森田&山口さん
チョット浮世離れした二人
森田さんを初めて福井・今庄、日野川に案内した日、そのファッションを今でも覚えています。学生時代に山岳部だったせいか、チロルハットにニッカーボッカーという鮎釣師とは思えない笑える格好でした。大丈夫かいなと呆れながらも、取り敢えず10匹以上は釣ってもらわなければなりません。
これは絶対に釣れると、当時私がはまっていた「尾結び仕掛け」を勧め、掛け針をオトリの尻尾にセットし、こうやってオトリを引けばよいですよと言って竿を返すと、もう野鮎が掛かっていました。早速一安心、自分の釣りに専念できます。離れて竿を出しながら様子を伺っていると、その後も順調に掛かっているようです。
そのシーズンは、上流の広野ダムが完成して数年後で、鮎の型は小さいが数はメチャクチャ多く,日野川が初めての森田さんでも50匹は掛けたと喜んでいました。
早速、職場で鮎仲間の山口さんにこのことを話したのでしょう。森田さんと山口さんは、すでに友釣り歴は長かったのですが、「一日に十匹釣れればなあ」と慰めあう貧果仲間だったらしいから、森田さんから話を聞いてたまらず付いて来たのだと思う。
翌週森田さんとの釣行の朝、国鉄石山駅のプラットホームで、人懐っこい顔をして森田さんの側に立っていたのが山口さんでした。森田さんはぶっきらぼうに、山口だという感じで紹介してくれ、それが両氏との長く楽しい友釣り人生の始まりになりました。
二人はともに大手企業研究所の研究員で、仕事で、ある資料の分析を頼みに行ったのが縁でした。二人とも穏やかな人で、釣りたい気持ちは大いにあるのだが、釣れても釣れなくても鮎釣りをお楽しむタイプなので、気の合う友釣り仲間になったのだと思います。
山口さんは、結構仕掛けに拘るのだが、掛かる鮎に同情したくなるほど不細工な仕掛けを作って来て、その長所をトクトクと説明します。いくら説明さてもあの不細工な仕掛けではなあ。
また鮎料理のレパートリーが広いのにも関わらず、毎回食材不足に悩むのだが、それにめげない強さも持っていました。
さらに嵐を呼ぶ男というか、嵐に向かう男というか、夫婦で旅行がてらに地方の名川に遠征すると必ず豪雨か台風に合い、竿を出せずにただ温泉に浸かって帰ってくることになり、肝心の鮎の話は何も聞けませんでした。
今はお母さんの世話の為に「西東京市」に引っ越してしまいました。
森田さんは茫洋とした感じで、細かいことに拘らない人でした。何かの博士号を持つていて、退職後、和歌山で高専の教授をしていたが、学究肌の森田さんにピッタリな仕事だと思ったものです。
その頃は御坊の官舎をベースに三人で何度か日置川へ釣行しました。楽しかったなあ、 一番年上だとは思っていたが、十七歳も年上だとは最近まで知りませんでした。一番年下の私、ずいぶん長い間、生意気な口を利いて来たことになります。
今は娘さん夫婦の居る「いわき市」に引っ越してしまって、原発事故の時は心配したが、ミネラルウォーターしか送れなかった。今も元気で焼酎ボトルを枕に居眠りしているのだろうなあ。
二人に共通する欠点は、友釣り中は「終わりにしょう」というセリフを完全に忘れてしまう事でした。
五時、六時、七時、九月なら周囲が少し暗くなってきます。それでもまだ竿を出し続けます。私が痺れを切らして「好い加減に帰りましょうよ」と言う
と、必ずどちからとも無く「もう一匹掛けてから」と言います。
そして、やっと納竿の一匹が掛かり、ホッとしたのも束の間、どちらが掛けたとしても「折角だから、こいつをひと泳がせさせてから」と未練タラタラで言います。その頃はもう辺りは暗くなっています。
そしてヤット川から上がって来て言う最後のセリフが、決って「今日もまた課題を残してしまった」です。研究者は、仕事でも趣味でも、永遠に課題を追い求めて生きて行くのでしょうね。
それでもこのチョット浮世離れした二人を、私は好ましく思っていました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?