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こないだ見た舞台が墓場まで引っ張る気がする

※主には2022年の観劇したてほやほやのアチアチ状態で書いてますが、その後何度も見返しては書き換えてるので(推敲ではない)時系列がぐちゃぐちゃの恐れアリ!

〝2022年〟という事実も受け入れられ始めた1月の末、なんとなしに観た『だからビリーは東京で』というお芝居がめちゃくちゃ良くて。

その感想を今更言わせてほしい。未だに熱が冷めな過ぎる。
というか、あまりにも主人公が私と重なり過ぎて「今頃あの子はどうしてるんだろう」とインスタ探るが如くこの舞台の感想をディグっては数ヶ月前に読んだはずのブログなどを読み漁り反芻してしまう。

前評判としてみんな口を揃えて言っていたのが「今見れて良かった」と。コロナ禍に夢を追う青年を扱っていたこともあって、吐き出しきれないものを消化してくれるような要素もあったんだと思う。


私自身演劇を沢山見てきた訳ではないので偉そうな事は到底言えないけど、今まで見てきた演劇で
1番心を揺さぶられた作品。
初めて出演者キッカケじゃなくシンプルに作品として気になって観に行った演劇だった。

作品も素晴らしいし、それに付随して私があまりにも主人公と立場が重なっていたっていうのも一つ要因としてあるんだけども。

傑作ってこういう作品のことを言うんだね。


帰り無意識に遠回りをしてしまうくらい食らってしまっていた。ただ、私が感じたこの感覚は誰にも伝わらないし、伝えられないかもしれない気がした。これが舞台の醍醐味なんだ、とも思った。

主人公の凛太郎は私と同じ大学生3年生。
劇団ヨルノハテの面接で凛太郎が演劇を始めるきっかけを尋ねられた時「最近見たミュージカルがめちゃくちゃ凄くて……」と答えた。物凄く浮ついていて、ビギナーだからこそ持てる若いポテンシャルのみを武器にしてる感じ。
「こないだ初めて見たお笑いライブが本当に凄くて……」
作家スクールのオーディション(という名の面談)で志望理由を聞かれた時の私とまるで同じだった。 
 業界に詳しくなければ、コネクションもない分、熱量だけの出たとこ勝負みたいな感じが客観視するとあんなにも青いのかと開演早々ヒリヒリした。

自分自身が何も価値がないことは分かってて、やりたいことの価値は分からなくて、ただこないだ観た舞台が衝撃的で、だからやりたい。直感のみのまるで論理がなってないその感覚は恥ずかしくなるくらい自分の話だった。

程よいユーモラス要素と生々しさと生活感。


凛太郎はチャリを漕いで前に、前に、進んでいった。
凛太郎がチャリを漕いでいる時は、大体何か深く考えている時だった。
チャリを漕ぎながら物思いに耽るのは大変に気持ちがいい。その行為をしている自分自身についつい悦に浸ったりもする。

加恵さんが「駅前劇場で観た友達の演劇がすごい良くて、私は何をやってるんだろう」って突然泣き出すシーン。フッと何でもない瞬間に感情がカンストしてしまうの分かる気がして。というか涙は出なくとも良くあったりする。あと、彼女の求められたら後先考えずに何にでも手を出してしまう感じも正直めちゃくちゃ共感ができた。
あと、すぐに劇団内で付き合うんじゃないよ。
そんなん予備校行って恋愛して現役時代よりも2ランク下の大学に進学する人達と同罪だよ。

能見さんの〝自分でも何を書いてるのか分からないけど、それでもやり続けなきゃいけない〟という葛藤やら、本当はとっくに終焉が見えてもいても若者(凛太郎)に明日を教え諭す姿とか趣深くて、全夢追い人には能見さん的存在が居てほしい。あと私は三島由紀夫好きの思想が好きなのだと確信した瞬間でもあった。

凛太郎のお父さん、ノンアルビールを飲んだり、更生セミナーで言われた親の影響を気にして子供を風俗に連れて行こうとする不器用な贖罪と愛情のくすぐったさが、愛おしかった。
だからこそ、真っ当に生きてる時よりもコロナ禍になってからの方が豊かな生活ができるようになって、また酒浸りになって、元通りになってしまった時の悲しみったらなかった。

「通りで戻ってこないと思ったわ。」

治りかけていたカサブタを一気に引っぺがされたような感覚。
酒はその人の本当の姿を暴くなんて言うけども、〝好きにしたらと言って息子を自由にさせたお父さん〟も〝自分を捨てたと息子を殴ってしまうお父さん〟も、どちらも本当の姿であり本音なんだろうなと思った。

虚像の世界に憧れを抱きながら、「リアルを手に入れるんだ」なんて大矛盾の歌詞で自分を鼓舞する凛太郎のイタさ。若人よ、そういうとこやぞ。(自分も含め)

コロナの差し込み方も天災に太刀打ちできない悟りと惰性の解釈ではなく、2020年4月頃の「一体この世は今どうなってるんだ? 私達はどうなる?」という未知の感覚が懐かしいというか、むしろ新鮮な気持ちになれた。

自分達を演劇にするというメタと、
冒頭のシーンに戻るという結末。


大定石ではあるけど、使いどころと扱い方が秀逸で、これぞという結末になった。メタが成す本来の意味を伝えられたような瞬間。直接的な表現だったからこそ教養のない私にも理解ができたのかなと思ったり。

〝東京は、ここにいる限り途中だと言える場所"

「助けてください!僕はこんなところにいたくはないんです!どこかへたどり着きたいんです!ここはまだその途中のはずなんです!」

このコロナ禍の街を歩きながらそう叫ぶ凛太郎は私の心の苦味を溶かしてくれたような気がした。ビリーがロンドンへ夢を叶えに行ったように、“東京”は夢を叶える場所であるというバイアスがある。

そう思う必要がないのってある意味救いであり、ある意味では少し残酷な気もした。だって、本当の世の中はどうしたって「結果」を求めてくるから。

21歳って大人なのか? もう現実を見てなきゃいけない年齢なのかな。まだ甘ったれて生きていいのか。大人としての自覚を持たなきゃいけないのか。テレビで年下が朝ドラのヒロインやってたり、五輪でメダル取ったり、そんなのはもう慣れたけど。やはり眼前で活躍する歳下を見ると劣等感に苛まれる。Z世代ってなんやねん、一括りにすなよ。くだらん、くだらん。

そうやって避けてたものがメインストリームになって、とっくに浦島太郎になっているような気がしていた。

私が今この瞬間観るべき演劇だった。あと少し早くても理解できなかったし、あと少し遅かったら喰らいすぎて致命傷になっていたかもしれない。今このタイミングで、この環境下で、上演してくれて本当にありがとうございました。

私はまさに“自分のため”の作品だと感じたけど、演劇をやっている人とか、家族と確執がある人とか、また違った視点で”自分のため”の作品だと思えるのかもしれないと純粋に演劇の面白さを知ることもできた。

凛太郎に、こころを突き動かされた1時間40分。

2度目の面接のシーン。「最近見たミュージカルがめちゃくちゃ凄くて…………ビリー・エリオットって言うんですけど、え?どこが面白いかって?なんというか…言葉にできないんですけど、とにかく凄いんです!!」あの時の凛太郎は何を思って泣いたんだろう。面接の時具体的に答えられなかったビリー・エリオットの舞台の良さに気付けたからかな、それだけじゃないだろうけど。それもあっただろうな。洋画どころか映画もそこまで観ない私が、「リトルダンサー」を高校の授業で視聴済みだったのは運命だったのかもしれない。夢に向かってでも、惰性でも、やってきた事や学んだことは絶対無駄にならんのだなぁと、この舞台を観てひしひしと感じた。 それと共に、もっと教養があればさらに味わい深いものに感じられてたのかもしれないという後悔もある。だからもっとたくさんのものに触れなきゃ、と兜の緒を締め直されたりもして。

凛太郎、この作品で君は確実に誰かのビリーになれたよ。

「優しい」って

この作品のフライヤーで脚本・演出の蓬莱さんは、この作品は優しさを描いたと書いていた。
だとしたら、なかなかに惨い優しさだな。でも、きっと役に立つやさしさなんだろうな。

逢菜さんが描きたかった「優しい」がどんな色でどんな形のものだったのかは分からなかったけど、この作品はこの時代に必要なものであったことは確かで。少なくとも私には今まさに必要なものだった。

してもらった優しさではなく、しないでおいてくれる優しさやら、なんやらがこの世にはある。

数年後、ふとあの時のあれは優しさだったのだと気付く日が来るのかもしれない。極論、私はこの作品の優しさの部分にまだ気付けなくても良いと納得している。

だって私はまだ途中の場所にいるのだから。

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