9.メモリア(文字書きワードパレット)

真っ白なキャンバスを前に烏梟(うきょう)はおもむろに筆を取った。しかし、その筆先は何も描くことはなく、机の上の小皿に吸い込まれていった。もう何時間も同じことを繰り返して、ただ時間ばかりが過ぎていく。
 何が描きたいのか。何を表現したいのか。何度問いかけても空っぽの心は何も返してはくれなかった。
 壁にかけられた時計を見れば、もう夕方の五時半になろうとしているところだ。遠くでひぐらしの鳴く声が聴こえる。
 ――オレンジだ。
 目黒はぼんやりとそう思った。真っ白なキャンバスの中を花火のような模様を描いてオレンジ色が消えていく。もう夏休みも半ばを過ぎたというのに筆は一向に進まない。大きな溜め息と共に鼻先までずり下がってきた眼鏡を乱暴に押し上げる。
 ふと窓の外を楽しそうな話し声が通り過ぎていくのが耳に届く。それは青色だったり黄色だったり。ぐちゃぐちゃに入り混じって烏梟の中に濁りを残していく。蝉の鳴き声、車の通る音、隣の生活音、しまいには自分の息遣いすらも耳は拾い、視界を色が支配する。
 烏梟は耳を塞ぐ。誰かの、何かの残していった『色』の名残を早く消し去りたかった。それでも指の間から零れ落ちて鼓膜を震わす音に脳は勝手に色をつけていく。チカチカとする視界を振り払うようにギュッと強く目をつむる。今日はいつにもまして感覚が過敏でいけない。烏梟はおぼつかない足取りでベッドへ向かう。ベッドの上に乱雑に捨て置かれた本の山をかき分けて、横になるスペースを作る。
 良かった、ここが大学内だったら危なかったと烏梟は思う。このおかしな感覚とは古い付き合いなので、今では何事もなく過ごすことが出来るようになった。とは言え、我慢できない時もある。今日のように普段なら気にしないような雑音が気になる時。そういう時は最悪だ。仰向けになってベッドに身を沈めると背中まで伸びた長い髪が無造作に広がる。 烏梟はゆっくりと目を閉じた。
鳥梟は、昔から音に色がついて見えた。彼にとってはそれが当たり前のことだと思っていたのだが、どうやら大抵の人間はそうではないらしい。幼い頃は思ったことを何でも口にしてしまうものだから、街中に溢れる音を聞いてはあれは黄色の音をしているだとか、声を荒げる声を聴けばあの人はどうしてあんなに真っ赤な音出すのかと母親に問うたものだ。その度に母親は困惑したような表情を浮かべていたことを思い出す。何を言っているのかと烏梟の言っている意味が分からず、彼を見返す瞳には恐怖さえ浮かんでいたように思う。そういうことを他所の人に言ってはいけないと強く言われる度、理解する。自分が見えているものはおかしいことなのだと。
理解はしたが、このおかしな感覚が消えてなくなるわけではない。見えているものを、気づかないふりをして過ごすのは難しいことだ。
段々と暗くなる部屋の中で烏梟の息遣いだけが響く。強くつぶった瞼の裏を鉛色が塗りつぶす。それを烏梟はつまらない色だと思った。同時に別の男をことを思い返す。自分のようなつまらない色ではない。飴細工のような繊細な色を漂わせるあの人に。そうすれば何かが変わる気がして烏梟は体を起こした。机の上に置きっぱなしにしたままのスマートフォンが小さく光を放っている。重たい瞼で無理やり瞬きを繰り返す。ぼんやりとした頭で烏梟は思う。
光の帝国だ――と。
カチリと頭の中で歯車の合う音がした。烏梟は手探りで部屋の電気をつけると再び真っ白なキャンバスに向き合う。小皿の上で所在なさげに転がっている筆を手に取る。完成形は頭に入っていた。筆先は迷うことなくキャンバスの上に乗せられ、色をつけていく。結局、行きつく先はここしかないのかと烏梟は思った。他人の形を借りることでしか作品を作り出せない自分に自嘲する。雑音はもう耳に入ってこなかった。何度も何度も描いたことのある構図だから考えずとも腕は自然に動く。きっとまたあの人には困ったような顔をされるだろう。これでは評価をつけることが出来ない、と。自分がないのはいけないことだろうか。人と違うことは恐ろしい。だったら、何も考えず世間に流されていた方が楽だ。一心不乱に動かしていた手がピタリと止まる。
 けれど、やっぱり苦しい。
 烏梟は中途半端に描かれた絵を見つめ返す。 どんなに精巧に描きあげたとしても模造品は模造品だ。本物になることは決してない。
ーーあなたは、何を隠したかったんだ、マグリット。
絵の中の姿が見えない館の主に問いかける。返事はない。ただ明るい昼の空の下、暗闇が館を包んでいる。そこにぽつんと佇む街頭の明かりだけが館を照らしていた。
「つまらないな……」
手に持ったパレットにはたくさんの色が混じって黒く濁った汚れがこびりついていた。

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