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48 養殖業者、重孝さんのこと

鮎ロマンを理解できる人
重孝さんとは、JR湖西線唐崎駅近くの呑み屋で知り合いました。
その店の名は「酒房たかはし」と言い、常連客ばかりの感じの店で、初めての私はカウンターの端で一人寂しくビールを飲んでいました。その常連客の中に白髪交じりの、声のデカい、顔のデカい人が居ました。イヤでも耳に入ってくる話では、彼は若狭湾での「筏のチヌ釣り」の帰りらしく、隣席の客に
「今日も又ボーズか」と冷やかされています。それに対して彼は
「俺は養殖業者だ」と言い返しています。それを聞いて、私は彼と話がしてみたくなりました。釣りのロマンの部分を理解できる人ではないかと感じたからです。その後も「酒房たかはし」に行くと必ず彼が居り、また会話の中で「筏のチヌ釣り」の話が必ず出ます。しかし釣果についての話は一つも出ません。
釣り人なら、大物をどんなに苦労して取り込んだか等、自慢話がでるはずなのにです。常連客の誰がが
「重孝は筏に乗って仕掛けを海に放り込んだら、後は酒を飲んで寝るだけや」と冷やかします。やはりそれにも
「俺は養殖業者やから仕方がない」と言い返しています。ますます彼と話がしたくなります。

その後、隣の席同士でお互いの釣りの話を肴に何度か飲むようになり、一度鮎釣りに連れて行ってくれ、と言うこととになりました。
特に鮎釣りの楽しさを彼に自慢した訳ではありません。自然にそうなってしまいました。しかし、そのシーズンはお互いの都合が合わず、一緒に釣行できたのは翌シーズンのことでした。

翌年、彼は鮎道具の何点かを揃え、シーズンに備えていました。
私はその年も相変わらず、下手なくせに鮎トーナメネントに参戦しており、彼と一緒に釣行できたのは七月中頃からでした。ところがこの時期、人並みにトーナメント疲れが残っており竿出す気になれず、安曇川朽木につくとまず河原にスカイタープを張り、机と椅子を出しビールを飲みながら竿出す人を暫く眺め、昼前に少し竿を出します。昼休みは、またビールを飲みボーッとし、昼寝などをしながら過ごします。三時過ぎから午後の釣りを始め、夕方まで竿を出し、釣り終わって「朽木・テンクウ温泉」に浸かって帰るというパターンを、八月初めまで繰り返していました。
彼はそれがとても気に入ったらしく
「釣りは、こうでなくてはいけない」と頻りに言っていました。そして彼は次第に友釣りの魅力の虜になって行き、そのシーズンは終わりました。

その年のシーズンオフ、相変わらず「酒房たかはし」で釣りを肴に酒を飲み、
「えらい釣りを教えてもらったもんや」と彼は笑いながら嘆いていました。
翌年、長く退屈なシーズンオフが終わり、彼にとっては2年目の友釣りシーズンが始まりました。鮎竿を始めほとんどの道具を準備万端取り揃え、今や遅しとシーズン開幕を待っていた彼。そのシーズンも、昨シーズンと同じパターンを繰り返す私。
まだまだ初心者の彼、早朝から竿を出し、昼食後もユックリすることなく、夕方まで目一杯竿を出したかったはずです。しかし毎回の私の釣行パターンに、楽し気にそしてのんびりと付き合ってくれました。ヒョツとしたら、本当にこのパターンを気に入っていたのかも知れません。

八月のお盆休み朽木名物の花火大会、釣りを終わってビールを飲みながらゆっくり鑑賞したことが思い出されます。やはり私の目に狂いはなく、彼は釣りのロマンの部分を理解できる貴重な釣人だと確信します。

その年のシーズンオフ、今度は彼の飲みパターンに合わせ、飽きもせず友釣りを肴に「酒房たかはし」でビールを楽しんでいました。
しかし、後数カ月で鮎シーズンが始まるという三月、彼に死は突然やって来て、飲み仲間に惜しまれながら逝ってしまいました。享年五十歳。そして彼と過ごせたであろう、これからの私の豊かな鮎釣り人生も同時に萎んでしまいました。

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