グスタフ・クリムの帰郷 その5

 5

 さて――。
 そうやって話題に上っているクリム家の面々はと言えば、ガレオンが王国軍と相対している頃にはすでに、ヴェルナー砦の城門を今にもくぐろうかというところまでどうにかたどり着けていた。
 だからハリエッタにも、王国軍がすぐそこまで来ていようとは想像だにしないことだった。
 彼女としては、このままファンドゥーサの駐留部隊のところまで駆け込んで姉の救援の件とガレオンに詐欺師の嫌疑をかけられている件の解決を訴え出る、というのも一つ選択肢として想定しないでもなかったのだが、さすがにここからファンドゥーサを目指すとなると、不眠不休で駆け通すわけにもいかない。ガレオンの騎士団の騎馬に比べればやはり向こうの方が足も早いし、どこかで追いつかれてしまうのは避けられなかった。
 駐留部隊がすぐそこまで来ているとわかっていればまた違う選択もあったのだろうが……結局彼女らが選んだのは、元の目論見の通り、直接リリーベル奪還のために彼女ら自身で砦へ乗り込んでいくという道だった。
「ついてこい」
 人狼が先頭に立つ。足取りはゆっくりであったが慎重だったり何か警戒しているわけではなく、ただ呑気に歩いている風なのがハリエッタには気にかかった。続くハリエッタも父グスタフも先にこの場所で死せる兵士たちに追われて散々な目にあっただけに、恐る恐るといった足取りになってしまうのは致し方なかった。むしろ後ろに続くエヴァンジェリンの方が、幾分緊張した風ではあったが面持ちは悠然としていた。最初にここを訪れた時のように馬たちは城門をくぐるのを嫌がったが、それよりも駆け通しで疲労の方がまさっていたかもしれない。人間が無理に促せばそれ以上の抵抗は示さなかった。
 目抜き通りは最初の訪問時と同じようにがらんとして人気は無かった。いつなんどき死せる兵士たちが姿を見せるのか、と警戒するハリエッタだったが、数歩も進まないうちから早々に、何もない砂塵からみるみるうちに兵士たちが姿を表し、あっという間に無数の軍勢でハリエッタたちを取り囲んでしまったのだった。
 怯えて声をあげる父を横目に、ハリエッタは馬上で剣を抜き放ち死せる兵士たちの群れを見据えた。兵士達はそんなハリエッタをただ遠巻きに取り囲むばかりで、すぐには手出しをしてくる様子はなかった。
 無論、彼らはハリエッタを警戒しているというよりは、おそらく人狼を警戒しているのに違いなかった。
 そんな人狼はと言えば、死せる兵士たちが大人しく見ているだけなのを確かめると、すたすたと前進し始めるのだった。
 大丈夫か、とはらはらしながら見ていたハリエッタだったが、死せる兵士たちはそんな人狼を取り押さえたりとか、行く手を断ち塞ごうとするでもなく、狼が進むのにあわせて包囲の輪を後退させていくのだった。むしろそこに続くハリエッタたちの方が背後を絶たれる形となり、遅れを取らないように人狼に付き従っていくより他になかった。
 そのまま無言のにらみ合いを続けながら一行は目抜き通りを進んで行く。やがて見知った城砦が見えてきて、中庭のバルコニーにやはり見知った影があった。
「やれやれ。厄介ごとが形をなす時はこういう光景になるものか」
 階上から投げかけられた第一声がそれであった。まるで他人事のような伯爵の言葉に、ハリエッタはクレムルフトまで行って帰って来たここまでの成り行きを思い返し、苛立ちを覚えずにはおれないのであった。
「伯爵! 姉さんを返しなさい!」
「誰かと思えばやはり先だってのクリム家のご令嬢か。返すも何も」
 やれやれ、と語尾を濁し肩をすくめる態度は向っ腹を立てるには充分だったが、ハリエッタはどうにかして何か言い返したいのをこらえた。
 それよりも……そもそも以前に訪れたとき、ヴェルナー伯に対しクリム家の誰かが氏素性について説明しただろうか。何故伯爵はクリム家の名を知っていたのか……。
 そしてよく見れば、バルコニーには伯爵の他にもう一人、その背後に付き従うようにして立つ人影があったのだった。その人物が手すりのところまで進み出て来たので、ハリエッタもその存在に気づいたのだった。
 そして、それが誰であるのかを知って、ハリエッタは思わず声を上げた。
「……姉さん!?」
 そう、それは他でもない、クリム家の長女であるリリーベルだった。
 しかもその周囲に死せる兵士の姿はなく、虜囚として無理矢理連れ出されているようには見えなかった。
「どういうこと……?」
「取り敢えず上がって来るといい。こちらも色々と事情を聞かせてもらわないとな」
 伯爵はそう言ってバルコニーから離れていく。一体どういうことかと戸惑うハリエッタをよそに、死せる兵士たちはいつの間にか彼らの包囲を辞めて中庭に整然と隊列を成していた。
 人狼はといえば、まるで勝手知ったるような足取りですたすたと屋内へと足を踏み入れて行く。ハリエッタは父や妹と顔を見合わせると、意を決して馬をおり、近場の木立に手綱をもやいで人狼の後に続いた。
 先だっては死せる兵士たちに引き回されて登った石段を、今回は人狼の案内で登って行く。やがて見知った謁見の間にたどり着いた一行だった。
 死せる兵士たちがあるじの座に対面するものを見張るかのように左右に列をなしていた。人狼は臆するでもなくすたすたと前に進んでいく。バルコニーからやってきた伯爵が、骨ばった痩せた身体には似つかわしくないくらいに颯爽とした足取りで現れると、その後をリリーベルが遠慮がちについてくる。控え目な足取りではあったが、誰かに強いられている様子はまるでなかった。
 あるじの座に着くなり、伯爵が口を開く。
「ユノー。その者達をここに連れてきたのは何故だ」
「兄上が兵士達を上手く手なづけられていないのがいけない。クリム家のご令嬢というのはその女性か?」
「いかにも」
 そんな両者の気安げなやりとりに、慌ててハリエッタが口を挟む。
「ちょ、ちょっと待って。兄上って……あなた、この伯爵の兄弟だったの?」
「言わなかったか?」
「聞いてない!」
 思わず声を上げたハリエッタを見て、リリーベルがくすりと笑った。
「姉さん!」
「ハリエッタ……それにエヴァンジェリンにお父さん。私のせいで随分苦労をかけてしまったわね」
 リリーベルがしみじみとそう語りかけて来たのも無理はない。どうにかここまで同行して来たが、父グスタフは一度は寝込んでしまうほど憔悴していたし、ハリエッタも人狼に連れられて山中をさまようなど散々な目にあって来たのだ。妹だけが何事も無かったように涼しげであったが、それを除けば一家は見るも哀れな身なりに見えたかも知れない。それに比べれば幽閉の憂き目にあっていたはずのリリーベルの方が小ざっぱりとしていたかも知れなかった。
 彼女と伯爵とが語るところによれば、こちらでの経緯は次のような次第であった。
 死せる兵士たちに囚われたリリーベルは、とくに傷を負わされるでもなくそのまま地下の牢獄に閉じ込められてしまった。さすがに若い女性が一人で過ごすには快適とは言いがたい。伯爵もさすがに不憫に思い、それとなく様子を伺いに足を運んだのだった。そのうちにどちらかからともなく言葉を交わすようになり、リリーベルは一家が王都で暮らしが立ち行かなくなって所領に向かうことになった経緯を話して聞かせるなどするようになった。そうしているうちに死せる兵士たちも彼女は侵入者ではなく伯爵の客人だと納得したのか、彼女を牢から解放したのだった。
「さりとて、この城砦をたちどころに去ろうとすれば兵士どもがまた気を変えるやも知れぬ。そのように用心して、彼女には今しばらく逗留してもらう必要があろうと判断したのだ」
「伯爵のおっしゃる通り。彼が無理矢理私を足止めしていたわけではないのよ?」
 普段は慌てふためく事などない姉がいささか恥ずかしげに、弁解気味に語った。なぜそのように姉が恥じらうのか、その理由に思い至って、ハリエッタは父と思わず顔を見合わせた。
「お父さん、これって……」
「別段心配するほどの事では無かったということかな?」
 そして両者どちらともなく、乾いた笑い声をこぼすのだった。半分は安堵の思い、残りは徒労感やら疲労感からくる苦笑いであっただろうか。特に父グスタフは娘の身に差し迫った危険がもはや無いと知って、気が抜けてしまったのかその場に膝を折って座り込んでしまった。
 父が転んでしまわないように思わず手を差し伸べたハリエッタだったが、一方で妹のエヴァンジェリンはと言えば、姉の無事に胸を撫で下ろすでもなく、その目はじっと一点を見据えていた。
 ハリエッタがその視線を追う。そこには、やはりエヴァンジェリンをじっと見据える伯爵の姿があった。
 にらみ合う、とまではいかないが両者は互いにじっと顔を見合わせていた。それは姉リリーベルと伯爵との間にあった優しげな気遣いの伺えるものではなく、お互いに何かを推し量るような、張り詰めた空気を醸し出していた。
 おもむろに伯爵は立ち上がり、敢えて沈黙を破るように一歩前に進み出てくる。
「わが弟。この娘は一体何者だ」
「ここなるご一家の末娘というところまでは確かだ。だがむしろ、何者であるかおれも大変に気にかかったからこそ、ここに連れてくるべきだと思ったのだ」
「あなたたち、一体何を言っているの……?」
 ハリエッタは思わず声をあげたが、当のエヴァンジェリンの側にはそういった困惑の思いは見られなかった。それどころか、思いもよらない事を口にしたのだった。
「私がここに来たからには、彼女に会わせてくれるのよね?」
 果たして彼女とは一体誰なのか? 妹は一体何を言い出したのか? ハリエッタは答えを求めるかのようにリリーベルに視線を向けたが、長姉も困惑して首を横にふるばかりだった。
 伯爵はしばし黙考ののち、重々しく口を開く。
「よかろう。付いてくるがいい」
 伯爵はそういうと踵を返す。謁見の間のさらに奥にある廊下に向かっていくのを、何の遠慮もなくエヴァンジェリンが大股にあとを追っていく。心配そうに姉リリーベルが続き、仕方がないのでハリエッタと父グスタフも後を慌てて追いかけていく。さらに後ろから、うっそりと人狼が付いてくるのだった。
 一行が向かった先は城砦建屋のさらに奥まった棟だった。領主として公務を果たす謁見の間や執務室と言ったところからは離れ、伯爵家のプライベートな居住のための空間であっただろう場所に、当の伯爵を先頭に続いていく。在りし日の姿を偲ばせるよすがこそ見てとれたものの、月日の流れを痛感せざるをえないほどには砂と埃にまみれ、荒れるに任せたような状態だった。
「何せ、手入れをする者が誰もいなくてな」
 先頭をいく伯爵がぼそりと呟く。冗談を言ったつもりだったのかも知れないが、笑っていいところだと思った者はクリム家の中にはいないようだった。
 やがて、伯爵はさらに上階へと続く階段を登ろうとする。そこで一番後ろの人狼が足を止めた。
「兄上。おれはここで待たせてもらう」
「ユノー。今更呪いを恐れるのか」
「理屈ではないよ、兄上。これ以上近づいてはいけないと、そう感じてしまうのだ」
「……私たちは大丈夫なの?」
 ハリエッタが恐る恐る問いかける。おっかなびっくりの彼女に対し、エヴァンジェリンが事もなげに言い放つ。
「大丈夫。もし駄目だったら、この街に足を踏み入れたところから駄目だったでしょうね」
 そういうと、早く行きましょう、と伯爵を促すのだった。
 一行がたどり着いたのは、上階のさらに奥まった場所にある一室だった。やけに重そうな大きな扉にハリエッタは少し威圧感を覚えたが、伯爵はべつだん勿体つけもせずにその扉を押しあける。
 やけにがらんと広い一室であった。だが何の部屋かと問われれば、ハリエッタの目には何の変哲も無い寝室にしか見えなかった。
 目を見張ったのは二点。外の廊下や階段は荒れ放題の廃墟なのに、この部屋だけがまるで時間が止まってしまったかのように、普通に人が生活していそうなごく普通の状態だったところに、ハリエッタは強い困惑を覚えた。
 そしてそれ以上に彼女の目を捉えて離さなかったのは……窓に近い位置に置かれた天蓋付きの豪奢な寝台の上に、一人の少女が横たわっていたのだった。
 果たして、眠っているのか。
 少なくとも伯爵や死せる兵士どもがそうであるように、呪わしい屍には見えなかった。哀れな彼らが何かに縛られているのとはまったく関係がないかのように、安らかな寝顔の彼女は、まるで今にも起き出しそうに見えたのだった。
「わが伯爵家の末の妹、エナーシャだ」
 紹介されて、クリム家の面々は一様に息をのんだ。エヴェンジェリンですら、その眼差しにかすかな動揺が見て取れたのだった。
 なぜなら、そこに横たわる少女は、あまりにもエヴェンジェリンに瓜二つであったからだった。
「眠っている? ……それとも死んでいるの?」
「わからない。だがこの街を呪いが覆いつくして以来、ずっと長きにわたりこのままなのは確かだ」
 この部屋とともにな――伯爵がそう言ったあとに小さくため息をついたのは、その月日の長さに思い馳せてしまったせいだろうか。
 横からおそるおそる、ハリエッタが問いかける。
「妹さんが眠っているのも、この街を覆う呪いのせいなの?」
「違う。彼女こそが、この街を襲った呪いそのものなのだ」
「……!?」
「人が聞けばおとぎ話だと笑うかも知れぬ。実際、私も自分の妹の事でなければ、そのような事は有り得ぬことだと嘲っていただろう。だが妹は紛れもなく、魔女だった。そうとしか言いようがなかった」
 伯爵はハリエッタやクリム家の面々ではなく、じっと横たわるエナーシャを見つめたまま、まるで一人語りのように語り出したのだった。
「魔女といったところで、当人がかくあれと望んで生まれついたわけではない。だが妹には確かに、常人には備わってはいない特別な力があった。天候を操ったり、何もない砂塵から物を創り出したり……。なぜそんな力があるのか、妹自身も戸惑うところはあっただろう。だがそれ以上に戸惑い、それを望まなかったのが我が父であった。伯爵家の娘がそのように得体の知れない存在であることが、どうしても受け入れられなかったのであろうな。人に知られては一大事と、ひた隠しに隠し通していたのだ」
「それで、この部屋に閉じ込めていたのね? 入り口の扉、ただの寝室にしては作りも頑丈だし、それにとても大きな錠前がついていた。普通の女の子の部屋には多分いらないし、ついてもいないと思う」
「そうであろう。そういう意味では、当家は普通の家族とは言い難かったであろうな」
 伯爵は深くため息をついて、先を続けた。
「両親は……とくに父は、私にも弟にも、とにかく子供の躾には大変に厳しい御仁であった。伯爵家の子息にふさわしい教養や立ち振る舞いというものを、私や弟にも、そして妹にも強く求めた。それにはもちろん、魔女の能力というのは含まれてなどいなかった」
「……」
「弟は生来そういった窮屈な事柄は苦手な性分であったから、早々に音を上げて家を出ていってしまった。私はといえば長男であるからそういうわけにもいかず、妹に至っては力を制御することが本人の思い通りにならぬとなると、部屋に鍵をかけてそこから一歩も出られないようにしてしまう有様だった」
「それは気の毒ね……」
「ある日、近隣の領地から使者がやってきた。領主の末息子という若者で、形式的な訪問ではあったのだが、たまたま部屋を抜け出してきた妹がこの若者と出会ってしまったのだ。……形ばかりに挨拶を交わしただけなのだよ。いずれ向こうの領地を訪れる機会があれば是非ご案内しましょう、とな。だが世間を知らない妹はそれを真に受けた。自分の知らない外の世界を見てみたいと、そのように思ったのだな……」
 後ろで黙って聞いていたグスタフが、ハリエッタにそっと耳打ちするように呟いた。
「その使者という若者、よほど男前であったのだろうか……」
 さすがにそれは下世話な勘ぐりであろう、と思ったのでハリエッタはただ苦笑いするにとどめておいた。それにここから近隣の領地といえば、山ひとつ越えた先のクレムルフトだってその条件には合致する。ともなればクリム家に関係のない話でもないのかも知れず、伯爵があえてどこの領地とも言わなかったのはそのせいもあったかも知れず……なので無神経とも取られかねない発言はしないに越したことはない、という思いからハリエッタは曖昧に相槌を打つに留めておいたのだった。
 そんなハリエッタの胸中が今ひとつ分かっていなさそうな父グスタフを、一瞬だけちらりと振り返った伯爵が、また眠れる妹に視線を戻して先を続ける。
「ともあれ、父はこれに猛反対してな。使者を丁重に追い返し、妹を厳しく叱りつけて、きつく禁足を申し渡したのだった……そのまま妹はこの寝室に閉じこもってしまった。異変が起きたのはその晩のことだった」
「……」
「季節外れの嵐が訪れ、外は一晩中強い風が吹き荒れていた。蒸し暑く、寝苦しい夜であった……その空の荒れようが、妹の嘆きの深さを表しているのだろうと私は思ったが、ことはそれだけでは済まなかった。朝になってみると、私の身体は今のようなこの有様に変わり果ててしまっていたのだ」
「……」
「私の身にだけ何かあったという話ならまだいい。だが他のものは、城や町はどうなってしまったのか……私は自分の部屋を出て、外の様子を見に行った。城の中には私の他には誰の人影もなかった。使用人はおろか父母の姿さえも、屋敷のどこを探しても見当たらなかった。門番の姿すらなく、城門から町に出てみても往来には誰の姿すらもなかった」
「……」
「さすがに私は、そこで意を決して屋敷に戻り、妹の部屋へ行くことにした。……いや、もうわかりきっていたことなのだ。その異変に、妹が関与しているということは。その事実を受け入れるのが恐ろしかったが、そこに至ってそれを認めぬわけにはいかなかった。無人の城に戻り、階段を登り、見張りの兵の姿もない妹の部屋へ……そう、この部屋の扉を開けた」
「妹さんは……?」
「妹は、そこにいた」
「……」
「おそらくは、自分が何をしてしまったのか、目で確かめずとも気づいていたのだろう。この寝台の上で、目を真っ赤にして泣きはらしていた。私が部屋にやってきたのを見て、悲鳴をあげんばかりに取り乱し始めた。……無理もない、見る影もない屍のようななりだったからな」
「……」
「そのまま妹は声を上げて泣いた。私はそんな妹をただ見守るしかなかった。やがて泣きつかれて眠ってしまったかと思うと、妹はそれきり目を覚まさなかった」
「……それきり?」
「そう、それっきりだ。今に至るまで。……死んでしまったわけではないと思う。呼吸があるのは分かるし、私のように屍のような風貌になるわけでもなし。……目を覚ましたところで、変わり果てた町の姿があるだけだ。自分の力が引き起こしてしまったことの成り行きを、受け入れる事が出来なかったのだろう」
「……それで、伯爵はそれからどうしたの?」
「一応、私のように生存者がいないかどうか城砦の中をくまなく探し歩いたが、誰も見つけることは出来なかった。ついでに言えば、私自身も城砦の外に出てみようと思ったが、どのような力が働いているものか、城門をくぐることが未だ出来ていない。そのうち、一匹の狼が城に姿を見せ、それが言葉を喋ったところによると、なんと我が弟の成れの果てであるという。街から遠く離れ流浪の旅をしていたにも関わらず、ある日突然狼の姿に変わってしまったのだという。自分の身に何が起こったのか調べようとして、妹の身に何かあったのではと考え、様子を見に故郷へと帰ってきたのだという話であった。……血族であるというだけであれも気の毒な話だが、まだ外へ行き来出来るだけ私よりはましであったかも知れぬ」
 伯爵はそこまでしゃべると、眠る妹の姿にあらためて視線を落とした。
 そしてそんな眠れるエナーシャに、涼やかな表情でまっすぐに相対しているのが、クリム家の末娘エヴァンジェリンであった。その場にいるだれが見比べても、両者の面影はあまりにも似通っていた。
「あらためて問うが、そなたは一体何者なのだ?」
 伯爵のそんな言葉に、エヴァンジェリンはただ無言のまま横目で伯爵をちらりとみやっただけで、返事どころか何も言葉を発しなかった。礼を欠く態度なのは違いないが、問われて答えられる問いであるとも思えなかったので、伯爵も非礼を強くは追求しなかった
 そんな折だった。一行がいる寝室の扉の外、廊下の向こうから、遠吠えという形容がまさにふさわしい、狼の唸り声が聞こえてきた。
 その声になにやらただならぬ雰囲気を感じ取ったハリエッタは、行ってみましょう、と皆を促して、人狼の待つ階段の側まで慌てて駆け寄っていく。
「何があったの?」
「そろそろ降りてきた方がいい。呼んでもいない客が、いよいよお出ましになったみたいだぞ」
 人狼の言葉に、ハリエッタはついに来るものが来た、と我知らず駆け出していた。

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