐずぐずと結論を先延ばしにしていたのでした。
 そうやって、王子が虜囚となってから何日かが過ぎたとある日の事でした。
 そのころにはもはや王子も力づくで脱出しようという試みを半ばあきらめつつありました。悪く言ってしまえば気分屋で独善的なホーヴェン王子でしたが、あえて良く言うのであれば情に厚いという一面もないわけではなかったので、魔人がそもそもあまり自分に興味を払ってはいなさそうだという事を感じ取ると、あとはずっとリテルをなだめたりすかしたりと、説得めいた事を延々試みていたのでした。
 一方の麓の様子はといえば、例のフォンテ大尉が何日も前から、青ざめた表情のままずっと頭を抱えていました。王子が生死不明の行方不明というこの現状を前に、最低限安否だけでも確認しなくては、大尉にしてみれば立つ瀬がないというものでした。ですがそのためには、これまでさんざん失敗を繰り返してきた火の山への突撃行を、今一度繰り返してさらにそれを成功に導かなければならないのです。
 しかも、ひとたび失敗すれば王子の身に関わることですから、二度目はさらに兵力を増強して……という流れになるのは必至で、しかも事の重大さを考えれば、大尉よりも上位の士官がやってくるのは当然のことと言えたでしょう。そうなれば、大尉は指揮権を譲らざるをえないわけで……つまるところ増員を要請した時点で、事態が自分の手には負えないという事実を認め投げ出してしまう、という事になってしまうのです。
 その上で、結果的に王子が死んでいました、ということにでもなれば、失職するという意味合いではなく文字通り「首が飛ぶ」という事にもなりかねないわけでして……。現状ここでこうやって待っていても状況が好転することはないと分かっていても、兵士達の鋭気を養う、などの名目でどうあってもぐずぐずと結論を先延ばしにせざるを得ないのでした。彼に洞窟の状況がもし把握できていたならば、本当はリテルが迷っている今こそが王子奪還の好機だったと言えたのですが……。もちろん、そんな事はフォンテ大尉のあずかり知るところではありませんでした。
 そんなこんなで膠着した状況下、火の山に唐突な来訪者があったのは丁度そんな折でした。
 その日もホーヴェン王子は、食事を運びにやってきたリテルに向かって、両親に心配をかけるものではないだの、このまま王国軍が突入してくれば取り返しのつかないことになるだの、彼女にとって耳の痛い話を滔々と垂れ流していたのでした。素知らぬ顔で聞き流せばよいものを、リテルもいちいち真に受けて、困惑顔になってしまうのでした。
 そんなリテルに、不意に誰かが声をかけてきたのです。
「何やら困っておるようじゃな。うまい解決策が、無いわけでは無いのだが」
 暗がりから突然響いてきたその声に、リテルはびっくりして飛び上がりました。
 ホーヴェン王子を軟禁しているその場所は、火の山の洞穴の、奥まった位置にある行き止まりの細い通路の、その丁度袋小路の部分でした。大柄な王子でも身を横たえるには充分な広さがあり、ここを寝床にしろと魔人に指図されるがままに、王子もいやいやながらに従っているという次第でした。何せここから洞窟を抜け出すには、魔人がいつも目を光らせている広間の部分を通らなければなりませんし、仮に魔人がその場所にいないとしても、常にどこにでも目があるかのように神出鬼没な魔人ですから、鍵も錠も何もなくてもそれで充分なのでした。
 だから、そこからホーヴェン王子が出てくる事もありませんでしたし、その場所にリテルやホーヴェン王子以外の人物が出入りするようなことも、本来は有り得ない事だったのです。もちろん天然の洞窟ですから、ごくわずかな亀裂や隙間が皆無とは言いませんが……生きた人間がそんなところから出入りするなど、不可能な話でした。
「……誰? 誰なのっ!?」
 うろたえるリテルを前に、声の主は暗がりから何の返事もないままに、ひたひたとこちら側に歩み寄ってくるのでした。闇に目の利かないリテルのために、広間には煌々と照明用の火の玉が浮かんでいて、その明かりの下に、謎めいた来訪者の姿が徐々に明らかにされつつあったのです。
 その何者かと、おびえて後ずさるリテルとの間に、不意に魔人が滑り込んでくるかのように姿を現しました。音もなく現れたのは一緒でも、リテルにしてみればこれほど心強い味方はいないのでした。
「バラクロアさま!」
「分かっている。……おい、お前。一体何者だ?」
 これがどうにもただごとではない事には、いつもはのほほんと構えている魔人が、このときばかりはなかなかに厳しい態度を見せていたのでした。この者の出現の仕方を考えれば、それもやむを得なかったかも知れません。
 ホーヴェン王子も、固唾をのんで成り行きを見守るしかありませんでした。魔人はどちらかというと王子の処遇には無関心もいいところで、放り出してしまえとリテルが言い出せば唯々諾々と従いそうな雰囲気がありましたが、そんな彼でもこの第三者に関してはどうにも剣呑な、穏やかならざるものを感じずにはいられないようでした。両者のやり取り次第ではもしかすると自分の身の安全にも関わってくるかもしれないとあって、王子としてもあまり悠長に構えてはいられないのでした。
 そんな三者三様の、警戒したり怯えたりといったそぶりをよそに、不意に現れたその招かれざる来訪者は、ただ静かに、彼らの前にゆっくりと進み出てきたのでした。
「突然のことで、どうやら驚かせてしまったようじゃな。わしは別に、そなたらと諍いを起こしにきたわけではないから、そう警戒せずともよろしかろうて」
 暗がりから現れたその御仁は、しわがれたその声の印象の通りの、白髪の老人でした。足取りこそ多少しっかりとはしていましたが、それでも腰は少し曲がって、その所作も全体的にゆったりとしたものでした。その手にしっかりと丈夫そうな杖を持ち、三人を前に堂々たる立ち振る舞いでもって相対したのでした。
 老人に返事をしたのは、魔人でした。
「だったら正面から入ってこいよ。どうしてこんな風に、裏からこっそり、黙って入ってきたりするんだ、お前は」
 その声が苛立ちを隠しきれないのは、侵入者の存在を事前に感知できなかったせいだったでしょうか。老人はそんな魔人の態度をみて、何やらにやにやと笑みを浮かべるのでした。
「まあそういきりたつものではない。企てやたくらみごというのは、いつだってひっそりと人目を忍ぶものじゃからのう」
 そう言って、老人は一人満足げに、ほっほっほっ、と呑気に笑うのでした。もちろん、それが黙って不法に侵入するいいわけになっているわけでもなかったので、誰もその意見に同調はしませんでしたが。
 老人も、べつだん誰に同意を求めるでもなく、誰に促されるわけでもなしに一人勝手に話を先に進めるのでした。
「この火の山に、勇敢にも王国の軍勢どもに弓ひく、豪気な御仁がおるという話を聞き及んでな。どうしてもその者に会ってみたく思って、こうしてわざわざ足を運んでみたという次第じゃよ」
 老人がそのようにいうのは、もちろんここにいる魔人――と、頭数に数えてよければリテル――の事でした。しかし、だからといって客人として温かく招き入れようという気は魔人には全くありませんでしたし、だからといってこの見るからに風体怪しい来訪者を、今すぐにでも力づくで叩き出す、というのも少し短絡的に過ぎるような気がしました。
 結局、さすがの魔人も渋々ながらに老人を広間の方に通したのでした。
 ホーヴェン王子も成り行きが気になるあまり、一緒に広間の方に進み出てきそうになりましたが、魔人がこれを目ざとく見咎めたので、仕方なく元の場所に戻ってそこで耳をそばだてるしかありませんでした。
 老人は誰に促されるでもなく、手近な岩の上によいせと腰を下ろしました。魔人はそのすぐ正面にどかっと座り、リテルもその魔人に寄り添うというか、後ろに隠れるように岩場にしゃがみ込みます。
 そんな二人を前にして、老人は滔々と語り始めるのでした。
「しかし、さすがは魔王バラクロアどのですな。王国軍に楯突くのみならず、あのように王家の血統のものを簡単に生け捕りにしてしまうとは。音に聞こえる御仁だけのことはある」
「……魔王、って言ったか。俺の事を知っているのか」
「それは、もう。かつてこの王国の半分を焦土とし、あまたの民という民を殺戮した、他の何よりも恐ろしい火の魔王ではありませぬかな」
 老人の言葉に、リテルが少し複雑な表情になって魔人を横目でみやるのでした。その視線を受けて、魔人は必死になって首を横に振るのでした。
「いやいやいや、違う違う違う。爺さんはおれを誰かと勘違いしているぞ。おれはそんなことはしないし、しようと思ったこともない」
「おや、そうなのかな? 地熱に揺られて長くまどろんでいるうちに、随分と気性が変わってしまったということなのかな? まあ、過去のいきさつなどこのさいどうでもよろしい。大事なのは、火の山のあるじたるバラクロアが今ここにいて、そこに王国の王子という絶好の手駒がある、というまぎれもない事実の方じゃて」
 はっはっは……と快達に笑う老人でしたが、リテルも魔人も、少しも笑う気にはなれませんでした。何よりも、この老人が何のためにここにやってきたのか……果たして何を目的に、そのような話を持ち出すのか、それがはっきりしない事には少しも安心出来ないのでした。
「それで」
 老人が笑うのを苛立ちとともに遮って、魔人が問いかけました。
「あんたはさっき、うまい解決法がある、って言ってたな。あんたのいうその解決法ってのは一体何なんだ?」
「まあ、そう慌てるでない」
 老人はやれやれと呟くと、ひとつ深呼吸をしたあと、あらたまった素振りでその話を切り出してきたのでした。
「そなたの問いに答える前に、わしの方からも質問させてもらおうかの。せっかく捕らえたあの王子、バラクロアどのはどのように処遇するつもりなのかな?」
「どうするも、こうするも。それを決めあぐねているから、困っているんじゃないか」
「ならばその身柄、このわしに預ける気にはなってくれぬかのう?」
「……何だって?」
「こう見えても、わしは今の王家に、それ相応の恨みつらみが無いことも無くてのう」
「……」
「だからそなたのように、王国相手に煮え湯を飲ませて頑張っているような輩をみると、たいへんに胸のすくような思いがするのじゃよ。……とは言え、そなたらだけではここいらが限度であろうて。見たところ手勢らしき手勢もなく、手だても企てもないとあってはな。いかに音に聞こえたバラクロアとはいっても、ここまで徒手空拳とあってはかつての恨みを返すことも出来まい」
「……その恨みとやら、おれにはこれといって覚えのない話だがな。あんたなら、あの王子様の身柄を手に入れて、それでどうするっていうんだ?」
「わしなら、動かそうと思えば動かせる手駒も、幾ばくか無いわけではない。兵を挙げ王都に攻め上るにはまたとない好機、というわけじゃ」
 老人は好々爺然とした笑顔でそのように言い切りましたが……その発言はといえば不穏当きわまりないものでした。王家への反逆を教唆しているわけですから、この老人も到底まともな御仁とは言えなさそうでした。魔人はと言えば、そんな老人をうろんなものを見るようにして黙ってみているばかりで、何も言おうとはしませんでした。
 一体どういう成り行きに向かっているものやら、リテルにはどうにもついていけない話でした。彼女にしてみれば、会話の行く末はどうあれ、今すぐ話を終わりにして、その場から一刻も早く立ち去りたい気持ちでしたが、助けを求めるように魔人を見やっても、魔人もただ黙って肩をすくめるばかりでした。
 それでも、リテルが今にも泣きそうな顔をしているのを見かねてか、魔人は老人に向かって問いただします。
「……そんな、仮にも王都に攻め上っていけるようなまとまった軍勢があるのに、わざわざ俺のところには一人で出向いてきたってわけか」
「いきなり大人数で押しかけたら、お前さんが気を悪くするじゃろ」
 そう言って、老人が何かを合図するように軽く手を挙げると、背後の通路の方から足音が響いてきたのでした。そこは老人が姿をあらわしたのと同じ通路で、もちろん行き止まりなのは今もさっきも変わりありません。その通路に追いやられているはずのホーヴェン王子が、魔人の言いつけを破って泡をくった様子でよたよたと這い出してきます。その背後から、ぬっと姿を見せたのは、大柄な二つの影でした。
 その巨大な影はどかどかと乱暴な足取りで広間に踏み込んできたかと思うと、老人のすぐ背後にまで進み出てきて、それぞれ老人の左右に付き従うように直立したのでした。
 魔人もリテルも子供の背丈ではありましたが、それを割り引いても実に巨大な異形異相のやからでした。樹木の幹のような二本の足でがっしりと岩の足場を踏みしめ、丸太のような太い両腕をがっしりとした分厚い胸板の前で組み合わせ仁王立ちしているのを見れば、どちらもいずれたぐい希なる偉丈夫どもに思えますが、その身体は体毛が濃いとか薄いとかいう以上の豊かな毛並みに覆われておりました。何より、首から上はあきらかに人間のそれではありません。肩から首にかけてが、直立する人間のそれというよりは、幾分斜めに向かって長くのびていて、まるで馬か牛かとでもいうような、ひづめのある生き物によく似た感じの縦に長細い頭部がそこには乗っていたのでした。目は濁っていて視線は定かではありませんでしたが、草をはむ牛の穏やかさではなく、猛り狂う闘牛のようにぎらぎらとしていて、差し向かっているだけでこんなにも生きた心地のしない相手というのはいないのではないか、という風体でした。
 それが、普通の人間の大人の背丈よりも明らかな高みから、リテルや魔人を見下ろしているのです。ともすれば両者ともに洞穴の天井に頭が届くのでは、というぐらいでした。
 さすがに魔人はこのような異形のものを相手にしてもたじろぐ素振りさえ見せませんでしたが、リテルに至ってはそういうわけにもいきません。すっかり怯えてしまって、今にも泣き叫びそうになるのを懸命に堪えて耐えていられたのは、むしろ立派と言えたかも知れません。
 このようなものを引き連れている以上は、老人自身も、おそらくは人外の存在であると考えざるをえないのでした。
「あんた、王子の身柄が欲しい、と言ったな……?」
「ああ、言ったとも」
「じゃあ持っていけよ。好きにするといい」
 魔人はあっさりと、そのように言ってのけました。その言葉にリテルははっと顔を上げ、ホーヴェン王子は、ぶざまに地面を這いずる姿勢のまま、顔を真っ赤にして叫びました。
「なんと! この俺の処遇だぞ! 貴様がそれを決めるのか!」
「あんたを捕まえているのはおれだぞ。おれが決めちゃまずいか?」
「うむぅ……そ、それは確かにそうだが、このような得体の知れない者の言い分に対して、そんなに簡単に、深く考えもせずに同意していいのか?」
「あんたが勝手におれの住処に踏み込んできたからこうなっているだけだろ。おれは別にあんたを捕まえたくて捕まえていたわけじゃないからな」
「貴様が村など襲わなければ、おれも好き好んでこのようなところに踏み込んだりするものか!」
「別に襲ってなどいない。リテルもこの通り、まったく無事だしな」
「ぐっ……で、では略奪の件はどうだ? わが軍の糧食をさんざんかすめ取ってくれたではないか」
「リテル一人の食事なんてたかが知れてるだろ。それに盗みに来るのが分かってるんなら見張りを立てればすむ話だし、それでも盗まれるのはその見張りが間抜けっていうことだろ。それが人の家に殴り込みをかける理由になるか?」
「詭弁だ! 盗人猛々しいとはこのことだ! 屁理屈を並べてこの俺を愚弄する気か!」
 王子は顔を真っ赤にして怒鳴りましたが、魔人はしごく冷静なものでした。
「だったらどうだってんだ? おれは自分の住処が静かになればそれでいいんだよ」
 王子がそれ以上何をまくし立てても、魔人は聞く耳など持ちませんでした。それよりも気がかりなのはリテルの方で、魔人は彼女の方をちらりと見やったのでした。
 もしこのまま老人が王子を連れていけば、王国軍がこの洞穴を攻める理由がなくなります。リテルがこのまま無事に村に戻るようならば魔人討伐という王国軍の当初の目的すら無理に果たす必要もなくなるわけで、ある意味ではこうするのが確かに最良の解決法と言えたのかも知れません。
 ――でも、本当にそれでいいのかな。
 老人に付き従う牛頭の巨人のうちの片方が喚き散らす王子を軽々と担ぎ上げるのを、リテルは釈然としない気持ちのまま、ただ見ていることしか出来ませんでした。
「では、確かに受け取ったぞ?」
 老人がそのように念押すと、彼ら一行は魔人とリテルに背を向けて、そのまま来たときと同じ通路の行き止まりに向かって消えていきました。そのまま一行の姿は闇に溶け込んでしまい、暗がりにどれだけ目を凝らしてもそれ以上どこにも姿を見付ける事は出来ませんでした。
 呆然とするリテルを後目に、魔人は大急ぎで広間の水たまりを覗き込みます。リテルも慌ててあとに続くと、魔人は水鏡の術で老人の一行を映し出したのでした。
「山を下っている」
 魔人の言葉通り、彼ら一行は夜の岩山の斜面をひたすらに下っている真っ最中でした。
 その行く先を塞ぐようにして、斜面の途中に部隊を展開させていたのは、王子を奪回にやってきたフォンテ大尉率いる王国軍でした。突然の老人の来訪で魔人もリテルもすっかり注意を払うのを忘れていましたが、丁度老人と対面している、その機会を狙いすましたかのような局面で、大尉達は奪還の部隊を火の山に送って寄越していたのでした。
 彼らが山に登ってくるのに今まで気付かずに接近を許してしまったのは魔人の不覚でしたが……事態はそれ以上に、厄介な成り行きをみせたのでした。
 王国軍の兵士達は、山の斜面を下ってくる不審な一行――つまりは老人達を見とがめ、誰何しようとしますが、牛頭の怪人が肩に背負った王子の姿を見て、皆一様にあっと声を上げたのでした。そうやって浮き足立つ兵士達に向かって、老人は次の瞬間、右手の杖をかるく振りかざしたのでした。
 するとどうでしょうか……何もない空に急に稲光が光りました。剣を手にした兵士達を狙い澄ますように、雷光は落雷となって、兵士達の頭上に落とされたのでした。
「――!」
 水鏡の像が捉える像は急にまぶしく光って、真っ白になって何も見えなくなってしまいました。リテルはまぶしさのあまり一瞬目をしばたたかせましたが、次に見えた光景はといえば思わず目を背けたくなるものでした。
 落雷は一度では止まず、雷鳴をとどろかせながら、続けざまに兵士達が展開している岩場の斜面に次々に落ちていったのでした。それが自然の現象などではないことは見ればあきらかでした。稲妻は次から次に兵士達を薙ぎ倒していきます。あやかしの手妻に、王国軍の兵士達はただ為すすべもありませんでした。
 そんな折、水鏡の像をじっと凝視していた魔人が、ぽつりと呟きました。
「何か、近づいて来るぞ」
 言われるがままにリテルが視線をやると、水鏡の向こうに見える彼方の空から、光る何かがまっすぐにこちら側に……つまりは老人達のいるところに向かって飛来してくるのが見えました。

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