去年からホロライブにハマったわけの話

2020年、自分が愛したゆゆ式は日常じゃなくなった。
いくばくか年を経れば、また現実にかえってくるかもしれないが少なくとも古典となってしまった。

なぜなら、あの日常はどこかの日常足りえなくなってしまったノーマスクがリアリティを失ったから。
ゆずこも唯も縁も、ifの世界へいってしまった。

ゆゆ式というタイトルがどこにも入っていないじゃないか。

ゆゆ式はホロライブなんだから合っている。

つまり、そうゆうことだ。
???????
ご理解いただけないですかね?
ここで記事は終わろうと思っていたのですが、もしかしたら説明不足かもしれないのでもうちょっと書こう。

一応確認として日常系はどういうものかは、

こちらでも見てください。

ここからは自分の解釈。
一言でいうと、日常系は現状肯定のためのコンテンツ。
僕ら陰キャは基本的に承認されにくい、日陰で少人数の仲間でなんとか群れをなして生きていたり、それにすら失敗すると一人で誰にも承認されずに生きなくてはならない。仲間たちの多くは特に生存本能に強く刻まれた異性からの承認も社会で大きな成功しての承認を得られることも多数派|《陽キャ》に比べ少なく、自己肯定感がとても低い。なぜなら肯定されないがちので。
だが、それでも自分なりに精一杯生きている。

日常系に出てくる多くの子たちは女版俺たちだ。だから、異性からの承認が極端に出てこない。
陽キャが彼女作って青春!クラスみんなで何かやりとげる!とかやってる間に仲間内でだけ通じるギャグで笑いあったり、くだらないこと言って笑い合う俺たち。その先にクラスで人気者になることもなく、彼女が出来るわけでもない、これを性別反転したのが日常系の登場人物だ。

特にゆゆ式が特徴的な事は『笑う』こと。あー彼女らってちゃんと楽しいんだって思わせてくれて、自分たちの通ってきた人生も楽しいものだったんだと間接的に思わせてもらえる。
しかも、女性というある種憧れの存在も、同じ人間であり自分と同じような事をして楽しいと思う、ここにいてもいいんだとすら思わせてもらえる。

ここで聡明な世界200兆人のホロライブファンの方々は気づいただろう、ゆゆ式はホロライブだ。
ゆ ゆ 式 は ホ ロ ラ イ ブ
Q.E.D

彼女らがやってることは、基本自分たちのやってることと変わらない。ゲームして、交流して、異性の何かチャンスがない。(実際どうかは別としてあくまでホロライブのアクターとしては)
そして、自分は雑談系の配信やコラボ配信が好きなのだが、よーーーく笑う。
コラボ配信ならまだしも、ソロで自分で喋って自分で笑う。
自分で自分が面白いって最強かと思ってしまう。サイキョウチック自己肯定。
もちろんコメントとのやり取り込みで笑っている部分はある、コミュニケーションな面もある。が、パッと思いつくのはかなたそやおかゆんだが、面白いと思った出来事を話して自分で笑っている。
一見すると、自分で喋って自分で笑うって、ダサそうに思うかもしれない。だが、聞いてて心地良いのだ。
そして、気づく。あー自分たちは生きてて笑う程度には楽しいし自分も自分を否定しなくていいんだ、って。ゆゆ式では基本的に、他人|《笑ってくれる何者か》がいて成立していたがホロライブはなんとその存在すら必須としていない。ここも2.0みを感じる。

比較すると男性はあまり笑わない傾向にある、元々自分は元々伊集院光のラジオが好きで最近また少し聞いているのだが彼は笑ってくれるのを確認するためなのか構成作家が目の前にいて笑い声が聞こえてくる。
これは女性と男性、傾向の違いだと予想しているのだが男性は自分が自分であるだけでは承認されないがちだ。だからこそ、他者による承認が目に見えない事が大きく不安に繋がってそうした形で表出する。
ゆゆ式の作者、三上小又|《かみさま》は男性であり、男性だからこそのリアリティがこの構図になったと考えている。
だが、現実はもう少し甘かった。ホロライブに触れてしまった今そういわざるを得ない。

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