向こうを知る

小さい頃に両親に聞いたのだけど、私の名前は、音楽と美術が好きになってほしいという思いでつけられたらしい。思い返すと、音楽や本、絵画など、芸術作品に触れる機会を両親がよくつくってくれていたなと思う。
それが自分の中では当たり前になっていて、これらを自分から求めて作品にふれて、好きだと自覚するようになったのは高校生の頃だった。

音楽には思い入れが強い。
幼稚園の頃からエレクトーンやピアノを習っていたけれど、その頃はまだ自分で演奏することにあまり楽しさを見いだせていなかった気がする。それはなぜかというと、先生から与えられた楽譜で練習をするので、そこには自主性がなかったからだ。だからどちらかというと自分の好きな曲を聞く方がよっぽど楽しくて好きだったと思う。幼稚園から小学校は、石川に住んでいたこともあって、車に乗ることが多かった。だからカーステでジュディマリとかスピッツとか色々聞いていた記憶がある。そういう小さい頃の記憶って大事だと思う。曲名は分からないけど、全部歌える、みたいな。
中学生になると周りの流行りの音楽ばかりを聴いていた。ああいう音楽ってどうしても体がノってしまうから不思議だ。卒業間近には、バンドサウンドの良さに目覚める。
高校生はとにかく色んなバンドを漁った。よく知っている友達がたくさんいて、教えたり、教えてもらったり、その過程も楽しかったんだと思う。
大学では自分もクラシックギターを始めて、いろんなジャンルの曲にふれた。クラシックはもちろん、クラギ界隈の音楽家を勉強していると、タンゴやボサノバ、ショーロとかラテンとかのブラジル、アルゼンチンやアフリカ音楽にもふれた。音楽理論とか少し勉強しなおしたりとかして、ピアノを習っていてよかったなと思えることも結構あった。そのなかで、楽器の生音を意識するようになった。フォーキーな曲がより好きになっていった気がする。もちろんバンドサウンドも好きなんだけど。

最近は、作品の「向こう側」を知りたくなる。つまり、モノをつくった「ヒト」にフォーカスするようになった。
たとえば、アーティストが新しいアルバムを出したら、各種メディアから出された音楽づくりの経緯などのインタビュー記事をこぞって読む。
これ、いいなという楽曲があったら、歌詞を調べて、アーティストがどんな人生を送ってきたのだろう、どんな環境で育ってきたのだろうとかを調べて(もちろん中には間違った情報もふくまれているので注意しないといけないのだけれど)、だからこういう歌詞を書いているのか、こういう音像をつけているのか、とかを自分なりに解釈する。

これまでの自分の解釈は、作者が意図したものを完全に把握しているのかと問われればそうではないと思うし、完全に理解する事なんてできない。
でも、少しでも、作り手の思いをくみ取ろうとする姿勢だけは貫きたいし、大事にしたいと思う。批判することなんか、頭を使わなくてもできる。
創造の過程で、きっとこんな苦労があったんだろうな、これは大変そうだなと思いを巡らすことができるようになったのは自分の中でも成長かなと思う。そういった意味では、大学院での異分野の研究に敬意を払えるようになったことにもつながっているのかな。
日の目をみることになった作品たち、すべてを尊重しているってことだ。