どうしたんだい

 集団の渦に呑み込まれていく。社会の中で私という個性は消え去り、やがて発狂する。ネット上では日頃から抑圧されてきた者たちの声を聞いては涙する。世に言う個性的な人たちを見て喚いている。

「君たちはいいよな。そうやって、自分の個性を社会の中で確立できて。腸から叫びまくって、それでいて認めてもらえて」

 年表の1μmにも載らない人たち。おかしなことに、顕微鏡で目をうんと凝らして見たって彼らの名前は載っていない。1cmもの大きさを占める奴らが歴史を作ったみたいに学校の先生は騙る。

「でもね、ここには載っていない人たちが歴史を作ってきたんですよ。先生は、そういう人たちのことがとても好きです」

 平成が終わるらしい。へーーーーーそうなんだ、と私はこのブログを書いている。そういうタグがトレンド入りしている。連勤だの連休だの自慢げに自慢していいねを集めている人たちがいる。クソどうでもいい。それがゆえにクソ愛おしい。結局のところ、Twitterはもう1人の自分のようでいて真の自分なのだと。社会の中で抑圧されてきた個性を解き放つ機会なのだと。私は考える。

「まともな人間が1番えらい。だからあんたもまともに生きなさい」

 母はよくそう私に諭すけれど、正直まともに生きることがどういうことかはよくわからない。母は「働いてるやつがえらい」とも言うので、まず第1に定職に就くのがまともへの第1歩なのだと思われる。だとしたらバイトがまともな人間への1歩。頑張ってます。

「みんなと同じように生きなさい。周りをよく見渡して、おかしなことをしていないか、変な格好をしていないか、確認するんやで」

 もしもこの言葉がまともな人間へと繋がるのならば、結局はまともな人間とは抑圧された人間へと繋がるのではないかと私は思う。

「みんなと同じにしようと思うのに、どうしてもできない。いや、できても心が腐敗していく。辛いよ助けてよ。苦しいよ」

 おかしなことに、私の精神が死にかけていることに気づくのはいつも母親だ。私は自分の弱い部分を他人に見せたくないからか、周囲の人間は気づかない。母が死ねば自分も死ぬんじゃないかと思っている。

 大学生になって、自由になった。そのはずなのに、さらに抑圧が強くなる。

Q 抑圧しているのは誰???? A 自分。

 笑えてくる。抑圧されてきた私。これからも抑圧され続ける私。私は叫ぶよ。ここで。Twitterという箱庭で。

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