無限定正社員についての考察|『人事と組織の経済学』を読んで

労働経済学の分野をもう少し深掘りしたくなり、こちらの本を読んでみました。

従業員個人と企業の関係について、経済学の観点から分析しています。具体的には、採用・教育・離職、組織構造・職務設計、人事評価・賃金制度・各種インセンティブなど、人事の諸分野に渡ります。

個人的には、各分野の議論も大変勉強になった一方で、経済学的なものの考え方が参考になりました。例えば、単純化・モデル化して考えることや、トレードオフの関係などです。
 本題に入る前に、今回のテーマでも重要な考え方となる、トレードオフの関係を少し詳しく解説しておこうと思います。

1.トレードオフの考え方

経済学的には、世の中には経済学的に合理的な人しかいないと想定して、二つの選択肢があった場合、それぞれのコストとベネフィットを総合的に考えて、最も合理的な判断をする、と考えます(この辺りへのアンチテーゼが行動経済学になるわけです)。
 今回重要なのは、あらゆる選択にはコストとベネフィットが存在し、そのトレードオフの関係の中で、各自がそれぞれの価値観に基づいて判断をするという点です。

例えば、人を採用しようと思った時に、AさんとBさんから応募があったとします。そして選考過程を経た結果、Aさんの方がBさんよりも能力が高いことが分かった。となると、多くの企業で、能力が高いAさんを採用したくなるでしょう。
 しかし、その裏のコストも踏まえた判断をしなければなりません。要するに、能力が高い人には良い待遇が必要ということです。

そのため適切な判断を行うのであれば、それぞれにかかるコストと、会社にもたらすベネフィットをAさんとBさんとで比較する必要があります。企業によって、仕事の内容が異なるので、場合によっては能力の差が、ベネフィットの差にそれほど結び付かないこともあります。すると、能力が若干劣っているBさんを採用することが正しい選択となることもあるわけです。

では、このコストとベネフィットのトレードオフの関係を念頭に置いて、日本の雇用についてみていきたいと思います。

2.日本型雇用における広範な人事異動のメリット

日本の正社員は、広範な人事異動が行われ、職種や職務の内容、あるいは勤務地に限定なく働かされることが一般的です。これは、無限定正社員と呼ばれていて、昨今その弊害が様々な場所で叫ばれています。
 特に勤務地の限定がない点は、労働者側の不利益性が高く、問題視されているところです。
(都市伝説のように言い伝えられていますが、「家を建てたら/子どもが生まれたら、簡単には企業を辞めることができない状態になるから、勤務地の変更をさせられる」というのを、お聞きになったことはないでしょうか。まさに勤務地の変更は生活圏の変更と直結することから、不利益性が大きいですよね)。

この広範な人事異動には、コストとベネフィットが存在します。そして、人事異動を行わない限定的な雇用という選択肢と比べて、広範な人事異動を行う方が、メリットが上回っているからこそ、このような制度が今なお残り続けているのだと考えられます。

では、どのようなコストとベネフィットがあるでしょうか。「広範な人事異動」と「限定的な雇用」を比較してみましょう。

(1)教育投資と専門性

まず一般論として、従業員に新しい仕事を担当してもらうには、教育が必要です。教育を受けると、生産性が向上しますが、一方でコストがかかります。このコストには、目に見える研修費などのコストだけでなく、指導役の従業員の労務費、受講側の従業員の労務費など、目に見えないコストも含まれます。
 こうしたコストと、教育受講後の生産性の向上幅を比較して、教育に投資をするかどうかを判断します。

無限定社員が異動をした場合、新しい仕事を任されることがあります。その場合、新しい仕事を担当するために教育が必要です。そのため、限定的な雇用で同じ分野の仕事だけを任せているよりも、広範な人事異動を行う場合、教育コストが余分にかかると言えるでしょう。
 さらに、異動前の部署で受けた教育や、身に着けた専門的な知識を、新しい部署で活かすことができるとは限らないため、それまでの教育コストが無駄になる可能性があります。少なくとも、同じ分野の仕事を任せているよりも、これらの教育や知識を活かせているとは言えません。

よって、教育投資や専門性を育成するという観点からは、広範な人事異動は、限定的な雇用よりも合理的であるとは言えません。

(2)新卒採用と中途採用

経済情勢や経営方針の変更、新規事業の立ち上げなどがあった場合に、対応する人をどのように割り当てるか。あるいは、上位職が定年等で退職した場合に、どのように補填するか考えてみましょう。

広範な人事異動を行うことができる場合、状況に応じてかなり柔軟な人事異動を行うことで、対応可能です。また上位職の退職については、下位職を順次玉突き異動することによって、補填することができ、最終的には、新卒採用に空席を集めることができます。
 一方で、限定的な雇用を行っている場合、新しい事業を行おうと思ったら人を採用しないといけません。退職によって生じた空席の補填も同様です。実際には、社内公募→不足分は外部から採用、という流れを取りますが、確実に人を採用できるわけではなく、また企業が望んだ人を割り当てられるわけではないので、不確実性が残ります。
 そのため、広範な人事異動には、限定的な雇用よりも、組織の変更を柔軟に行うことができ、採用コストを低減できるというメリットがあります。

一方で先に言及したように、人事異動により新しい仕事を担当させるためには、教育コストがかかります。社内公募や中途採用で対応した場合は、その時点で求められる能力を持っているか確認できるため、教育コストを少なくすることができます。この辺りはトレードオフと言えるでしょう。

(3)社内情報伝達コスト・社内調整コストの低減

組織が大きくなるにしたがって、組織間で情報を伝達するコストがかかるようになります。イメージとしては、子どものころにやった伝言ゲームと同じ原理です。伝言ゲームでは最初の情報と最後の情報は大きく変わることがありますが、ビジネスでそんなに変わっては困りますので、変わらないようによりコストをかけて伝達をしなければなりません。
 情報を伝達する際に、共通認識や共通言語を持っていれば、伝達コストを省力化できます。例えば「210501」という6桁の数字が、「2021年5月1日」のことを指しているという共通認識があれば、6桁の数字だけで日付を伝えることができます。一方で海外では「21日5月2001年」と解釈する可能性もあるので、もし共通認識がなければ、その点も補足しなければなりません。

広範な人事異動により、様々な部署を経験することにより、それぞれの部署に存在する共通言語を習得することができます。それにより仮に多部署へ異動した後でも、情報伝達コストを抑えた状態で、情報のやり取りをすることが可能となります。さらには、他部署を巻き込んで何かを行う際に、社内の調整コストも同様に省力化可能となります。
 この点は、限定的な雇用では問題となりやすい点です。そのため、限定的な雇用が主流の海外企業であっても、管理職層については広範な人事異動を行い、社内情報伝達コストや社内調整コストの低減を図ることがあります。

個人的には、社内情報伝達コストや社内調整コストの低減こそが、広範な人事異動を行う最大の理由なのではないか、と考えています。
 その背景として、日本の組織においては、意思決定者が曖昧で関係者全員の合意が必要となることが多く、そのためには根回しと政治力により、事前に合意を取っておくことが重要となる、という特徴があるのではないかと推察しています。

3.新しい組織の方向性

日本の組織の特徴ともいえる、高い社内情報伝達コストと社内調整コストを引き継いでいない、新しい組織においては、話が大きく変わってきます。これらのコストを気にしなくても良い場合、必ずしも広範な人事異動を行わなくても良いわけです。
 むしろこれまで見てきたように、広範な人事異動には弊害も大きいことから、限定的な雇用を中心とした、専門性をより重視する傾向が強くなることもあり得ます。

ここから先は新しい組織の方向性について、少し拡大的に考えてみたいと思います。

(1)専門性を最大限生かす組織

限定的な雇用を行う場合、教育投資により専門性を継続的に高めていくことが可能となり、生産性は向上するでしょう。
 その一方で、能力や資質に合わせた適正配置もより重要になります。なぜなら長期間同じ分野の仕事をすることになるからです。そのため、新卒採用時の見極めや、中途採用での経験者の活用が重要となってきます。

現実的には、新卒採用時点で各自の専門性を見極めることは、現在の高等教育では難しいです。そのため、新卒採用時点から10年程度は、専門性を見極めるための期間として、広範な人事異動を行う必要性を残す必要があるかもしれません。異動については、また別の機会に深めてみたいと思います。

(2)報酬体系はどうするか

広範な人事異動を行っていた場合、異動により賃金が大きく変動することが無いように、職能給制度を活用することが一般的でした。簡単に言えば、その人が持つ潜在的な能力に対して、賃金を決める。それにより、異動したとしても潜在的能力がなくなるわけではないので、賃金を下げずに済む、ということです。

一方、限定的な雇用を行う場合は、報酬体系はよりシンプルにすることが可能となります。専門的な能力の向上に対して賃金を決めることも、発揮した能力≒成果に対して賃金を決めることも可能となるわけです。
 なお、ここで注意していただきたいのは、限定的な雇用だからと言って、自動的に職務給制度となるわけではない点です。必ずしもポストに対して決められた賃金を払う必要はなく、能力の向上に対してインセンティブを持たせたい場合には、職能給制度を活用しても構いません。
 むしろ、賃金制度はインセンティブに関わってくることから、どのような組織を作り、職務の範囲をどのように決め、どのように働いてもらうか、という組織設計の観点から考えなければなりません。

ここで言いたいことは、異動による賃金変動という要素がなくなることで、よりシンプルかつ幅広い選択肢から、賃金制度を考えることができるようになる、ということです。

(3)労働者の自律が必要

限定的な雇用の弊害として、雇用の不安定化が考えられます。例えば、ある工場を閉鎖するとなった場合に、その工場の従業員を異動させることが難しいため、解雇せざるを得なくなります。
 もちろん、他工場や他の職種への異動を提案して、従業員が合意すれば異動もあり得るでしょうが、全員がそれを受け入れるとは限りません。

この点は企業というよりも労働者の不利益と言えますが、この弊害を回避するためには、自身のキャリアを自身で考える、より自律した労働者になる必要があります。
 要するに、会社に自身のキャリアを委ねていては、いつ途切れることになるか分かりません。そのため、自身で自身の能力を高めるための活動を行ったり、将来を見越した転職をしたり、自分で責任をもって考えていかねばなりません。

もう一つの回避策は、労働組合活動をより活発に行うというものです。といっても、ストライキせよとかそういうことを言いたいのではなく、例えば、工場の閉鎖について、より早い段階から情報を入手し、可能な限り閉鎖を遅くすることを交渉するとか、教育コストを会社が負担することを求めることで、従来の従業員を再教育して、別の部署への異動させて、雇用を確保するとか、会社としっかりと交渉していくということです。
 これは会社側にもメリットがあります。労働組合と協議した上で会社として決定していくことにより、労働者側の納得感が高まるという点です。

ここまで、自分でも考えながらまとめてきましたが、ふと日本の人事異動にはジョブ型雇用の人事異動とは違う要素が含まれていることに気付きました。次回は人事異動について、考えてみたいと思います。


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