たかが1 されど1

「こんなの誰でも持ってるしな…」
「上には上がいるしなぁ」
「この力でトップってわけじゃないしなぁ」
そんな風に、私も自分の持つ力に自信を持ててないひとりだ。
今でも、自分の長所がはっきりと分からない。

いつも強いて言うのは「イシューから始めて、問題の本質を探し出すこと」と言っている。
だけどそれは裏を返すと「融通が効かなくて使いにくいやつ」とも言える。

私は何にでも二面性があると思っている。
生々しい例を出すと、小中学生の頃いじめられていたのだが、「人間ってこんなものなんだ」と言う学びがあった。
もちろんそれに固執しすぎて人に敵意を向けがちではあったが、大人になってから人間の汚い部分に直面しても打ち震えてしまうようなことはなかった。
もちろん、いじめを肯定は絶対しない。
いじめてる奴は今すぐやめろ。
見て見ぬ振りの奴らは今すぐやめろと言え。

何にでも二面性がある、なんて安い言葉を少しでも真剣に捉えて欲しくて上の例を出した。

話を戻す。
たかが1 されど1。
「こんなの誰でも持ってるしな…」
そんな風に、私も自分の持つ力に自信を持ててないひとりだ。
だけどある本を読んでいたら、「誰でもできる誰でも持ってそうなものを3つ持っていたら、それを一つの能力とカウントしていいです」と書いてあった。

パソコンでタイピングができる。
エクセルで計算ができる。
毎日起きて出勤できる。
こういうのをみっつずつ括って、一つの能力としてカウントしていいそうなのだ。
なるほど、それならたくさんある。

こういう考え方って、複合的だ。
複合的なのって、簡単に言い表すことができない。
簡略化してしまうと、解像度が下がってしまうからだ。

だけど、絶対、この複合的考え方は必要だ。
特にこれからは必要になってくると思ってる。
今までは分かりやすいものばかりフィーチャーされていたが、
私の勝手な考えでは、これからはもっと見えにくくて分かりにくい、読んだり聞いたり話したりするのに時間がかかるようなことにこそフォーカスが当たるんじゃないかと思う。
なぜかというと、みんな分かりやすいものに飽きたり、「これなんか違うな…」って気持ちが積み重なってきたり、140字で表せることに限りってあるよな…って思えてきたりするんだと思う。

実例を挙げると、今はテレビドラマの話で休憩室が持ちきりになることは少ない。
アーティストや漫画家、YouTuber、俳優など今は供給の種類が膨大で、皆それぞれ好きなものを楽しんでいるので「多神教化」している。
「一神教」になりがちになるような限定された供給数ではなくなった。

それは「分かりやすさ」の力が減ってきているということだと、私は思い願っている。

「分かりやすさ」ばかりに引き寄せられていた目が、「分かりにくい」ものにも動いていっている。
そういう力が大きくなって、いじめや障害やジェンダー…他のまだ表面化していない事柄にも目が向けられればいいなと願っている。

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