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病とクリエイティブのあいだ①

今年に入って、個人事業主になる道を歩み始めている。
同郷の起業家の方に、畑のアドバイザーという仕事をもらえたところから。
「業種、どうしようかなと。」
「アーティストでいいんじゃないですか?」
そんな風に言ってもらって、ポーカーフェイスで居ながら実は心の底から嗚咽が出そうになるくらい嬉しくなった。
そのうちに、「業種、アーティスト」で個人事業主登録しようとしている。
とはいえ、それだけでは収入が不足するので、四年前からやっている夜勤専従のヘルパーの仕事も続けている。
と言いながら、未だ、年金生活している両親の援助も受けている。

さて、
というか。

正直、自分が自立して生きていけるかもしれないと思える日がくるとは思わなかった。

十数年から、風変わりな医師の指導の元、精神のリハビリを受けている。
いわゆる新薬は飲んだ事はない。
いや、正確に言えば、二十二歳くらいの頃に数日間だけ飲んだことがあるか。
心療内科に通いカウンセリングを受け、そこで処方された抗不安剤。
効き目が切れたときのあまりのやりきれなさに、数日で愛想をつかし、親戚が開業した薬局にて高価な漢方薬を出してもらい、凌いだのを思い出す。
中学生の頃、既に不眠症だった。
高校時代には、授業中起きていられなくてずっと教室で寝ていた。
情緒は常に不安定。

「なんで生きていかないといけないのか。」
「なんで死ねないのか。」

生きることに絶望的になっていた二十代前半の自分のひとつの答えになってくれたのが、「農」の世界だった。

最近では、「不食」で生きている方もいるらしいが、
「生きるには食べ物が必要。それならば、食べ物を自分で作れればいいのではないか。」
図書館に行き、「農業コーナー」で手にとったのが、福岡正信さんの「わら一本の革命」だった。
当時、「電波少年」というテレビ番組が流行っていて、「アポ無し」で行きたいところに飛び込むという行動に抵抗が無かったというか、憧れてすらいた。
「わら一本の革命」の背表紙手前に書いてあった福岡正信さんのご自宅の住所をのメモを片手に、突撃訪問をする。
福岡さんの編集中だった写真版の「わら一本の革命」の確かソマリアの畑の写真だったかに何気なく一言発言したところ、

「君は、自然のことが解っていない。
もっとアホウになってから、また来なさい。」
と言われ、茫然自失で帰路に付いたのを覚えている。


程無く、友人のつてで奈良にお住まいの川口由一さんの開かれている自然農塾の存在を知る。
当時仲良くしていた同僚に、
「川口さんの鎌を十万円で買っていたら、宗教に入信したのと変わらないからもうわたしとは縁を切ってくれ。」
と言い放ち、新幹線に乗って奈良の自然農塾に通い始めた。
川口さんの自然農塾での経験は、その後のわたしの人生に大きく影響を与えた。
足掛け三年ほど奈良に通った。
川口さんと言う人は、どこまでも偉大だった。

が、、しかし、わたしは川口さんのやり方で作物を育てることが全くできなかった。
母親の古い友人に、今現在お借りしている同じ田畑の一部を借り、「百姓になる!」
と、勤めていた放課後児童会の職も辞し、今では農機具小屋として使わせていただいている地主さんの離れのお家に住み込み。
二年ほど住まわしていただいたか。
何も収穫できないまま、その頃はまだ健在だった地主のおじちゃんには、「騙されてるんじゃないのか。」と心配されながら、
結局二年経つ頃に体調を崩し、自宅に戻ることになる。

それからの記憶が、実は曖昧だ。
道ならぬ恋に身を焦がし、移住を考えていた矢先、
精神リハビリの医院に出会う。
通院し始めた頃は、「内科、泌尿器科、心療内科」だったが、ある時期から「内科、泌尿器科、リハビリテーション科」となった。
薬の処方を嫌う医師で、水晶ヒーリング、気功、タッピング、漢方、針治療、クラニオセイクラルセラピー、、様々な治療を施してもらい、自分なりにも瞑想、断食、座禅、ボイスメディテーション等々に手を出しつつ今に至っている。

まだまだ、気分に波はある。
けど、自立できそうな気分も出てきている。
四年前だったか、川口さんが年二回開かれている講座に参加した折り、わたしのことを覚えていてくださった。

「成長されたなあ。」

そのように声かけしていただいたことは、きっとずっと宝物のように覚えていると思う。

通い続ける医院の本棚に、同年代の表現者である坂口恭平さんの「独立国家のつくり方」という著書があった。あまりに衝撃を受けて、その時に進行していた見合い話を断るという決断をしたことを思い出した。
自身も長く躁鬱病を患ってきた坂口さんの最近の発言で、
「躁鬱病というか躁鬱人はそういう性質の愛すべき少数民族」(←やや、文言を変換しています。)
というのにインスパイアされている。
「インターネットはインプットでなくアウトプットで用いる」
とも。
(それで、noteをしたためているのでもあるが。)

ブランクもありつつの十数年の時間はかかったが、自然農で米や野菜を収穫できるようになった。
わたしにとっての表現は、田畑でしかない。
そこにクリエイティビティを感じ続けている。
福岡さんの言った「アホウ」の領域も微かに見えてきている気がしている。

正直、自立できるかどうかはわからない。
とりあえずパラサイト的ではあるが、税金を受けるより一応納税する側ではあるのだが。
そして、十数年前より社会は混迷をしているようだ。
非常時対応型のわたしたち(敢えて「たち」としている)には、生きやすくなってきたのか。

さて、今年も田植えにとりかかるとしよう。

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