大谷(2019)『ベーシック英語構文文法』を読みました

はてなブログが放置されているような気もするけど(非公開で)、ミーハーなのでまだ使ってなかったnoteに書いてみます。ブログとして継続されることがあるのかどうか不明です。無計画です。

読みました。『ベーシック英語構文文法』を読みました。

面白かったです。まえがきが熱いし良いです。日本語で出る構文文法に特化した入門書ははじめてとのことですが、(Goldberg 1995からの文脈で)一番よく話題になる項構造構文に詳しくページを割きつつも、構文形態論、構文の習得など周辺分野にもほどよくカバーしているのが良いです。Hilpert 2014 の影響が強いのかもしれません。

多少つっこみを入れようとすると、入れたいポイントはいくつかあるのですが、一番気になった点だけにします。この本の問題というより、構文文法全体でどう考えているのかな?という疑問が出てきたのですが。

というのは構文は意味と形式のペアだという点です。これがちょっとよくわからなくて、というのは、通常、個別の使用イベントは、意味と形式のペアだとは思うんですが(無意味な言葉遊びだってあるのでは? とかについても真剣に考える価値があると思いますが)、Langackerの内容要件的に、そこから一般化したものだけを構文として認めるということで良いと思うのですが、でも、一般化の結果、意味に関する指定はほぼないとか、形式に関する指定はほぼない、ということが起こっても別にいいですよね、と思えるんです。

たとえば音素だって言語の使用イベントからの一般化として生じると思うんですが、意味はないわけです。だから意味に全然制約がかかっていない、形式側だけに具体的な内容がある一般化があってもいいわけです。で、そうなってしまったものはもはや意味と形式のペアではないから構文とは呼ばない、ということでも、それも構文である、ということでも、用語の定義の問題なのでどっちでもいいと思うんですが、とにかく言えることは、一般化の結果どっちかがほとんど無になってもいいんじゃない? ということです(もちろん音象徴的なことを考えて音素にちょっとだけ意味がある、という路線も良いのですが、意味がなかったとしてもそこで構文文法が崩壊するわけではないでしょう)(音素には心理的実在性はない、という路線もありますが…)。

従って、大谷 2019: 127-128, Hilpert 2014: 57 で議論されている、構文文法が科学的であるために、構文は常に意味と形式のペアから成るという反証可能な主張をするのだ、という考えは私にはわからないわけです。意味極だけに具体性がある、あるいは音韻極だけに具体性がある一般化をしても別によく(言い換えると、意味極、音韻極のどっちかは「なんのパターンも見いだせないね、なんでもありだね」という一般化をしてはいけないという理由は内容要件からは特に導かれず)、そういうものを構文に含めるかどうかは用語の定義の問題に思えるからです。

ガチ感想をかきました。

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