英雄なんてなりたくないから自分らしく生きたいんだ

Twitterでよく見かける精神疾患、心の悩みの相談にも応えます、という事をやっている人間が多いのを見掛けて、医療福祉専門学校、介護職の国家試験合格、現場実習、今もケアマネージャーになる為の社会福祉試験をひっそり勉強しながら登録販売者とかも取ろうと目論む国家資格ひとつ持ち、真北理奈です。

今回露骨なタイトルだが、これは全員に読んで欲しい。

うつ病には種類がたくさんある。

うつ病というのが病名というわけではない。皆が知っているうつ病というのは大抵以下だろう。

・気分が落ち込みやすい ・死にたくなる ・身体がだるい ・リストカットをする

大体この程度だろう。実際にはうつ病は病名ではなく『そう鬱的症状』『抑うつ的症状』があり、あくまでも二次的疾患として扱われることが多い。ちなみに真北理奈も2015年にそう鬱的症状を抱えたがコントロールにはかなり悩まされた。精神疾患は大体単独ではなく複数のパターンから連動して発祥することが多い。

自閉症、統合失調症、ADHD、アスペルガー症候群、ダウン症、転換性障害(PNES)、心的外傷後ストレス障害、急性ストレス障害、心的外傷(PTSD)、強迫性障害、睡眠障害、認知症、生活習慣病 etc……

真北理奈は転換性障害、急性ストレス障害、心的外傷後ストレス障害、強迫性障害、心的外傷から二次的に発生するそう鬱によく悩まされた側である。実は大きな疾患を患ったり環境に劇的な異変があったりすると精神疾患は余裕で発生する。だいたい精神疾患という名称がややこしいのだ。基本は『自律神経失調症』が根幹としてある。

脳に著しい変質があり、原則として先天性を治すことは難しいが、身体に馴染ませるよう早くから認知機能や思考機能を習慣的に回すようにすれば実はほぼ問題ない。統合失調症に至っては調薬と服薬さえ忘れなければほとんど完治可能である。うつ病もそうだし発達障害も現代医学ではほとんどコントロール可能である。では何故今も精神疾患は治らずに根強く残っているのか。

厄介な素人の存在

これが精神疾患の完治を遅らせる。精神疾患はれっきとした疾患である。ガンに近いものだと思ってよい。つまり早期発見が大事なのである。しかし、素人が割り込み相談と称しアドバイスをする。これがいけないのだ。医師免許がないのにガンの摘出手術をしているようなものなのだ。

真北は何故3年で問題なくなっているのか

答えは簡単で私は信用できる人間以外の話は一切聞かないからだ。つまり医者の話だけ聞いて服薬を毎日ほぼ欠かさず行い、夜には寝て、同人イベントの遠征はとりやめた。しんどくなったら即、病院。やってきたのはこれだけである。母親も一切口出さない。これが功を奏したのだが、やはり周りは『可哀想な人』みたいな目で見るのだ。対等には扱わない。そんな中で今も縁があって関係が続いているのは『何かをしてあげよう』という人間ではない。ある日突然「真北生きてる?私の創作見てよ」って話しかけたりスルーしたりしてくれる人だった。なんならSkypeやLINEやTwitterに自分の創作を披露した人が今も縁あって関係が続いている。あくまで自分、みたいな人がここにいる。

安っぽいヒューマニズムだな?

誰かのために何かをしてあげよう、などという事は人間無理なのである。その理想自体は素晴らしいが、大抵は長続きしない。人間関係が長続きしないのは「誰かのために何かをしてあげよう。誰かを救いたい」という精神がいけないのだ。これが分からない。なぜならそこに自分の意思はないからだ。誰かのために、なんて事をし始めたら必ず自分がしんどくなる。どうしてかは知らないが人は真に他人を助けることは出来ないからだ。

私は、私の為に、人に優しくありたい

だって優しく出来たら単純にかっこよくない? まず人に譲ったというだけで「難しいことにチャレンジできた!やったー」ってなるし人の愚痴聞いて頷いてる私を見て「やったー愚痴を聞いてる私めっちゃかっこいい、聖母かよ」と思う。そう、何時いかなる時も私の為である。君が今私に愚痴った瞬間、私という人間力を上げるために貢献しているんだぞ、光栄におもうがよいHAHAHAみたいな気持ちになる。それで君が笑って美味しいもの食べて寝たらそれで良し。優しく出来たし聖母みたいな振る舞い出来たし人間力上がったし良いことづくしである。仮に感謝されなかったら「こんな厚かましい人を助けた私は神」となるだけである。もちろん感謝してくれたら「私こんな素敵な人に喜ばれた!やったぜ」となる。そう、支援というのは自分が軸になるから成り立つのだ。自分に軸がない人間に他人の傷は癒せない。この軸というのはあくまでも疾患を背負った本人であり、あとは種子なり葉なり根なり、日光や肥料であるべきなのだ。支援者はでしゃばってはならない。誰かのために~なんというのはあわよくば自分が目立とうという意思がなければ湧き上がらないのだ。だってみんなに凄いと言われるにはいちばん最適なものだからだ。すごいのではない、それを自分のように捉えながら奔走する人間が凄いのだ。もちろんそんな人間は誰かのために、なんて言わないのだ。それは、自分の事だから、である。

世の人はこれを間違ってはならない。

英雄とはその人自身を指すのではない。

その人が行った行動が『結果的に人を救ったから』英雄と呼ばれるだけなのだ。

私は英雄になりたいとは思わない。いつでも真北理奈という人間でありたい。ただ、それだけである。真北理奈というひとりの人間として生を受けた。よくぞ26年も生きてこれた。だから、真北理奈という人間として恥じない生き方、己に正直に生きたいだけの我儘な人間である。だって、私は自分の人生を諦められないのだから。今更他人のことなど気にしても仕方ない。思うように生きないと気が済まないのだから。