世界と日本におけるトランスジェンダーアスリート 貞升 彩(月刊スポーツメディスン248号、連載 スポーツにおけるLGBTQ+、トランスジェンダーアスリートに関連した倫理的課題 第2回)


貞升 彩
整形外科医師・医学博士、スポーツ倫理・インテグリティ修士、日本スポーツ協会公認スポーツドクター、千葉大学大学院医学研究院整形外科学客員准教授

連載目次
https://note.com/asano_masashi/n/n9fe1bc399ce6

はじめに

 昨今、LGBTQ+アスリートの中でもトランスジェンダーアスリートに関する議論が多く見られるようになっている。その理由としては、トランスジェンダーアスリートのうちとくにMTF(=トランスジェンダーウーマン、トランスウーマン)アスリートの女子カテゴリーへの参加について、インクルージョンが優先されるべきか、平等な競技への参加の機会や競技の公平性は保たれるのか、女子選手の安全性、それからスポーツにおける女性の権利が脅かされる可能性など倫理的課題が多く散見されるためである 1)。そこで、今月号ではトランスジェンダーアスリートに注目して、果たして、日本も含めた世界において具体的にどの国の、どのスポーツでトランスジェンダーアスリートは活躍してきたのか、彼らの国の社会的背景などに注目して紹介していきたいと思う。

 私は2020年から2022年まで欧州委員会の運営する大学院プログラムであるErasmus Mundus Joint Master of Arts in Sports Ethics and Integrity(MAiSI)に在籍し、スポーツ倫理・スポーツインテグリティの学位を取得した。同学部は世界で初めてスポーツ倫理・スポーツインテグリティの学位が取得可能な大学院として設立され、私はトランスジェンダーアスリート課題についてより見識を深めるために留学した。そして、在学中の2年間で行った研究が、今回のテーマでもある「日本と世界におけるトランスジェンダーアスリートの実際」 2)であり、この研究を参考にして今回の議論を行う。まず初めに、世界におけるトランスジェンダーアスリート、次に日本におけるトランスジェンダーアスリートをそれぞれ、最近活躍している選手を中心に焦点を当てたいと思う。そして、次に各地域の社会的背景とトランスジェンダーの人々を含めたLGBTQ+の人々が抱える困難を論じる。

世界におけるトランスジェンダーアスリート

 ここ数年で最も注目されたトランスジェンダーアスリートと言えば、MTFアスリートであり、東京オリンピックにニュージーランド・ウェイトリフティング女子代表として参加したローレル・ハバード選手だろう。ハバード選手は男子選手として活躍していたときの最も大きな成果は国内ジュニア記録樹立とされている。そして、オリンピックの歴史上、初めて性別カテゴリーを変更して出場した選手となった 3)。実はほかに2名のトランスジェンダーアスリートがオリンピックに参加、候補選手として登録されていたのは知っているだろうか。1名はカナダの女子サッカー代表のレベッカ・クィン選手である。クィン選手はFTMでもノンバイナリーでもあるということを自身のソーシャルメディアで公表し、性別カテゴリーを変更することなく女子選手として参加した。カナダサッカー女子代表は金メダルを獲得しており、初めてトランスジェンダーアスリートとしてメダルを獲得したアスリートとして注目された 4)。3人目は、アメリカBMX女子代表のチェルシー・ウォルフ選手であり、大会への出場機会はなかったものの補欠選手として登録された 5)。

 さて、これまでニュージーランド、アメリカ、カナダなどいわゆる欧米の民主主義で、経済的にも恵まれている国の選手を紹介してきたが、視点を変え、文化的背景が異なるトランスジェンダーアスリートについて紹介したいと思う。1人目はアメリカ領サモアの、元男子サッカー代表のジャイア・サエルア氏である 6)。ジャイア氏は世界で初めてW杯予選に出場した選手である。ジャイア氏はMTFであるが、性別カテゴリーを変えず男子代表として活躍し、2006年W杯予選に出場した。実はサモアでは、法律上はLGBTQ+の人々に対して刑事罰が導入されている 7)。ではなぜジャイア氏は弾圧など受けずに表舞台で活躍できたか気になるところである。実は、刑事罰が導入されたのはかつての宗主国の影響であり、現在は法律は形骸化し、この法律の下で実際に処罰された人はいないと言われている。そのため、法律上の規定はまだあるもののサルエア氏は目立った活躍ができるのである。

 アジア圏のタイでは、ムエタイのパリンヤー・ジャルーンポン氏がMTFアスリートとして活躍した 8)。男性アスリートとして活躍していた頃は国内レベルの選手だったが、19歳で性別変更を行い、そして性別カテゴリーを変更した後は女性アスリートとして国際レベルまで上り詰めた。アジア圏の中ではトランスジェンダーに関して“先進国”であるタイでは、ジャルーンポン氏のほかにムエタイにもう1人、そして陸上界にも1人トランスジェンダーアスリートがこれまでに活躍してきた(カコミ記事)。

 さて最後にアフリカ圏からウガンダの水泳選手を紹介する。Adebayo Katiiti選手はFTM選手である 8)。性別移行前は女子サッカー選手として国内トップレベルで活躍していた。その後トランスジェンダーであることをカムアウトし、男子選手として今度は水泳界で活動を開始しようと、カナダに渡りLGBTQ+の大会に出場する。しかしこの大会出場をきっかけに、大きな壁がAdebayo選手に立ちはだかる。ウガンダではLGBTQ+に対して保守的な考えがまだ一般的であり、LGBTQ+の人々は言葉により差別されるだけにとどまらず、暴行の対象となったり、そして逮捕され長期収容されたりする危険まである。Adebayo選手は自身の家族にまで脅迫されるようになり「邪悪な者」と呼ばれるようになってしまう。そして、ついに逮捕された。その際、服を脱がされ暴行を受けた挙句写真を撮られるという屈辱的被害を警察から受ける。Adebayo選手は最終的にカナダへの亡命を決意する。

 私たち日本人は普段から国外のニュースと言うと欧米のニュースに注目をしがちであり、広く世界を見渡すことを忘れてしまう。トランスジェンダーアスリートはもちろんLGBTQ+の認知が進んでいる欧米に多いのだが、実はアフリカにも日本以外のアジアにもこのように存在する。そして、一人一人のバックグラウンドや抱える困難も様々である。彼らを知ることにより、その国が抱える事情や文化を知ることができる。

日本におけるトランスジェンダーアスリート

 日本では現役選手がトランスジェンダーであるとカムアウトするということは少ない。しかし、東京オリンピック開催を目前とした2021年6月に、サッカー女子元日本代表であり、現在はアメリカ女子サッカーリーグに所属する横山久美選手がトランスジェンダー(FTM)であるということを自身の動画サイトとSNSで公表した 9)。また同年にはアメリカ国内で入籍をしたということもメディアで報道された。横山選手は性別カテゴリーを変更することなく女子チームの選手として今もアメリカで活躍している。カナダのクィン選手をはじめ、昨今では自身のSNSでジェンダーアイデンティティをカムアウトするというのは1つのトレンドになっているように見受けられる。

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