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93 母のこと

水面を通して真っ青な夏空
その日の夕方、明日の鮎クラブ例会に出席するため美山へ出掛けるところでした。
出掛ける前に、嫁さんと二人で寝たきりの母の着替えを済ませ、シーッを取り換える間、椅子に座ってもらっていました。シーッを取り換えている時、何となく視線を感じ振り向くと、ジーッと私を見つめる母の目と合いました。その目は、はっきりと私を見つめる黒く深い眼差しでした。その頃の母は認知症が進行し、私のことが全く分からなくなっており、その眼差しも何となく焦点の定まらない状態でした。
しかし、その時はいつもと違い、しっかりと瞳の奥底に私を捉えているようでした。

気になりながらも、後の世話を嫁さんに頼み、後ろ髪引かれる思いで出発します。
途中、ハンドルを握りながら、あの母の瞳の意味を、何を伝えたかったのかを、ズーッと考えながら周山街道を走っていました。しかし、美山につき、仲間の集う「喫茶タイム」で、食事をしながらビールを飲み談笑している間に、そのことをすっかり忘れてしまいました。

翌日のクラブ例会、Aブロックを勝ち上がったものの、Bブロック勝者とのプレーオフ、一匹早掛けで敗れてしまいました。
例会終了後、そんな筈は無い絶対あそこに野鮎は居ると、プレーオフで敗れたポイントで竿を出していました。

其処は崩れ堰堤のすぐ上手、更にひどく崩れた右岸側、下手は岩盤底の急な落ち込み。砂地底の早い流れに立ち込み、その落ち込みを狙っていると、足底の砂が強い流れにえぐられ体勢が不安定になって来ました。慌てて体勢を立て直そうとしたのですが、余計に足下が流れにえぐられ、ズルズルと体が引きずり込まれます。遂に体勢が崩れ、足側から岩盤を滑り、落ち込みに流し込まれ、強い流れに頭を抑えつけられ水中に飲み込まれてしまいました。

竿とタモを守るべくモガクのですが浮き上がれません。水面を通して真っ青な夏空が見ます。沈んだまま流されモガイていると、スーッと足が底に辿り着きました。深い流れの渦が岸寄りの斜面に私を誘導してくれたようです。私の上流で竿を出していたクラブの土井さんが、「一瞬、姿が見えなくなったので慌てた」と後で話してくれました。何やねん、見てただけかいな。

ブハッ!  と息をつぎ、ずぶ濡れになって岸に這い上がり、ホッとして真夏の空を見上げた時、母のあの眼差しの意味を理解しました。母はこの事を心配してくれていたのだと。

その夜、家に帰り、直ぐ母に「無事に帰ったよ」と声を掛けました。
それまで、出掛ける時は母の枕もとで「アユ釣りに行くけど、ここで待っててね、何処へも行ったらあかんよ」と声を掛けていたのですが、その日以降はいつもの声掛けに加えて「気を付けて行ってくるから心配せんでええよ」と言って出掛けるようになりました。
私は、ずーっと母を案じていたのですが、母も同じように息子の身を案じていてくれたことを知りました。

その年の鮎シーズンの終わりに母は九十歳で亡くなったのですが、母の黒く深く優しい眼差しを、一生忘れることは無いでしょう。

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